現代の独眼竜

星樹涼

 

 唐突だが、今私はSECOMの屈強なお兄さんから前転で逃走している。別に、前転したくて前転しているわけではない。遡ること三秒前、私は石に蹴躓いた。走っていたままこけたから、勢い余って前転になった……というわけだ。なぜ走っていたかって? 追いかけられているからに決まっているだろう。が、勘違いしないでくれ。私は決して法に触れるようなことはしていない。グルグル視界が回ってぎゅっと目を瞑る。しばらくして体が止まった。恐る恐る目を開けると、深い藍色の目が一つ、私を覗き込んでいた。もう一つあるはずのところには、黒い眼帯。それだけでもう恐ろしい。捕まった。悪いことをしていないのに、私はなぜかしまった、と思った。逃げたから。絶対に疑われてる。次に来るであろう「話を聞かせてもらおうか」という言葉を待つ。しかし男が発した言葉は意外なものだった。

 

「落し物だ。それと、絆創膏」

 

 ……一瞬、何を言っているのかわからなかった。目の前に差し出された美術館のペアチケットと絆創膏とお兄さんの顔を順番に見て、やっと理解した。私はどうやら、チケットをこのお兄さんの前で落としたらしい。お兄さんが拾った時には私はもうだいぶ先を歩いていた。だって私、走るの遅いけど歩くの早いんだもん。だからお兄さんは走って私を追いかけて、私が逃げて、転んで膝を擦りむいた。で、絆創膏。

 

「落としちゃダメだろ?」

 

 お兄さんは私に手を差し出しながら微笑んだ。見た目に反して優しい笑顔。そのせいか私の警戒心はふっと緩んだ。

 

「……どうして拾ったの」

 

 本来ならありがとう、って笑うべきだろう。だけど、私は……私はわざと落としたのだ。誰も拾って届けようなんて思わないだろう、って。

 

「必要なものだと思ったから」

 

 お兄さんはなおも微笑んでいる。こんなに失礼なこと言われたのに。その笑顔に、涙が引き出された。一粒、また一粒と溢れ、私は見ず知らずのお兄さんの前で号泣した。

 

「だって、浮気してたんだもんっ。応援してたのに裏切られてたんだもんっ」

 

「お、おい、わかったから、こんなとこで急に泣くなって! こっち来い!」

 

「男なんてみんなそんなもんなんでしょ?! あんたもそうなんでしょっ」

 

 人目も憚らずに、というか憚る余裕もなく泣きじゃくる私を、お兄さんは事務所に連れて行った。

 

 

 

「落ち着いたか?」

 

 ソファに腰掛ける私に、お兄さん……丸伊龍さんは温かいお茶をくれる。

 

「話くらい聞くぞ?」

 

「知らない人に……」

 

 あれだけ失礼なことをしておいて今更……とも思うけど。この部屋に連れて来られるまで周りの人にジロジロ見られた。それなのに。

 

「知らない俺だからこそ、吐き出せることもあるんじゃないか?」

 

 負けた。優しすぎる。

 

「……彼氏が、絵が好きで。画家になりたいって言ってるけど、収入ゼロで。だから私、夜に働いてお金を貯めてた。そしたら、昨日お客さんが美術館のペアチケットをくれて。さっき、彼のアトリエに誘いに言ったら……女の子がいて……私のことはただの金蔓だって……絵が売れ始めたら別れるって……」

 

 話してる間にも涙が溢れてくる。

 

「…………」

 

 私が話終わるまで龍さんは黙って頭を撫でてくれていた。そして。

 

「君は、どうしたい?」

 

「復讐、してやりたい……っ。私は何も悪いことしてないのに……っ」

 

「じゃあ、一番の復讐方を教えてやる」

 

 深い藍色の瞳が、再び私の顔を覗き込む。

 

「幸せになることだ。君を愛して、大事にしてくれる男を見つけて、見せつけてやればいい。――なんなら、俺が」

 

 直感的にこの人ならって思った。それがこの人ならいいのにって。でも、すぐに打ち消した。私が龍さんを好きなわけがない。きっと、心が傷ついてる時に優しくされたから、甘えてしまってるだけ。あいつに裏切られて私は、もう男を好きにならないって決めたの。

 

「へ、え……。でも、私には無理。色々ありがとうございました」

 

 そう言って龍の部屋を出る。決して広くはない事務所に詰めている人たちの視線がこちらに向けられた。

 

「独眼龍が女を連れてきた。しかも泣かせていた」

 

「笑ったことのない、自他に厳しい独眼龍は自分の女にも笑いかけないのかも」

 

 ……笑ったことのない……? あんなに優しい微笑みを浮かべる龍さんが……? もしかして、私しかあの笑顔を見たことがない……? トクン、と心臓が音を立てる。でも、ダメ。龍さんに捕まっちゃいけない。今朝、二度と男を信じないって誓ったばかりなんだから。それに龍さんだって、急に泣き出したから優しくしてくれただけ。捕まる前に……逃げなくちゃ。

 

 

 

「ただいま」

 

 誰もいない家に向かって挨拶しても返ってくるのは虚しい静寂だけ。もしここに龍さんがと考えかけてやめる。ソファに沈み込んでいつのまにか眠っていた。

 

 目がさめると、家の中の様子が違っていた。窓が割れていて、破片とガムテープが落ちている。泥棒が入ったのだと悟ったその時。ガタ、とすぐ後ろで音がして、振り返れば入り口を背にして見たことのない男が金槌を持って立ちすくんでいた。悲鳴をあげようにも、金縛りにあったようにどこも動かない。男が金槌を振り上げて、私は死を覚悟して目を閉じた。直後。ドサ、と重い音がした。でも、衝撃が来ない。恐る恐る目を開けると、深い藍色の目が一つ、私を覗き込んでいた。その後ろで、龍さんと同じ格好をした人が数人、男を取り押さえている。

 

「くるのが遅くなってすまない。ガラスが割れたことの確認の電話を入れたが、出なかったので泥棒だと判断し、駆けつけたのだが」

 

 優しい声に、また涙が出た。私はこの人の前では泣いてばかりだ。優しく頭を撫でてくれるから、余計に。

 

「俺が守る……守らせてくれ、愛」

 

 久しぶりに、名前を呼んでもらえた。背中に、龍さんの腕が回される。こんなことされたら、もうダメだった。自分が思うより、恋をしていた……龍さんに。龍さんに出会ったあの時から思うように息ができなくて。あいつとはあんなにそばにいたのに、まるで嘘みたいで。あいつなんかもう過去の人。私は、龍さんを忘れられるなんてこととてもできそうにない。それだけは確かだ……あんなに、捕まらないように抵抗したのに。もう降参だ。抵抗虚しく、遂に取り押さえられた私は囁くようにlemonを歌った。