鏡――半分だけの私小説

 

 翔稀は倫と特段つるんでいるわけではなかった。倫は誰ともそれなりにやっていたし、逆に言えば誰からも微妙に距離を置かれている存在だった。翔稀にしても、席が近いので、なんとなく時々しゃべるというだけである。

 

 いや、席が近いから、というのは理由の一つにすぎない。大きな理由ではあるが、全てではないはずだ、と翔稀は思う。――倫とは、小中と同じ学校に進み、偶然にも高校まで一緒になったという、若干腐れ縁に近い仲だった。小学校三年生ぐらいまでは、一緒に並んで登下校したりとか、そういった比較的親しい関係だったのもあり、声をかけて誘ってやらなければならないような、ある種の義務感があるのだ。――とはいえ、席が遠ければ、あるいはクラスが違えば、わざわざ動いてやろうという気にはならないだろう。義務感とはいえその程度であり、やはり『なんとなく』というのが正確なはずだ。

 

「また倫の奴独りだぜ」

 

 それで翔稀は、例えば校庭への出掛けにそう振られると、うなずいて倫を呼びにいく。

 

 決まって倫は、かすかに苦い、大人びた――悪く言えば澄ましたというか、すかしたというか、そんな微笑で首をかしげるのだった。

 

「行こうぜ」

 

 促しても、別にいいです、と短く返されるだけだ。翔稀は気が向いたら来いよと言い残して、クラスメートたちの元に戻る。毎日の儀礼的な繰り返しに過ぎず、そこに変化はないし、翔稀だって倫の友好的な返事を期待しているわけでもない。だが声もかけないというのは、少々心の底にひっかかりがある。――それが、今の二人の関係だった。

 

 

 

 最近の翔稀にはちょっとした悩み事があった。文理選択が迫っているのだ。

 

 両親は――特に母親は、理系に行くのがいいと頻繁に言う。翔稀は勉強ができるんだから、医学部とまでは言わない、薬学部に行きなさい、といった具合だ。だが正直な所、翔稀は自分の勉強ができるとは、どうしても思えなかった。確かに中学までは曲がりなりにも上の下ぐらいにはいたと思うが、高校に入ってからはさっぱりしない。

 

 若干無理して入学した高校だったので、授業は――特に理科は――半分と少しを理解するのが精一杯だった。夏休みが明けてすぐの試験も芳しくなく、だが親というものは、中学までが良かったのに突然できなくなる道理はない、どうせ自由に浮かれて勉強をおろそかにしているのだろう、という態度なのである。社会科や英語と、化学だとか物理といった教科の点を比較してみれば、翔稀の能力が何に偏っているのかは歴然だというのに。

 

 しかし何よりの問題は、文系の様々な分野を探しても、大して興味を持てるものが――もっと言えば、自分が近い将来に勉強しているだろうと想像できるものが、見当たらないことだった。翔稀はどうしても大学生の自分が思い描けなかった。その先の社会人の像があるかといえばそれもなかった。自分が永遠に高校生であるような、いいや、つい先ほどまで小学生で、ひょいと偶然高校の校舎に迷い込んでしまったような、そんな感覚があるほどなのに、自分が今の自分より育っている様子が考えられない。中学、高校と上がるにつれて、自分は、そして中学生とか高校生とか、あるいは大人とかいうものは、思ったより変わらないものなのだと知ってしまったせいかもしれない。幼い頃理想像として抱いていた、そんなものはどこにもないと知ってしまったせいかも。

 

 このまま翔稀はきっと、同じ自分のまま、大学生になり、社会人になるのだろう。そう思うと、大学生に夢を見ることはできなかった。どこに行っても自分は大したことはできないだろうという妙な確信があった。どんな大学のどんな学部に行こうが、自分がするりと変化して、別の自分になることはない。ならばどこを選んでも同じではないか。

 

 だから翔稀の悩みというのは、文系も理系もどちらも面白そうで選べないというのではなく、どちらもそれぞれな意味で行きたくないので迷っているのである。

 

 オープンキャンパスか何かのときに、俺は絶対医学部行く、と断言して、あちこちの国公立大学を見に行っていたクラスメートもいた。週四で塾に通い詰め、宿題はもちろん予習復習も欠かさず、当然定期考査でも模試でも安定した高得点を弾き出す人間が、同じ教室で学んでいるということが信じられない。その気になれば、この自分が軽く背中を叩いて、冗談交じりに話しかけることもできる相手だとは思えなかった。

 

 同じ人間なんだよな、と翔稀は時々自分に確かめたくなる。

 

 暗い部屋で、LEDの卓上ライトに照らされた、やりさしの、そして空白の多い数学のワークを眺めながら――というのもまだ小学生の弟と部屋を共用しているので、煌々と明かりを点けると、眩しい、眠れないとうるさいのだ――、翔稀は何の気なしにスマホを手に取った。既に日付は変わっているというのに、通知が大量に溜まっているのに気付く。あきれて笑いながら、翔稀はSNSのアプリを立ち上げた。

 

 

 

 昨日の晩にやりきれなかった数学の宿題を、翔稀は朝の騒がしい教室でせっせと進めていた。進めるというのはこの場合、解答本を横に置いてやるという意味あいである。

 

「うわっ、やってなかったのかよ」

 

 何人かの友人が、翔稀の机の三方を囲うようにして顔を出した。翔稀は、俺真面目だからちゃんと授業までには済ませるんだ、すっぽかすお前と違って、とおどけて言い返す。

 

「どこが真面目だよ、丸写ししといて」

 

「ヤンキーがいるぞー」

 

「うるせー。丸写しじゃねえし。ちゃんとやったっぽく見せるために、ばっちり何問か間違えてるし」

 

「うわ、本物だ。本物のワルだ」

 

「俺忙しいんだから黙っててくれって」

 

 翔稀は笑いながら、シャーペンをくるくる回した。友人の一人はなおも翔稀のノートを覗き込み、ああこれな、と何度もうなずく。

 

「ほんとウザいよな、これ。はっきり言って自分で解ける奴とかいねーだろ」

 

 別な友人はそれに反論する。

 

「これだけじゃなくて全部だろ。模範解答先生に助けてもらわないと無理」

 

「だよな」

 

 翔稀は明るく相槌を打ち――と同時に始業五分前のチャイムが鳴った。

 

「あーあ!」

 

 友人たちは一斉に、演技がかった仕草で頭を抱えた。

 

「翔稀、終わったな」

 

「ま、精々ギリギリまで頑張れよ」

 

 ばらばらと散っていく友人たち。翔稀は再びシャーペンを滑らせ始めたが、どうも身が入らなかった。先ほどの会話の余韻がなおも脳内に残っていた。気付いたら授業が始まっていて、ノートを写しながら、次の休み時間のことをまたぼんやりと考えていたのだが――前に座る倫がすっと挙手した動きに、翔稀は我に返った。

 

「先生、この問題はto不定詞を使っても正解でしょうか」

 

 教壇で元気にぺらぺらとしゃべっていた英語教師は、わあ、いい質問とさらに明るい声で言ってから、こう続けた。

 

「残念だけどこの動詞は、後ろに動名詞しかとりません」

 

 倫は気落ちしたのか、先ほどよりも低く、ありがとうございます、と呟くように礼を述べた。教師はとりなすように付け加える。

 

「こういった、to不定詞と動名詞の使い分けは、曖昧な人が多いから、テストに出したい問題。覚えておけば中間で役に立つかもね」

 

 その言葉を追いかけるように、左右や後ろでメモを取る音が聞こえた。翔稀は一泊遅れて、教科書に――生憎予習ノートは作り損ねていた――動名詞のみ、と書き込んで、admitを丸で囲んだ。

 

 

 

「ヤンキーってもともと不良をさす言葉じゃないんですよ」

 

 翔稀は一瞬、何の話か分からず困惑した。しばらくして、倫がどうやら、数日前の、翔稀と友人たちの会話のことを言っているらしいと気付く。

 

「じゃあ、何なんだ?」

 

「アメリカの北部に住んでいる白人たちの総称、というか俗称です」

 

 倫が自分に対して敬語を使うようになったのはいつからだっただろうか。中学時代は、まだこうではなかった気がする。もともとそういった雰囲気があったせいなのか、移行は自然で、気付いたら倫は、翔稀から距離を取るような口調を使うようになっていた。一体何を思って倫がこのようなことを始めたのか、なんとなく翔稀は聞きそびれている。

 

「『風と共に去りぬ』を読むと度々出てきますよ。この本は面白いから、一度読むことをお勧めします。教科書とは違った視点から話が進みますから。リンカーンを嫌う人間がいた事実そのものが意外でしょう」

 

「へえ」

 

 翔稀は、リンカーンって車でパレード中に暗殺された人だっけ、などと適当なことを考えながら倫の話にうなずき返す。

 

 何か続きがあるのだろうと思ったのだが、倫はそれだけしゃべくると満足したようで、ところで今日は家でやり損ねた宿題はないんですか、などと聞いてきた。翔稀は顔をしかめて弁当箱をしまい、物理の問題集とノートを引っ張り出した。

 

 机の向かいの倫はやたらと品のある所作で昼食をついばみながら、翔稀が投げやりに問題を解き進めている様子を眺めている。

 

 抑えきれなくなって、翔稀は一瞬、倫の顔を盗み見た。倫は、唐揚げをかじろうとするのをふいと止めて、目を見返してきた。翔稀は再び、さっと顔を問題集へ伏せる。

 

 倫には悩むことはないのだろうか。

 

 医学部云々などと口に出している所は見たことがないが、会話している端々から、倫の成績がいいことは分かっていた。そんなに勉強してるわけじゃないです、というのは間違いなく謙遜だろう。かといって運動が特段苦手であるようにも見えず、美術やら音楽も困っている様子はない(翔稀にとってはそもそも楽譜が読めることが羨ましい)し、何より、親が厳しいという話を聞いたことがない。

 

 強いて言えば、これといった友人がいないことが悩みの種になりそうなものだが、倫が友人関係でうんうん頭を悩ませているとは思えなかった。いつだったか、ここは生活保障がちゃんとしてる日本なんですから、友達なんていてもいなくても生きていけるでしょう――などとぬかしていたこともあった。倫にはどこか、それが強がりでなく、ひょっとしたら本心からなのではないか、と思わせる所がある。山奥の寺に住んでいると言われても納得してしまいそうな、浮世離れした空気を倫はまとっていた。

 

「どうしたんです? 何か分からないところでもあるんですか」

 

 翔稀の手が止まっているのに気付いたらしく、倫がそう言ってきた。翔稀は、別にと答えてから、ちょっとスマホが震えたんだ、と言い足し、胸ポケットのスマホを取り出して画面を表示させた。実際にいくらか通知があったので、翔稀は内心ほっとして、返信を打ち込む。

 

 倫はしばらく口をつぐんでいたが、唐突に言った。

 

「鏡って」

 

 顔を上げると、倫はいつもと変わらない、独特な眼差しで翔稀を見つめていた。目を真っ直ぐに射止めてくる、ぶれも、ゆとりも一切ない目。

 

「鏡そのものを見ることはできませんよね」

 

 意味が分からず、翔稀はただちらっと首を傾げた。――どう反応したらいいのかすら分からなかった。

 

「つまり、鏡を見ると、鏡に映っているものしか見えないでしょう。鏡、という物体そのものの姿を見ているわけではないでしょう」

 

「……お前、むつかしいこと言うよな」

 

「そうですか」

 

 倫は気にした風もなく、独特な目を机の上の弁当に下ろした。自分の昼食を見るときですら、涼やかで凍ったような、何か、ともかく明らかに男子高校生のそれではない視線を崩さない学生だった。

 

 

 

 

 

 体育の時間が倫にとっては憂鬱だった。別に運動が嫌いなわけでも、人に見られるのが恥ずかしいほど下手なわけでもなかったが(論拠がないわけではなく、一学期の通知表を見れば客観的にそうだと言える)、全く別な理由で、嫌だった。とくに今――二学期前半は、選択種目のサッカーを取りたかったのに、じゃんけんのトーナメントで敗退という何とも情けない理由から、男女共同の器械体操になってしまったので、それが余計に鬱屈とした気持ちを掻き立てるのだった。

 

 体育館に一歩を踏み入れると、ぐわんと広大な箱の空間が迫ってくる。実を言うと、倫はこの感じもあまり好きではない。骨組みが剥き出しの天井はある意味壮大だともいえる威容をもってはるか高みに構えている。小学校、中学校とは比べ物にならない開放的な空間だが、その開放という状態が倫は怖いのだ。空間が押しつぶしにくるような感じ。形のある物ならいいのだ、見えるのだから。だが全くの虚無というのは――それが延々頭上に折り重なっているということを考えるだけで吐き気がしてくる。特に体育館というのはいけない。中途半端に屋根をつけるものだから、余計に空間という箱状のものを強調している。青空も恐ろしいが曇天ほどではない。それと同じだ。逃れようのない空間という物質が、そこに固定されてしまうのだ。

 

 天井を眺めていると逃げ出したくなる一方なので、倫は視線を床の木目に移して、集合場所へ歩き出した。無論この木目を見つめているというのは、全く別な現象からの――虚無などというものよりもっと陳腐で、もっと恐ろしいものからの――防護策でもあった。

 

 だがいよいよ授業という段になるとそうはいかない。男女別の四列横隊に並んで、体育教師の到着を待っている間、倫の目は斜め前で友人たちと笑いあっている翔稀に吸い寄せられる。ツーブロックのさっぱりした短髪、その下の日に焼けたうなじ、つっと前に回って尖った喉仏――倫は、翔稀の口元に髭を剃った跡を発見した時点で目をそらした。だがそらした先にはまた別な男子がいる。こちらは眠たげに瞬きしながら、体育館シューズの紐を指先でもてあそんでいた。張った肩口にすとんとした胸元に、クォーターパンツから伸びる筋肉質な脚。

 

 堪えきれずに倫は、全く別な方へと意識を捻じ曲げた。女子が並んでいる辺りだ。どこを見ても柔らかな曲線が目に付く。髪も口元も首筋も胸も――不意に顔を上げた一人と視線がかち合った。罪悪感とその他の様々な感情が押し寄せてきて、倫は最後の手段として天井を見上げる。圧倒的な存在感が、意識を少しだけ散らしてくれるが、それでも、前後左右に並んでいる大勢の同い年たちのことが、脳裏から離れることはなかった。

 

『見てしまう』自分への嫌悪は強い。他の男子を見ても――あるいは女子を見ても、倫のように周囲の生徒たちの体つきばかりを気にしている者は見当たらないのだから。

 

 だから体育は嫌いだ。体操服というものは、体のラインが分かりやすい。――などと、無意識に責任を転嫁している自分が、倫はまた一段と嫌いだった。体格のいい男子を見ては心の中で侮蔑する、それは正に倫自身にある問題だというのに。だが、そんなものはまだよい方で、嫌いというよりむしろ情けないのが、貧相な姿かたちの女子を見て、安堵している自分だった。自分がそういう人間なのだと、誰かが知ったらどう思うだろう? 母が、父が、あるいは翔稀が。何かに押しつぶされているような感覚の中で、それでも隠しきれずに、倫の心の核は身勝手にも叫んでいた。

 

 気付いて。気付いてよ。どうして誰も気付いてくれないの?

 

 

 

 鏡を眺めると、誰だかよく知らない少年がこちらを見返してくる。への字とまでは言わないが、ほぼ横一文字の愛想のない口元。顎まわりは骨ばっている。鼻は標準よりもやや高いだろうか。目元に限っては、比較的くっきりとしたまつげと丸みを帯びた目尻が、若干の柔らかさをかもし出していた。倫自身の美的感覚を信用するのもどうかと思うが――容姿に恵まれていないわけではないのだろう。

 

 倫は鏡から目を引き剥がしてため息をついた。自分が恵まれていることなど、倫は重々承知していた。何と自分は贅沢なのだろうか。言ってしまえばどうでもよいことでくどくどと悩み続けて――自分が世間一般から見ると、神経質、という部類に入ることも、倫は自覚していた。神経質であることは資質だ。だが、生き辛い。そしてそれはただの贅沢だ。他の全てが満たされているから神経質でいられるのだ。

 

 右を向くと風呂場の扉が目に入る。半開きの引き戸の向こうには、蓋の閉まった湯船がのぞいている。倫は想像をめぐらせた。あの中に沈んで息を止めれば自分は死ぬだろう。しばらくして、自分の風呂を上がるのが遅いのを不審がった親が、様子を見に来る。悲鳴を上げるだろうか、声も出さずに凍りつくだろうか。きっと顔を紫色にした自分が、大した量でもない湯に浮いているのだ。さぞシュールで滑稽だろう。こうしたことを考えた後、倫は決まって貧血のようになり、立ちくらみがしてくるのだが、しかしどうしようもなく魅力的なもの、奇妙な魔力のようなものを感じるのだった。芸術家に神経質な人間が多いとすれば、自ら命を絶った人間が多いこともまた、倫にはなんとなく理解できた。

 

 死ぬとはどういうことだろう。馬鹿馬鹿しいことを考える十六歳だ。苦しいには違いない。何らかの理由で酸素の供給が尽き、じわりじわりと全身の細胞が滅びていくというのは、きっと恐ろしいことだろう。何よりぞっとしないのは、自分自身が消え去るということだ。肉体ではなく精神が。今ものを考えているこれが一切消えてしまうというのはどんな感覚なのだろう。感覚すらない感覚というものを、生きている倫は理解できない。興味深いが恐ろしい。

 

 だが、そんなものよりも遥かに恐ろしいものがある。それは、いつか自分のことを覚えている人間がいなくなることだ。自分は存在しなかったことになるのだ。贅沢ながらに悩み、生きてきたという事実そのものが無くなるのだ。どちらも線を越えることは容易い。湯船の中で息を止めるだけで、前者は達せられてしまうし、おそらく早ければ百年程度で、自分の存在など忘れられる。何かを成し遂げない限りは、のことだが。数千年たった今でも、ピタゴラスの名は受け継がれている。

 

 だから僕は鏡にはなりたくないんだ――倫は思った。そして鏡であることを選択する多くの人間が全く理解できなかった。鏡は何も残さない。それどころか、現存している瞬間ですら、その存在は不確かなのだ。目の前にいるのに、誰か別の人間を前にしているような。すげかわっても気付かないような、それほどまでに不確かな鏡。倫は、自分の親友に、そんな人間にはなって欲しくなかった。

 

 倫はもう一度鏡に目を戻した。そしてまた先ほどとは違ったことを考えた。翔稀に、鏡になって欲しくないなどと言える分際だろうか。この自分自身が誰かの鏡ではないと、倫に言いきれるのか。あるいは翔稀に写りこんでいるのは自分ではないのか? 左右が逆の像を眺めて、それを馬鹿にして笑っているだけなのではないのか?

 

 両方かもしれない。

 

 倫はふと気が向いて、三面鏡の左右を丁寧に立てた。合わせ鏡。鏡像は反対のものの象徴でありながら、全く同じように見えるものも鏡のようだと表現される。そして二枚を向かい合わせると、異界への扉が開くとか――。

 

 倫は相対する鏡の間に顔を差し入れた。誰だか分からない少年が無限に並ぶ。目眩がする。世界が揺らぐ。

 

 

 

「エレメントって何かかっこいいよな」

 

 四限目の生物基礎の後、昼休みに、いつもと同じように、翔稀と向き合って食べる昼食。翔稀は何の脈絡もなくそのようなことを言い出した。

 

「そりゃ、単に要素って意味だけど、何か言葉の響きがいい」

 

 倫は、今日の唐揚げが、隣のブロッコリーに乗っていたマヨネーズに侵食されたというささやかな不満を、一旦脇に置いた。

 

「それは、そうかもしれませんね。三連続でエ段なのが広がりを演出しつつも、ラ行が澄ました印象を、マ行が安定感を出して、ンで一旦締めてから、硬めのタ行と余韻のあるオ段の組み合わせで終わる」

 

「……お前、よくそれだけのことすらすら言えるな」

 

「音の響きって、結構大事ですよ」

 

 倫の言葉は本心からのものだった。例えば自分の名前の字は気に入っているが、とも、という読みは鈍さがあってあまり好きではない。りん、と音読みする方がよほど美しく響く。

 

 翔稀はしばらく頭をかいていたが、やがて箸を骨ばった指で器用に回しながら、こう聞いてきた。

 

「音とかどうでもいいだろ。意味の方がよっぽど大事じゃねえの」

 

「うーん」

 

 倫は反論を考えてから、それを口に出そうとして、そこで思い直した。

 

「……そうですね。僕も、意味が好きなものもいくらかあります」

 

「いくらか、なのかよ」

 

「言語というものは音節なんですから、音から感じるものは多くてしかるべきだと思いますが……漢字とか、文字はどうしても、意味や形が大きいですよね」

 

 倫は一瞬言葉を切って、翔稀の様子をうかがってから、再び口を開いた。

 

「アルファベットにも好きなものがあるんですが、それは英単語の意味合いが根っこになってる気がします」

 

「ふうん」

 

「一番好きなのはQで、次がXかな。三番目はAです」

 

 翔稀は瞬きして、ちょっと座り直した。

 

「QってクエスチョンのQか? Xも未知数置くのに使うよな」

 

「大正解です」

 

「じゃあ、Aはアンサー?」

 

「それは、はずれ」

 

「ん? 違うのか」

 

 倫ははにかみ笑いをしただけで、何も言わなかった。翔稀は口を少し尖らせて相変わらず箸を回していた。しばらく会話が途切れたのを頃合いとみて、倫は意識をマヨネーズに引き戻す。唐揚げは普段、最後に残しておくのだが、これではわざわざ後生大事に保存しておくだけの価値がない。大体倫にとっては、卵に酢を加えるという神経そのものが常軌を逸しているのだ。ブロッコリー以外の上にかけられたマヨネーズを認める気はなかった。

 

 腹をくくって唐揚げに箸を伸ばした所で、またもや翔稀が口を開いた。

 

「ちょっと思ったんだけどさ」

 

 倫が顔を上げると、翔稀は椅子を後ろに傾け、教室の天井を眺めていた。右手の中で先ほどまで回転していた箸は、今は何かをつまみあげようとするかのように、かちかちと打ち合わされていた。

 

「鏡は確かに、写るもんがないと鏡に見えねえけど。でも目ぇつぶって、手を伸ばして触ったら、あ、鏡がある、って分かるんじゃねえの」

 

 倫は大きく目を見開いた。弁当箱がマヨネーズつきの唐揚げを抱えたまま、手から滑り落ちかけた。――それをはっしと手に取り直すと同時に、倫はまた、小さく微笑した。

 

「でも、鏡って表面はガラスですよ。触っただけだと、僕たちには窓なのか鏡なのか見当がつかないでしょう」

 

「あ? ……ふうん、そうか」

 翔稀はつまらなさそうな顔になって、傾けていた椅子を元に戻した。