蝶々の子供
これはシキシジミという蝶の村と藤一という少年の物語である。
***
この白梅はいくらか寂れた感じのする痩せた老木である。濡れているような黒い枝に小さな花をぽっぽとつけて、そうして花はなかなか散らない。幾春もそれを繰り返してきた貫禄がこの木にはあった。
その梅の木は枯れかけた川のほとりにある。
そして学校の帰りだろうか。その梅のそばをぱたぱたと駆けていく十歳くらいの子供たちと、その五歩ほど後ろをついていく一人の太った少年の姿があった。
子供らは笑っている。やがて土手を駆け下り下駄を脱ぎだして、ほの温かい草の上で遊びはじめた。遊びながら、子供らは途轍もなく顔を歪めて笑っていた。
自分の容姿に少しでも自負している大人が見れば、気味が悪いと目をそらすだろう。または、哀れみの表情を向けるかも知れない。当然だ。
この村の子供らは、醜い。
一人残らず醜い。
親さえ思わず目を逸らしてしまうほどに。
藤一は、なかでもいっとう不器量な少年だった。藤一とは、少年たちの後ろを一人で歩いていた少年である。眼、鼻、口。ひとつも見られたものではない。目蓋が分厚く眼を覆っているために目を開けているのか、それとも閉じているのか、まるでわからない。まるで金魚の糞のように細いその両目の間は、拳一つ分くらい離れて、異様に垂れ下がっている。鼻は上をむき過ぎていて不恰好だ。鼻の穴の中、その鼻毛までよく見える。その鼻毛にはよく大きな鼻糞が絡まっているのが見えた。そして、口元。下唇が上唇の二倍以上の分厚さがあって、浅黒い。歯の噛み合わせが悪く、下顎が突き出していて大きく右にずれていた。ただ、唯一耳朶ばかりは小さくて、白梅の花弁のような可愛らしさがあった。
彼以外の少年達だって醜いことに違いはない。しかし、藤一以上の醜男はこの村中探してもいるはずがなかったし、彼自身もそのことは十分に理解していた。
だから、藤一は鏡が嫌いだった。鏡ばかりではない。川の水面も、水瓶の水も、澄んだものであればあるほど、藤一は哀しく目を伏せた。
そして、遊び始めた子供らをしばらく眺めていた藤一は一緒に土手を降りてきたものの、そこに交ざることなくまた歩き始めた。
帰途に着く藤一の足取りは重い。
今日は組替えの日だった。仲のよかった勘助や隆とは違う組になってしまって、もう、その容姿を馬鹿にされる藤一をかばってくれる級友はいなくなってしまった。
同じ組には、武夫も由紀治もいた。けれども、彼らは新しい組のガキ大将に虐められる藤一を見ても鼻で笑うばかりで何もしてはくれなかった。友達ってそういうものなんだなと、藤一はひとり納得した。
虐められる理由はもちろんその醜い顔のせいだった。自分はいったい、こんな惨めな顔に生まれなくてはならないほど、何か悪いことでもしたのだろうか。どこかに映った醜い自分と目が合うたびに、藤一はいつも泣き出したくなる。気が付けば、鼻頭と耳を真っ赤にして、眉根をぎゅっと寄せた醜い影が、川の水面にそろりと浮いている。その影をめだかは避けて泳いで行った。
それでも藤一はどれだけその容姿を蔑まれようと学校に行くのが嫌だと思ったことはなかった。醜い顔、病床で死の気配を漂わせている母、自分にも必ず訪れる早すぎる死。それら全てを忘れさせてくれるたったひとつのものは勉強だった。藤一は醜い代わりに明晰な頭脳を持っていたわけではない。ただ勉強が好きだったから、周りの子らが友達と遊んでいる代わりに、勉強という最大の娯楽に興じていたという、それだけだ。
ぽてぽてと歩いていると、やっと藤一と母の住む茅屋が見えてきた。貧しくて母の薬も満足に買えないその家は、不幸の香りが滲んでいた。この村にはそういう家がたくさんある。土の性質のせいか農作物が満足に育たない。そして、『奨学生』とごく一部の女性しか村を離れることを許されない掟があるせいで、出稼ぎにもいけない。それでも、藤一は母の前では明るく務めていた。今日は床に伏す母になんの話をしてやろう。新しく担任になった、寅夫先生の話でもしてやろうか。
寅夫のことを考えて、藤一の足は軽くなった。家に向かって駆け出そうとした時、藤一の隣の家に一人住む鶴子が、息を切らせてやってきた。
「…………藤一、藤一! おばさんが」
白くて丸い美しい額には玉のような汗が浮かんでいる。鶴子は藤一の腕を掴んで走り出した。
藤一は鶴子を見たときから何が起こったのか、なんとなく予想していた。母親がとうとう最後の花弁を散らした。美しかったその顔はげっそり痩けていて、目は落ち窪んでいた。藤一は、ああ自分はほんとうに一人になってしまったのだなと思うばかりで、案外自分が淡白であることに驚いていた。
この村の人間は早逝で、三十にもなればほとんどが病になって死ぬ。病に侵されずとも若くして老衰で死んでいく。この村の人間は皆そうなのだ。
鶴子は泣いた。でも藤一は泣けなかった。
母親の葬式が済んで、藤一は学校に行き出した。この村は小さいから、誰が死んだ、誰が『羽化の儀』を迎えたっていう噂はすぐに広まる。藤一は始業ぎりぎりの時間に来たけれどその日は彼を馬鹿にする者はいなかった。皆んな幼いなりに神妙な顔をして、藤一と挨拶を交わした。
藤一にとってその日は進級して二度目の登校だったから、慣れない自分の席を探そうとした。ところが、おかしいのだ。空いている席がない。たしかあの日は窓際の最前列に座っていたはず…………。
藤一が座るはずの席には見たこともない少女が座っていた。
藤一はこの時初めて可愛らしい子供というものを見た。もっとも整った顔立ちではなくやはりこの村の血を引く者の顔だったのだけれどそれでも彼女はどこか垢抜けていた。輪郭、鼻、目。どれもこれも藤一とはまるで違っていた。この少女は一体誰なのだろう。そう思った時、由紀治と武夫が藤一を廊下に引っ張って行った。
「お前は、あいつのこと知らないんだろう」
あいつとはきっとあの少女のことだ。
「うん…………あの子、誰なの?」
「驚くなよ。あいつ、街から来たんだ」
「えっ?」
この『村』の人間は基本的に外に出ることを許されていない。またその逆も言える。『村』の外の人間を入れることも許されていなかった。
「今、戦争? やってんだろ。小学校も国民学校? になったって寅夫先生が言ってたぜ。俺ら『村』の人間はあんまり実感わかないんだけどさ」
「そうそう。それに反対して親が死んだらし……」
由紀治の口を手で覆ってその言葉を武夫が遮った。
「とにかくさ、藤一がいない間に来たんだ。寅夫先生がとりあえずお前の席に座っとけって言ってたから」
藤一は適当に相槌を打って、今日はどこに座ろうかなあと、その時は呑気なことを思っていた。
「あと、お前が来る前に寅夫先生が探してたぜ。なんか話があるって」
わかったと返事をして藤一は教室に戻った。
その日の放課後、藤一は寅夫に呼ばれて教室にいた。そこにはあの少女もいた。
「寅夫先生。何ですか?」
「君に、紹介したい人がいるんだ」
寅夫は生徒に対して横柄な態度はとらない。藤一は物腰柔らかに話す彼を自分の担任になる前から知っていて、気に入っていた。
あの少女のことだろうか。藤一が彼女の方を見たとき寅夫は察したように笑った。
「ああ、君たちは自己紹介がまだだったね。こちらは雪子さん。こっちは藤一君だよ」
「はじめまして」
ぺこりとお辞儀をした雪子の鈴のなるような声に藤一は顔を熱らせた。
「それでね」
寅夫が真剣な表情になった。
「藤一君、お母さんが亡くなられたんだよね」
「…………はい」
「雪子さんもそうなんだ。この村ではみんな早くに死でしまう。だからそんな子供たちが中学に上がるまでの間、面倒を見ている人がいるんだ。雪子さんも今、その人の家に住んでいる」
寅夫は、一度言葉を切って藤一の頭を撫でた。
「君のことは職員室でよく聞いていたよ。噂なんかよりずっと君はいい子だし、喋り方からも賢い子だってわかる。きっと大きくなったら『奨学生』になれるだろうね」
でも、と寅夫は言った。
「藤一君はまだ子供だよ。悲しい時は悲しいって言ってもいいんだ」
今まで藤一は病気の母を困らせまいと、自分がしっかりしなくてはいけないのだという意思を持って感情のままの表情をしたことがない。でも寅夫はそれを許した。藤一は雪子がそこにいることも忘れて泣いた。
藤一が落ち着いきて寅夫は話を再開させた。
「それで、その雪子さんの面倒を見ている人がね、僕の幼馴染で、掟を破った街に降りたんだけど最近村に戻ってきたんだ。なかなか変わった人なんだけど。会ってみるかい?」
「はい。是非」
藤一は雪子に続いて山を登っていた。
「本当に、こんなところに家なんてあるの?」
「もちろん。すごく大きいお家よ」
それから歩くこと二十分。急に木々が消えて大きな洋館が現れた。重厚な扉が開かれると、中から綺麗な顔の青年が現れた。
「君が藤一か」
「はい」
その男は変に大きい下駄を履いて、一面に橙色や藍色や黄緑色の大きな千鳥柄の描かれた着物を着ていた。
そして男は藤一を家に招き入れた。男は田嶋と名乗った。家の中には絵画が沢山飾ってあった。それらは全て男の作品だった。
そして三人の生活が始まり、二ヶ月が過ぎたある日、寅夫は学校に来なかった。代わりに来た教師は今日一日で藤一の頭を二発叩いた。その次の日も、そのまた次の日も。
藤一は不思議に思って田嶋に訊ねた。
「君らに言わなかったのか、あいつは」
田嶋は大きく溜息をついた。
「あの男は戦争に行った。と言っても藤一にはイメージしにくいか。雪子は街に住んでいたから分かるだろう?」
雪子は頷くのも忘れて震えてる。
「戦争に行くって?」
「兵隊になったんだ。戦争っていうのは簡単に言えば殺し合いのこと。奨学生は村のお金で学費を払い、戸籍を買う。だから寅夫は」
「そんなはずない!」
藤一は田嶋の言葉を遮った。
「先生が殺し合いなんて…………」
藤一は家を飛び出した。雪子と田嶋は彼を追う。
「寅夫先生!」
藤一は空に向かって叫んだ。けれども、その声は轟音に掻き消されて届かなかった。そんな彼の肩に田嶋はそっと手を添える。
「大丈夫。奴はそんな簡単に死ぬ男じゃない」
山の上から街を俯瞰している醜い少年と少女、美しい男に、飛行機が影を落とした。狂舞するシキシジミの下では街がまるごと焼けていた。
***
桜の散るさまに見惚れるのは虚無をほんとうに知らない人だ。藤一はそう思う。
ほんとうにその虚無を知っている人は、桜より梅に心のよりどころを求める。寒々としたなかで咲く花の凛々しさや、幹や枝の逞しさに憧れを覚える。
己にないものを求め、人はそこに美しさを感じる。藤一は、人一倍醜い容姿のせいで、憂い精神を持っている。そのせいか、いくらかみすぼらしいけれど力強いこの老梅を、誰よりも好いていた。
「藤一、探したよ。また村に降りていたのか」
「田嶋先生…………何か御用で?」
「用がなくちゃ人を訪ねに行かないのは芸術家ではない人間だ」
山の中腹にある洋館を降りて藤一は老梅を眺めるために川のほとりに来ていた。
藤一は相変わらず田嶋の家で暮らしている。この五年間、二人の関係は大きく変わっていた。
「君がこの前描いた絵、すごいお金になったよ。柔らかくて軽やかな色使いと細やかさがいいんだとさ。このご時世に売れる絵を描くなんて、やるようになったな」
「先生、また人の絵を勝手に売って…………
また、街に降りたんですか」
「ああ。人ってすごいね。あんな焼け野原がもうすっかり元通りだ」
「いい加減にしてください」
二人は師弟になっていた。一緒に住み始めた頃のよそよそしさはもうない。二人には父子のようなところはないけれど、協調性のない芸術家と、リアリストの天才の同居は案外うまくいっていた。
「藤一! 田嶋先生!」
「雪子ちゃんも来たの?」
「ねえ藤一、今聞いたんだけどね」
雪子は少しいうのをためらって、口を開いた。
「…………あのね、明日の始業式、勘助と由紀治がね」
「そうか、二人とも『羽化の儀』を迎えたんだ」
「うん…………たぶん、他にももっといるよ」
『羽化の儀』。それはこの村の人間には必ず訪れる不思議な現象。口から白い糸を吐き、シキシジミのような蛹を作って、それがすっぽりと体を覆う。その蛹の中で体がどろどろになって、そして数ヶ月後には元の醜い姿は一変、美しい大人に変わる。それは思春期に訪れることが多い。
「藤一は、怖くないの」
雪子が咎めるように訊ねた。
怖いものか。記憶がなくなるわけではない。自分が自分であることに何ら変わりはない。藤一は自信を持ってそう言い放った。何より、この醜い容姿から解放されるのなら、記憶がなくなろうが構わなかった。もうなんだってよかった。
「藤一は、羽化する前の鶴子さんを知っているの」
「鶴子さん?」
「そうよ、鶴子さん。私は覚えている」
鶴子が羽化してもう七年になる。雪子がその前の鶴子のことを知るはずがない。藤一は雪子に怪訝な目を向けた。
「鶴子さんのお母さんは私の叔母さん、つまり私のお母さんのお姉さんなの。だから七年前の叔母さんがなくなって葬儀も済んだあの晩、私とお母さんは鶴子さんを引き取るつもりでこっそりこの村に戻ってきたわ」
藤一は目を丸くした。鶴子と雪子が従姉妹だったなんて。
「鶴子さんは、お顔は醜かったけれど初めて見る従妹の私にも優しい穏やかな人で、でもはっきりとひとりぼっちでもこの村に残るって言っていた、強い人だった」
藤一はそんなことは知らなかった。でも今の話が本当ならば、たしか鶴子さんが羽化の儀を迎えたのはその翌日だと言うことになる。
「そんな鶴子さんが変わってしまったのは羽化を終えてからじゃないかしら。違う?」
そうだった。
「藤一、羽化したら確かに美しい容姿を手に入れられるわ。この村では子供の頃に醜い者ほど美しくなる。でもね、それが必ずしも幸福なことじゃないことは忘れないで」
お前に俺の何がわかるんだ。そう言おうとした。けれど雪子があまりにも真剣な顔で言うものだから何も言い返せなかった。
「…………怖いものか」
藤一は確かめるように、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「絵の才能がなくなるかも知れないよ。田嶋先生に、見放されるかも」
「先生がそんなことするもんか。それに…………この顔が変わるんならそれでもいい」
絵を描けなくなるのは嫌だ。もしかして、鶴子も羽化する前には何か好きなことがあったのではないだろうか。その才能が失われて、あんなふうになったのだろうか。
「藤一、シキシジミはもういなくなってしまった。じゃあ、今度はどんな蝶々を売り出すと思う?」
「…………揚羽蝶?」
「そんなもの、どこにだっているわ」
「じゃあ、どんな?」
「いるじゃない。本物の蝶々よりもよく売れる蝶が」
「…………」
その蝶が何であるのか、藤一にはわかってしまった。その蝶は女性だ。
じゃあ雪子の母親もそうだったのではないか。そして村の掟を破り街の人間と結ばれて雪子が生まれた。けれど、それを雪子に尋ねる勇気は藤一にはなかった。そして、雪子がなぜそんな話をし出したのかもわかった。鶴子だ。鶴子もそうなる運命だったのだ。
藤一は鶴子が一人で住む家を訪れた。家には膝を抱えて蹲っている鶴子がいた。
「鶴子さん?」
「藤一、私を笑いにきたの? そうなんでしょう? いいわねえ藤一は、不細工で。その目も、その鼻も、その口も! 羨ましいわ」
「笑いにきたわけじゃありません」
「そう? 嘘だわ。だって私はずっとあなたのことを笑っていたんだもの。だっておかしいの、そのお顔」
「鶴子さんも……僕くらい醜かったんですね」
鶴子は村一番の美女。この村では幼少期に醜ければ醜いほど美しくなる。
「みんな私の顔を笑っていたわ、私の顔と大差ないのに。気持ち悪い、近寄るなって。あの子達だって醜いのに。蛹を破って、私は生まれ変わったの。でも、私は売られていく。この村のために。私のことを蔑み笑っていたあの子達は売られないのに、おかしいでしょう? この村が私に何かしてくれたのかしら? いいえ、何もしてはくれなかったわ。容姿を馬鹿にされて、体を売られて。私には、私たちには幸せになる権利はないの? 藤一、あんたはいいわね、男だもの。好きなだけ勉強できるんですものね。思うままに恋できるんですものね」
一息に言いきって、鶴子は泣き崩れた。聞いていているだけで辛くなるような、苦しい泣き方だった。藤一は遠慮がちに鶴子の背を撫でた。その手はもう十分鶴子よりも大きかった。
鶴子は細やかな手で藤一の頬を包んだ。
「ごめんね、ごめんなさいね、藤一ちゃん…………あんただけは、どんなことしてでも幸せになってね」
次の日、藤一は他の村人と鴇子をこの村から送り出した。貧しいこの村で一番上等な着物を着た鶴子は、それこそシキシジミのように美しかった。
「私は売られていくけれど、ちっとも不幸じゃあないわ。私は蝶よ。どこへでも行ってやるわ。それから愛した人との間に子供を産むの。私は自由に舞うシキシジミよ!」
それから鶴子はめちゃくちゃに笑った。美しい顔を思いっきり歪め、歯をむき出して。その声が枯れても笑い声は止まず、山を降りてその姿が見えなくなった後でもずっと山間のこの村に鳴り響いていた。
人が散っていって、あとには藤一だけが残された。背後で大げさな下駄の音がする。
「…………! 田嶋先生」
「鶴子ちゃんだね」
「助けられませんか?」
「それは無理な話だ。君の寅夫が生き返らないのと一緒」
懐かしい名を聞いて藤一は目を伏せた。しばし沈黙が流れ、田嶋が口を開く。
「君はどうするのか? 絵を描くか、学校にいくために村を出るか」
「僕は…………」
「君の好きなようにすればいい。学校に行きながらでも絵は描けるんだ」
藤一はずっと迷っていた。田嶋はその胸中での葛藤を知っていたのもしれない。藤一はそこに母子家庭だった自分がずっと望んでいた父性を感じた。
「考えてみます。…………もしも、僕が村を出ても戻ってきたらまた絵を教えてくれますか」
「…………勿論だよ」
田嶋はきっとその頃には死んでいる。無理な約束だとはわかっていても、互いに結ばずにはいられなかった。
その日、藤一は田嶋の洋館ではなく、自分と母の住んでいたあの茅屋を訪れた。五年前の生活が一変して、今は鮮やかな日常がある。けれども、何かが足りない。絵を描いても、勉強をしていても、何かが満たされない。それはなんなのだろう。この容姿が変われば満たされるのだろうか。
心の中の満たされない何かを埋めるように、藤一は大きく息を吸った。懐かしいカビ臭さ。腹にためた息を吐き出そうとしたとき、藤一の喉が跳ねた。
吐き出したものを確かめるように口元に触れれば、白いぬめりとした繊維のようなものだった。とめどなく溢れでるそれに、藤一は抵抗する気もなくした。これは、蛹だ。
脂汗がこめかみを伝う。身体が侵食されていく。何に? わからない。ただどろどろとした得体の知れない恐怖が皮膚に纏わり付いている。いや、本当に纏わり付いているのか? どろどろのこれは自分の皮膚で、自分自身が恐怖と化しているのか?
わからない。
何もわからない。
ただ、暗闇の向こうでは、時が過ぎているのはわかる。藤一の思考は砂浜の波頭のようにはっきりと現れたり、ふっと消えたりを繰り返していた。
蛹の中と外では時間の進み方が違うとはよく言ったものだ。藤一は今、自分だけの時間の中にいる。
けれども果たしてそれは藤一と言えるのだろうか。藤一の姿形もしておらず、自我があるかさえもわからぬその液体は?
仮にその液体を藤一と呼ぼう。今の彼には、概念としてしか物事を考えることができない。蛹を破った後はきっと素晴らしい日常が待っているのだ。醜い体と決別し、閉鎖的で窒息しそうなこの村を離れて学問の道に進めるのだ。そんな希望をただぼんやりと感じている。
思えばこの時が、彼にとってもっとも幸せだったのかも知れない。
茅屋の外では夏から秋へと季節が移ろい、梅の葉は色を変えた。シキシジミはその老梅を囲みながら狂舞している。蝶の翅が、力強く繊細な梅の葉脈のようだ。その蝶の舞踊を、藤一が見ることはもうない。
あの梅の木は、鶴子だ。
藤一は今まさに自分たちの清かったことを自覚した。