シャルロティア
「……れは……ナーム夫人の……」
その声が聞こえたのは、クローゼットを開けたときだった。囁き声、それに続くように漏れた忍び笑い。
扉を閉めると、それは聞こえなくなった。
その夜は、それだけだった。
──これは、復讐なのだ。自分からすべてを奪ったあいつらへの。仕返しをして何が悪い?
いいや、それはモルトナムで遂げられたのではないか? 違う、黙れ、生きてゆくためなんだ!
朝。
「ジュリアス、ジュリアス、いつまで寝てるの? 朝ごはん下げちゃうわよ」
「そいつはいけない!」
僕はがばりと跳ね起きた。薄い掛け布団を部屋の隅に投げ飛ばし、あたふたとパジャマを脱ぎだす。タイニアの手料理を食べそびれるなんて、絶対にいやだ。タイニアとは、僕の幼馴染で、下宿している酒屋さんの看板娘のことだ。僕がここに下宿できているのも、彼女がおじさん(タイニアのお父さん)を説得してくれたおかげだったりして……ともかく、彼女は料理の達人なのだ。
制服に着替え店へ下りて行くと、タイニアがサンドイッチを出してくれた。オニオンスープ付き。あー、いい匂いだな。スープの湯気に顎をくすぐらせつつぼんやりしていると、彼女はにっこりして僕のおでこをつついた。
「おはよ、ねぼすけさん。よく眠れた?」
僕はサンドイッチにかぶりく。しゃきっ。レタスの瑞々しさが音と共に弾ける。
「うーん、あんまり。昨日は考えごとをしていたんだ。美味しいね、これ」
「あら、ありがと。高校のテストの勉強ね」
「それが違うんだ。実は昨夜、変な声が聞こえてね」
「変な声?」
タイニアはほんの一瞬目を見開いて、前の席へ腰掛けた。僕はスープに取り掛かる。
「うん。殆ど聞き取れなかったんだけど、『ナーム夫人』だったかな、それと笑い声が。やっぱスープもいいねえ」
「ええ、嬉しいわ──それって部屋で聞こえたの?」
「そうだよ」
「表の通りで誰か話していたのかしら」
「いや、あれは……なんだか二階の壁のすぐ外で話しているみたいだった。クローゼットを開けた時だけに聞こえたんだ。だから裏に誰かいたのかと。あれは外の壁に面しているし……変だろう? それを何だったのか考えてて眠れなかったんだ」
「それは……変ね」
あれ? 意外だな。カップにへばりつき最後の抵抗をするベーコンたちを掻き寄せ考える。何時ものタイニアなら『ジュリアスは頭を使うのが本当に好きね、考えすぎよ』とでも笑い飛ばすのに、今日はやけに不安げだ……これも考えすぎかな。僕は、おいしい思い出と共に空のカップをテーブルへ着地させた。
「ご馳走さま。おいしかったよ。で、タイニア、どうかしたのかい?」
「え、ええ……その声、幽霊なんじゃないかしら、と思って」
「君は幽霊が怖いの?」
タイニアは幽霊を怖がっているのか。昨夜の声を頭の中で再生してみる。幽霊なんかではなかったと思うけれど。
「よし、じゃあ僕も気になるし、あの声の正体を近所の人に聞くなり探ってみるよ」
「いいのよ、そんなこと」
タイニアは、思いのほか強く反論した。やっぱり幽霊、怖いのだろうか。
「大丈夫だって。あ、もう学校に行かないと」
僕は視界の端に、迎えに来てくれた級友の姿を捉えて言った。
──まさか、聞かれていたとは。
〈黒猫〉は誰もいなくなった部屋でひとり、唇を噛んだ。あいつが気付かないことを願うばかりだ。もしも気づかれたならば……。
「やっぱさー、引っ越して来たときから思ってたけど、タイニアって可愛いよな」
学校への道すがら、隣を歩くドニアンがこう呟いた。
「急に何だよ」
言ってはみたものの、ドニアンの気持ちもよくわかる。
そう、タイニアは可愛い。前に住んでいた地域でもその愛らしさは評判だった。やや童顔の、琥珀色の人懐っこい瞳に栗色の巻き毛がひとふさ、かかって……
「あのごつい親父さんの娘があんなだなんて、まさに奇跡だぜ」
「あ、ああ、まあな」
慌てて赤面したのをばれないように下を向き、タイニアの画像をおじさんのものにすり替える。
うーむ、確かに。タイニアを兎に例えるなら、おじさんは……猪? 怒ると怖い釣りあがった目に、四角い顎。いかつい肩に、けむくじゃらの太い腕と、足。うん、我ながら、巧みな比喩に思えて来た。
一人でにんまりする僕に、気味悪そうな視線が突き刺さる。別にそんな目で見なくたっていいじゃないか。
「ジュリアス、何笑ってんだ? 気持ち悪いぞ。と、会ったことはないけど、タイニアのお袋さんって美人なのか?」
「気持ち悪いとは心外だな。いや、お母さんは……亡くなったらしい。小さい頃に」
「えっ。そうだったのか。見たことがないな思っていたんだよなぁ……ご病気だったのかい?」
「いや、僕もタイニアに聞いてみたんだけど、教えてくれなかった。彼女、その時凄く悲しそうな、何とも言えない顔をしてね……それ以上は聞けなかったよ」
「そうなのか……」
──それは、聞かないでね──
タイニアはその時、そうやって笑ったのだった。僕はそのとき質問したことを後悔している。そんな笑顔はして欲しくなかったから。彼女の母親のことは、並ならぬ事情があるんだろうか。それを聞こうとは思わないけど。
暫く僕等は沈黙に包まれていた。そのうちに、二人がテストのことを思い出し、その課題に思い至り、不機嫌を顔に貼り付ける羽目になった頃……僕等は人だかりの山にぶつかった。──丁度、学校のある丘の麓のあたりだ。
「何かあったのか?」
「さあ、お茶会ではなさそうだな」
ドニアンの言わんとするところを感じ取って苦笑する。『高貴な方々のお遊びは理解できない』──ここ、リッテンハイムの丘(名前からして、だが)は貴族のお屋敷が肩を並べる別荘地であり、この時期、貴族たちが避暑にやって来ている。毎日開かれるパーティーやらお茶会やらに辟易する民衆も少なくはない。
屋敷を覗き込んでいると、野次馬の頭たちの奥に見知った顔を認めた。僕は思わず叫ぶ。
「バージェス警部!」
人混みを掻き分け進もうとする。と、後ろからドニアンの叫び声が聞こえてきた。
「……アス、俺は課題……先にがっこ……」
ふんふん、課題がまだだから先に学校へ行くって? 僕は承諾の印に右手を挙げ、振る。課題……僕もまだだったなぁ、そういえば。
「警部、警部、お久しぶりです」
大きな背中に声を掛けると、懐かしい顔がくるりとこちらを向いた。
「おや、ジュリアスじゃないか。そうか、学校がこの辺りなんだね」
「ええ、すぐそこです。ところで、何があったんですか?」
バージェス警部。この人は、僕の実家のご近所さんだ。四〇も半ばといったところだが、年相応のよくある堅苦しさが全くない、気さくな人である。
「ああ、盗みだ。もっと言うと、夜盗だが……ここの屋敷が襲われたんだ。おそらく〈黒猫〉の仕業だろう」
「〈黒猫〉、ですか……」
その名前は聞いたことがある。泥棒の名前だったような──確か、闇夜に紛れて屋根伝いに逃げて行く姿からそう呼ばれているんだっけ。
「……カトルナーム夫人のネックレスも、取り戻せって言われてもな。誰も殺されなかっただけましだと思ってほしいんだが……あ、ジュリアス、私は捜査に戻るから、頑張って勉強してこいよ」
そのとき、頭に閃光がはしって、僕の体が勝手に動いた。口ははい、と言いながら、手が去りゆく警部の腕を掴んだのだ。
「カトルナーム! カトルナーム夫人っておっしゃいました?」
この瞬間、僕の脳内はまさに火山が噴火したようだった。あれが、もし、犯人の声だったとしたら……? 虚を衝かれたような警部に、早口でまくし立てる。
「僕、昨日の夜、おかしな声を聞いたんです。下宿している部屋で。あの、外から、二階の壁の裏から聞こえたんですけど、『ナーム夫人』って。あれ、逃げている泥棒だったんじゃないでしょうか」
「ええと、ジュリアス、君はつまり、〈黒猫〉が下宿先の建物を登って逃げたんじゃないか、と言いたいのかな?」
「はい、そうです」
「ふむ、調べてみよう。住所を教えてくれるかな」
警部は顎を撫で撫で、思案顔。一通り住所を述べたあたりでようやく僕も落ち着いた。
「弱ったな、今日は残業確定だな。はあ」
警部は焦げ茶色の髪のをぐしゃぐしゃと掻き回し、盛大にため息をつくと、諦めたように天を仰いだ。そして、何とはなしに、切り出した。
「ジュリアス、今晩、暇か?」
「はい」
「君、ガールフレンドはいる?」
「はい?」
な、何を言い出すんだこの人は。事件には関係ないことじゃないか。耳よ、頼むから熱くならないでくれ。が、警部がにやりとしたのを見ると、どうやら命令は聞き入れられなかったらしい。警部は表情筋を怠けさせたまま僕の肩を叩き、手品師じみた恭しさで胸ポケットから二枚の紙切れを取り出した。
「ではジュリアス君、君にこれを差し上げよう。本当は妻と行きたかっんだが、私は行けそうにもないからね。まあ、サプライズで渡すつもりだったから、妻は知らないわけだし……友人なり恋人なり誘って行っといで」
差し出されたそれは、オペラのチケットだった──喜歌劇『ヴァーシュレー伯爵』面白いのか、これ?
「あ、ありがとうございます」
一応のお礼はしつつも、そんな思いが顔に出てしまっていたらしい──警部は笑って、もう一度僕の肩を叩き、それからとんでもない発言を落として、捜査へ戻っていった。
「結構いいやつなんだからな、それ。デートには最高の場所だぞ」
耳はまたも命令に背いた。
──厄介なことになった。何としても阻止しなくては。
結果から言うと、タイニアはあっさりと誘いに乗ってくれた。帰宅して、僕が口から恐怖という名の粘着を剥がすのにかかった時間が永遠とも思えるほどに。しかし、ここには一つ問題がある……果たして、タイニアはこれをどう思ったのだろうか? つまり、その、単なる友人としてか、或いは、そうでないか……前者の可能性が高いように思えるけれど……。
夕方、近所に昨晩のことを聞いて回るつもりだったけれど、やめにした。うっかり時間を忘れそうだし、第一、警察が調べてくれる筈だから。てなわけで、今日は昼寝と決め込んでいると、揺り起こされた頃には窓から赤い空が顔を覗かせていた。
「うーん、なに……あ、タイニア!」
慌てて身を起こす。
「今日はもうおやすみ?」
「いや、行く! 行くよ」
劇場へは、歩いて四〇分ほど(喋りながら来たからもっと短く感じたけれど!)。うーむ、確かにいいとこのやつだ、これ。後でもう一度警部にお礼を言おう。エントランスホールの豪華に着飾った人々に、これまた豪華やシャンデリアが柔らかな光を投げかけている。巨大な宝石をぶら下げたご婦人も沢山いるけど……正直なところ、僕の隣の女の子の方がきれいだと思うな。彼女が貴族みたいに着飾ったら、どんなに美しいだろう。なんとなく、似合いそうな気がする。
タイニアがパンフレットを欲しがったので、僕が買いに行くことにした。が、割と直ぐに後悔した。高い、なぁ……しかしながら、楽しみに待ってくれているわけで、僕の取るべき道はひとつである。財布の受けた傷を思い遣りながらエントランスへ戻ってみると──そこに彼女はいなかった。
──どうしてここにいるのか、なんてどうでもいいだろう。問題は、あいつに知られないことだ。何も喋っていないだろうな。
タイニアは、入場締め切り間際に姿を現した。どこにいたのか口を開きかけたが、
「ごめんなさい、知り合いを見つけたもので……急がなくっちゃね」
そんな浮かない顔で言われると、何も聞けないじゃないか。僕は、開けてしまった口から、代わりに「じゃあ、行こうか」という言葉を押し出した。それからホールへと急ぐ。
重い扉を押し開けて、二枚目の扉へもどかしげに飛びついたとき、僕の頭を奇妙な感覚が支配した。既視感、デジャヴ。……それに近いもの。しかしそれは直ぐに薄れて、席に着く頃には消えていた。
『ヴァーシュレー伯爵』は、どんくさい人だった。大まかに言えば、昼寝中に大事な指輪を盗まれたと大騒ぎし、舞踏会に来ていた知人やら召使いやらを疑ってかかり、周囲を無視して甥を犯人と決めつけたところ、賢い従者が引き出しの中にあるのを見つけた、とまあこんな話だ。合間のどたばたが面白い……らしい。
「おお、そんなところに有るとは思わなかった。思わぬ場所に隠れているものよ」ラストシーンでその台詞がまぬけに叫ばれた時、僕はまたもあの感覚に包まれた……漠然と、何かを思い出さないか? 大事なものを忘れている、そんな気がしないか?
しかし再び訪れた感覚も、ホールの照明が付き、タイニアに不思議そうに観察されていると気付くと、針を刺された風船みたく弾け飛んだ。
「どうしたの、難しい顔して」
「い、いや、何でも……」
や、やめてくれ、そんなにじっと見つめないでくれよ。
「そう、ならいいわ。もう出ましょうか、面白かったわね」
外には、見事な馬車が列を連ねていた。橙の灯りが暗闇に丸い姿を浮かばせる下を、ゆっくり歩いてゆく。夏の夜の冷えた空気が風となって、高く結い上げられた栗の巻き毛と戯れるのを僕は眺めていた。
琥珀色の瞳は、何を見つめているのだろう……? 尋ねてもいいものだろうか、答えを出しあぐねていた思考はしかし、聞こう、に振り切れる手前で中断せざるを得なくなった。というのも、甲高い、短い叫びに鼓膜を至近距離から突き刺されたからである。
声の主は、馬車の傍の、荷物持ちらしき女性だった。しかし彼女の手が本来持つべきべきものはその足元に身を横たえ、代わりに口が抑えられている。
「あ、あなたは……」
そう言ったきり動こうとしない彼女の視線は、明らかに僕の隣に注がれていた。一瞬の膠着状態は、女主人の容赦ない声に突き飛ばされ霧散する。
「エレン、早く拾ってちょうだい。ほら、さっさとおし!」
「ねえ、ジュリアス、行きましょう」
僕も腕を引かれて我に返る。タイニアは、なんだか僕をここから遠ざけたがっているようだ。
「タイニア、知り合い?」
「知らないわ、誰だかわからない」
タイニアのハイヒールが硬い音をたてて、暗い通りにこだまする。僕は腕を引かれながら尚も問うた。
「じゃあ、さっき会った知り合いっていうのは?」
振り向いた彼女に、僕は少なからずどきりとした──夜の灯りに深い陰影を付けた顔が、あの、母親のことを聞かれたときに見せたものに限りなく近かったから。
「お願い、聞かないで、聞かないで。ねえ、もっと楽しい話をしましょう。せっかくなんだから、ね……」
──そうだ、これでいいのだ。決して悟らせるな。
〈黒猫〉の瞼の裏に、ある若い男の姿が浮かび上がる。光の消えた目が、恨めしげに見つめている……消えろ、消えろ、消えろ! お前が悪いのだ、お前が気づかなければ……。
翌日、学校の昼休み。ドニアンの誘いを断って僕は図書室にいた。相手チームとの人数が釣り合わないとごねられたが、サッカーなんていつでもできるじゃないか。今日は僕なりに、あのことを調べてみようと思った。それは、俗に言う、逃避というものだったかもしれない……何度も何度も浮かんでくる彼女のあの表情が、気に掛かって仕方がなかったのだ……。
『犯罪者録一八七七〜一八八二年版』より一部抜粋
〈黒猫〉
強盗。貴族を標的にするものとして知られる。侠盗というよりも、単に高価なものを狙って、或いは貴族への個人的な恨みからの犯行の可能性が高い。犯行の時間帯は主に夜であり、目撃情報は多数あるものの、逃げ足が速く、未だ捕まっていない。体格は──
(中略)
最新の事件(犯行が明確なもの)
・一八七七年
四月一一日レディモンド氏の別荘に侵入しようとするも守衛に見つかり逃走。
八月八日ハイデリング公爵邸にてサファイア『人魚のうろこ』を盗む。このとき、下男を一人殺害。争ったと見られる。
一〇月二九日モルトナム伯爵殺害。伯爵が身に着けていた一〇個の金の指輪を奪う。
・一八七九年
二月六日アンテミナル邸にてルビーの指輪を盗む。
一一月三〇日グレンテシア伯爵邸にて黒真珠の耳飾り、銀の腕輪を盗む。
・一八八〇年
二月二八日ランテウェル男爵一家殺害。三女の遺体は見つかっていない。このとき、盗まれたものはなかった。
・一八八二年
九月一五日バーミシュタイン子爵の蔵にて『カッサンドラの瞳』のついた指輪を盗む。その後、指輪は闇市で競売にかけられているのが見つかったが、出品元は特定できず。
下宿している部屋で、僕は考え込んでいた。
あの話が本当だとしたら、本当だとしたら……! 僕は今日の帰り道、ある人に呼び止められたのである。それは、昨夜、荷物持ちをしていたあの女性だった。
──彼女が、あまりにも似ていたから、あの夜のことが思い出されて胸が苦しくって……一体誰なのか、教えてくださいませんか──
涙を浮かべて懇願する、初老の、優しげな風貌の女性を思い出す。とても嘘をついているようには見えなかった。
太陽が明日会おうねの約束と共に去ってゆき、夕闇が世界に手を伸ばし始めた頃、ようやく僕は一つの決断をした。
──ばれた? まさか、そんな! これはもう、仕方あるまい……。
〈黒猫〉の脳裏にある光景が閃く。
「あなた、どうかなさったの?」
若い女性が娘たちの手を引いて戸口に現れる。裸足のつま先に感じた奇妙な感覚に、彼女は下を向く。琥珀の瞳に、まじりけのない赤が映って、息をのむ音が聞こえた。〈黒猫〉は躍り掛かる。その喉が悲鳴をあげる前に──悪いのはお前等だ。知られてしまったからには、仕方がないのだ……。
タイニアを部屋へ招き入れると、彼女は夜目に見ても蒼ざめた顔をしていた。立ったままでいるのを座るよう進め、僕自身もクローゼットを背に腰を下ろし、重い口を切る。
「タイニア、お願いだ──ここから逃げてくれ」
彼女の表情を観察する。そこに浮かぶのは──困惑、ではなく、諦めだった。
「全部、知ってしまったのね」
平静の糸が切れるぎりぎりで耐えている……そんな声だ。
「ああ。でも、まだ警察には言っていない。明日にでも警部さんに会うから、君がいいって言うなら、言うけど……」
「…………」
エレンさんに借りた写真を差し出す。セピア色の世界で、五人の家族が笑っていた。
「ランテウェル男爵ご一家。君の、本当のご家族だね?」
感情の糸が、ぷつりと切れた。瞳が大きく揺れて、肩が震える。ああ、そんな顔をさせるつもりはなかったのに……だけど、これを出さない限りは核心へと踏み込めない。
「それをどこで……?」
僕は、小さな喘ぎが漏れるのを聞いた。
「夫人に仕えていた方から。今、あそこの別荘に来ているそうなんんだ……シャルロティアお嬢様が生きているとしたら、お祖母様は喜んで迎えるだろうと言っていたよ」
「……そう」
シャルロティア嬢は、ぽつりと言って、弱々しく笑った。
「わたしは……あの人が強盗だってこと、初めから気付いていた……でも知らないふりをしていたの。育ててくれた人なんだもの、感謝さえしている。ねえ、あの人は子供の頃、家族を貴族が乗り回す馬車に轢かれて、凄く貧しい、寂しい暮らしだったんですって──貴族をうらむのも当然だわ」
「でもタイニア、彼は罪のない人まで殺しているんだ。それは、許されることでは──」
「わかってる、わかっているわ──」
栗色のまつげの下に、真珠のような涙が盛り上がって、こぼれた。
「タイニア……」
「ごめんなさい、ジュリアス」
おどおどとハンカチを差し出す僕に、彼女は心底済まなそうに言ったのだった。
「わたし、あなたを巻き込んでしまったこと、後悔しているのよ。心の拠り所が欲しかったのね。昨年引越しが決まった時、あなたがこの店の近くの学校の寮へ入ると聞いて、それに飛びついた。ただ同然で下宿できますよって……でもやっぱりあなた、賢いのね。あの夜から、二日で正体を突き止めちゃうなんて」
ふいに、彼女が口をつぐんだ──僕の様子がおかしいと気が付いたのだろう。
その瞬間、僕の胸を、またもあの感覚が訪れていた。何かが変だ。何かを見落としている。
──あの夜の声。壁の裏側から聞こえた、〈黒猫〉の声。壁の裏側から聞こえた……? どうして強盗がが自分の家の外壁に張り付く必要がある?
「ああ、お前は賢い……賢すぎたよ……」
振り向く前から、その声の正体を僕は知っていた──だがどこから現れたものであるかは、たった今知ったのだった。
──ああ、そうだったのか。〈黒猫〉は、壁の外にいたのではない……中にいたのだ! 二重の壁の隙間に、隠し部屋があったに違いない。クローゼットの方にも隠れた扉があったのだろう……。
僕は、何かが空を切る音を、まるで他人事のように聞いていた。全身を血が駆け巡り、にわかに目の前が極彩色を帯びる……。
「やめて──!」
タイニアの叫び。そんな、泣きそうな顔、しないでくれよ……君の、笑顔を……
──〈黒猫〉の耳に、幼い泣き声が飛び込んだ。見ると、部屋の隅で、小さな少女が震えている。
「おかあさん? おとうさん? おねえちゃん……?」
少女に、ある少年の姿が重なる。あれは俺の姿だ……俺の姿なのだ。誰に頼ることもできず、突然に訪れた孤独に震えて……
少女へと手を伸ばす。絹の如く白き頬に紅の花を散らせて、琥珀色の瞳が〈黒猫〉の瞳を捕らえた……。
「どうして、わたしを──」
次の朝、級友を迎えに来たドニアンが閑散とした床に見たものは、赤に染められたハンカチと、血まみれの男爵一家の写真だった。