空腹

うすらい

 

 お腹が空いた。

 

 それでも青年は目の前の少女に手をつけるわけにはいかなかった。確かに彼女は青年のものだ。その白磁のように滑らかで冷たい手を取って、邸から奪い去ってきたのだ。しかし一連の奪還は少女が清廉であることに由来していた。彼女の手の清爽たる冷たさに起因していた。よって青年はその荒野をゆくときも、彼女の乾いた冷たい手以外の場所には決して触れようとはしなかった。腹は空いていた。あばらを叩けばきっといい音がする。空洞だ。

 

 だしぬけに彼女が口を開いた。

 

「ああ、随分とおつかれのようです」

 

 亜麻色の睫毛の影で、硝子玉のような瞳は、彼女のように清らなる心身を備えたものが、渇く人間に対してそうあるべき憂いを含んで伏せられている。

 

 青年はその硬い瞼に指を這わせたかった。睫毛に手を触れたかった。睫毛の微細な突端のひとつひとつは氷柱のようにきらきらしていた。鋭利だった。触れた途端に青年の汚れきった空腹感を見抜いて咎めて痛く指を刺しそうだった。そこからどろどろと自分の血液が流れてくるのを思った。たまらなくなった。白くほんのりと光をたたえている瞼にしてもそうだ。極寒の地の金属のように、青年の食指の皮膚に喰らいついて破くまではなさぬかもしれぬ。ふれてみたい。

 

 ジッと向けられる視線に耐えかねて少女が怪訝そうにその睫毛を上げたので、青年はやっとのことで答えた。

 

「ご心配なく、少々腹が空いているだけです」

 

「そうですか」

 

 少女は答えて、何か言いたげにその色の薄い唇を開いた。けれどその唇は空気をはむことに終始した。彼女は再び沈黙する。だから青年は彼女の冷たい手を取って、再び歩き始めた。空は曇っていた。曇り空の灰色が、世界を白黒に落とし込んでいるような気がする。乏しい草も渇いてひびわれた地面も、灰色の中に浸って、色彩を減じている。生きていないみたいだ。良い景色だ。

 

 森へ入った。湿気で蒸し暑い。曇り空の化粧をもってしても生きものの気配に満ち満ちている。木々がひしめいている。幹の太いのは、いかにも中に水を張り詰めさせていますといった様子である。土にしてもそうだ。黒々として、湿っている。これらすべてが生きているのだと思うと、頭がどうにかなりそうだった。汗が気持ち悪い。自分が気持ちの悪い生きものにでもなったような気さえする。

 

 少女が不意に足を止めたので、青年は目の前の景色の代わりに彼女を意識した。青年はそこで浄化を得られると思った。この宝石のように硬く冷たく冴え冴えとした少女の存在が自分を癒し得ると思った。最初に意識させられたのは、握った手の汗だった。青年は黙って彼女の白魚のように柔らかい手をやんわりと離した。

 

「どうなさいましたか」

 

「いえ、その」

 

 青年はその頬の上気を看過した。

 

「本当に、本当にお疲れのようですわ、もしよろしければわたくしで渇きをお癒しになってはどうですか……」

 

 落ち着け、この鋼鉄の少女は「恋人という立場に置かれた女としての責務」を果たそうとしているに過ぎない。そこに彼女の利益はない。ただ、そうした女に青年がもとめるであろうことを推察して示しているに過ぎないのだ。だってその流麗な曲線に構成された胴体にも、細い美しい脚にも、少しも媚態のようなものはうかがわれない。どこにも喰らうべき肉は見当たらないではないか。

 

「いいえ、結構」

 

 青年は優しく、それでもきっぱりと言い放った。それでも少女は引かなかった。硝子玉の青はどこまでも澄みきっているはずだった。青年はその、子どもがクレヨンで塗りたくったような青がふっと濁ったのを感じて、目を逸らした。

 

「ではどうかお願いします」

 

 少女は青年の腹に手をやって、しながれかかってきた。手は柔らかく、服越しにも温かい血の流れていることが感ぜられた。彼女の伏せられた睫毛は既に柔らかそうだった。

 

「どうか、わたくしの渇きをお癒しになってください……」

 

 言葉を発する唇の赤は、魚のエラのように赤い。粘膜の赤色だ。

 

 触れている手は熱を持っていた。青年は少女を抱き留めながら、柔らかい髪に触れながら、自分の中の空腹感がすうっと潮の満ち引きのように去っていくのを感じていた。月は決して巡らないだろう。浜辺は決して戻ってこない。

 

 この少女の肉は女の肉に成り下がってしまった。青年は彼女の細い肩に両手を置いた。白い肉の弾力が指を押し返した。腹から何かがせりあがってきそうだ。青年は眉をひそめた。その白く凝固した脂肪に覆われた肩を、自分の身から押しのけ、引き剥がした。

 

 拒絶を知った女の顔は、みるみるうちに満ち満ちていた血の気を引かせて青ざめた。蒼黒く見える顔の中で唇だけが赤くぬらぬらと光って見えた。彼女は青年に指をのばしかけた。

 

 青年は猛然と走り去った。何もなかったのだ。彼女の叫び声が聞こえてきた。猿のようだ。唇が笑いにひくつくのを感じた。背中に降りかかるそれもやがて止んだ。いつの間にか空は晴れていた。いやな日だ。荒野の地面は馬鹿みたいな黄色をしているし、地面にはびこる草は真緑だ。平行脈が太陽に透けて見える。気持ち悪いのでむしり取って投げ上げた。青年は寝っ転がった。寝っ転がった顔の上に草が降ってきたので、大声で笑った。何もおかしくはないのに笑いがとまらなかった。嗚咽が口から飛び出る代わりに、笑いとなって全身をゆすぶっている気がした。

 

 それ以降、彼女の姿を見た者はいない。