駅での出会い

もくう

 

 お腹が空いた。わたしは額ににじんだ汗を拭って時計を睨んだ。本当なら今頃涼しい電車の中で彼とお話していたはずなのに! 先刻彼から寝坊のため遅れる旨の連絡がきたのである。信じられない! わたしとのデートの日に寝坊するなんて、でもまあいいわ、きっと楽しみで昨日の夜眠れなかったのね。そう考えて少女はまた汗を拭った。彼がステキなランチが食べられるレストランに連れていってくれるって言ったから、朝ごはんをあんまり食べていないのよ。いらいらと携帯電話を睨んでいると、不意に横から声がした。

 

「やーやー、お姉さん、一人かな?」

 

 あら、あら! もしかしてこれは、俗に言うナンパというやつかしら! ナンパだなんて、初めてだわ。とりあえず、何か答えなくてはいけないわね。

 

「人を待っているんですっ!」

 

 思ったより上ずった声が出た。

 

「そっかーじゃあその人が来るまでお話しない? かわいいお姉さん?」

 

 ナンパだわ、これは絶対ナンパ! 早くなる心臓の音を感じながら、そうっとわたしは声の方に目を向けた。あらっ! イケメン! この人すごく綺麗な顔をしている! 芸能人か何かかしら? 軽く固まったわたしに、青年はにかっと笑いかける。

 

「ボクは――って言うんだ。お姉さんの名前は?」

 

 あんまり綺麗な顔なので斜め上の時計の方に視線をずらしながらわたしは、この人は下の名前を言ったわね、だったらわたしも下の名前を答えなくちゃあならないのかしら。と思い、少し躊躇ってから

 

「とおる」

 

 と口にした。そうすると彼は反対方向に首を傾けてこちらにきらきらした目の輝きを投げ込み、男の人にしては少し高い声をはね上げた。

 

「とーるさんか! 文字はすきとおるの透?」

 

 男っぽい、わたしの名前。この人の声にのって届くと、やけに綺麗に聞こえる。

 

「そうよ」

 

 黙ってにこにことこちらを見つめてくるきらきらした瞳にたえきれず、

 

「何をお話するの?」

 

 と聞けば彼は目をくるりと太陽に向けて、並の女の子なんかよりかわいらしくうーん、と声を出した。

 

「お姉さんは待ってる人と、どこに行くの? デート?」

 

 デートに行くと思っているのなら、なぜ声をかけるのかしら。でもこんなに綺麗な顔をしていたら、多少空気が読めなくたって、許されるわよねえ。

 

「そうですよ。わたしはデートに行くんです。とびきり素敵な彼と!」

 

 わたしはあの夜の、「月が綺麗ですね」を思い出しながらにっこりと言った。

 

「でもでも、お姉さんは待たされてる。こんなにかわいい女の人を待たせるだなんてけしからん男だねぇ」

 

 そうよ、そうよ。このわたしを待たせるだなんて。ありえないわ。

 

「寝坊したんですって。あの人が言い出したお出かけなのに」

 

 苦々しく呟き、それをわたしに伝えた携帯電話をじっと睨みつける。

 

「あーもー、ダメダメ。そんな怖い顔しちゃ。ボクお姉さんの笑顔がみたいなー!」

 

 きらきらと笑いかけられて、わたしはつられるように笑みをこぼした。

 

「貴方は? 貴方はどうしてこの駅に一人でいるんです?」

 

 まさか最初から”お姉さん”目的ではあるまいと問うてみた。

 

「ボク? ボクも似たようなものだよー。今日は遊ぶ約束をしてたんだけどさっ。ドタキャンされちゃったの……えーん。ボク悲しいー」

 

 手をめもとにもってくるあわざとらしい嘘泣きに思わず笑い声を上げた。

 

 ああ、いい事を思いついた。

 

「ねえ、それなら、わたしとおひるごはんを食べませんか? まだ何も食べていなくて、お腹が空いてしまったの」

 

 年上の余裕、を意識して目の前の青年に提案を投げかけてみる。ええーっほんとにぃー! と声を弾ませる彼の綺麗な顔を見つめながら、わたしは立ち上がった。そう言えば、この人の名前なんだったかしら? と考えながら、歩き出す。

 それ以来、彼女の姿を見た者はいない。