拒む

 

 

 急勾配な坂道で足を滑らせた。

 

 腐葉土に隠れていた木の根に爪先を取られた。爪先がひきのばされるような痛みとともに、浮遊感が襲う。肝がきゅうっと縮む心地がする。景色がひっくり返った。厳粛に立ち尽くす木々の湛える深い暗い陰の中にいた弥平の目を、強い陽の光が突き刺した。視界が黒く濁って何もわからなくなった。あっ、と上擦った声が出た。思わず口を押さえようとして、倒れる我が身を庇う手が遅れた。声を上げたのは久々だった。身体は地面に打ち付けられた。膝を岩のあらわになった部分で打ったか、ひりりと痛んだ。

 

 おかしい。手ぬぐいを深くかぶった視界には下しか映らないはずだ。下しか見ないはずなのだ。それなのに気がつかなかった。下すらも見ていなかった。ばかだから。弥平は自分の愚鈍さを恥じた。手ぬぐいの陰でひとり顔を赤くして、地面に手を突いて立ち上がろうとする。手指や爪の間に湿った土が入り込んだり付いたりして、弥平の不注意を咎めて、弥平の惨めさを助長した。片足がまた後ろへすべる。滑るまいと慌てて土に食い込ませた手指に、生き物のような土の湿り気がまざまざと伝わってくる。鳥肌が立つ。

 

 と、弥平の前の腐葉土の上に影が滑り込んだ。弥平はおそるおそる見上げた。首を上に向けたのは久しぶりだった。

 

「だいじょうぶか」

 

 そこにいたのは、白いハイカラーのシャツを着けた少年だった。その波しぶきの泡のように白い手がこちらに突き出された。爪のきわまで皮が張り詰めていて、少しもささくれたところのない手だ。弥平はどうしていいかわからなかったので、しばらく押し黙って、少年の顔をじっと見返した。頬に、くびに、木々の葉の影が薄青くちらちらと踊っている。日光に照らされた肌は浜辺の貝のように光を跳ね返して、まばゆいくらいに白い。

 

 その白い眉間に、不意に影のたまりができるのを弥平は見た。腹に抱えた鉛玉が重くなった。眼を見ることは叶わなかった。それどころか、もうその顔を見ていることもできなかった。恐ろしかった。この少年は切り離された人間ではないのだ。

 

「どうした」

 

 子どもと大人の間の声。青く匂ってきそうな、よく通る声が耳を刺した。

 

「きさま、口がきけんのか」

 

 弥平は答える気もなかった。うわぁ、と情けない声が口から漏れ出た。手足をむちゃくちゃに動かした。少年の手を自分の手が軽く打ち据えた。ひっ、と息が喉をせり上がってきた。怖い。怒らせたに決まっている。殴られる。足がもつれる。ほとんど転がり出るような調子で立ち上がる。弥平はその場を逃げ出した。

 

「あっまて、おい」

 

 背中にかかる声は小さかった。追ってきてはいなかった。それが弥平を安心させた。弥平は走り去った。夏だった。蝉の音が弥平を苛んだ。どうして逃げたのか? あの手が差し出された意味もわからなかったのか? 馬鹿な奴だ。人間に、自然に、お前は溶け込めない。歯を食いしばった。目を固く閉じた。瞼から透けて見える光が強くなって、ようやく目を開けた。陰鬱な影を落として囁く木々もまばらに、杉皮の屋根の小屋が身を寄せ合っているのが見えた。あの小屋の群れが弥平の世界の全てだった。

 

 弥平にとって自然は畏怖の対象だった。

 

 上原の村は自然の機嫌を損ねないように形を歪め続けてきた村である。北を険しい八獄山に囲まれたこの村は、耕作に向いた豊かな地面に乏しい。ゆえに、口べらしとして、長男以外をその家の使用人として扱う風習がある。弥平と兄は、幼いころは同じように育てられてきた。尋常小学校にも通った。しかし、次第に兄が学校に行っている時分にも農作業を手伝うことが増えた。兄がもらえる菓子がもらえなくなった。兄の前で膝を崩せなくなった。両親は世間体を気にして、米を食いつぶす自分を人目につくところに出したがらなかった。外に出すときは手ぬぐいで顔を隠させた。兄と両親にどんな言葉で接してよいかわからなくなって、喋らなくなった。それでも不思議と、両親と兄を憎む心は起こらなかった。むしろ何かに従うことは、この上ない安心だった。

 

 全て自然が原因だった。誰もが自然に組み込まれていた。少年も組み込まれた振りを続けていなくてはならなかった。多少の苦しみは抑え込んで。

 

 だからといって、朝焼けに山の端をぐらぐらと燃やしている八獄の峰々を、後数千年はそこに佇んで動くまいという堂々たるその姿を、憎む気にはなれなかった。これは全て仕方のないことだった。

 

 弥平にとって、自然は自分から切り離されたものだった。いくら溶け込もうとしたところで、胎盤から胎児が切り離されたように、もはやその関係は戻ることがないのであった。苦しみを感じずに自然に組み込まれていた時分とは、断絶があった。仮に後産で母親の子宮から取り出した血にまみれたまがまがしい胎盤を指さされて「お前につながっていた、お前だった」と言われて言葉を信じる人間はいようが、真に理解をする人間はいまい。弥平は自分が自然の一部であるべきことは識っていたが、だからといって弥平の中にその薄っぺらな知識が認識として落ちてきたためしはなかった。弥平は自然を畏れていた。自然も、自然に寄り添い迎合してきた人間にも、弥平は愛されていなかった。

 

 だから弥平は村を見て心に生じた自分の安堵を恥じた。途端に連なる家々の端の方、自分の家がくすんだ色に見えた。あそこには、どう口をきいていいかもわからない両親と兄がいる。それでも戻るよりほかにない。悪いのは自分だ。走り過ぎたせいで息が上がっていた。上下する肩が自分の生命を嫌でも自覚させる。止まってしまえ。こんなもの。そこだけ蒼黒くなっている喉の皮膚をつねった。重い足を引きずって、歩き出した。明日も叔父の手伝いがあった。学校へはもう行かせてもらっていなかった。

 

 家の戸まで随分と時間がかかった。木でできた薄いはずの戸に指をかけた。重い。ぎりぎりと引き絞るような音を立てながら軋んだ。自分の身体を滑り込ませて、後ろ手に戸を閉めた。土間に草履をする音が冷え冷えと聞こえた。奥では家族の談笑が聞こえていた。両者には大きな断絶があった。そうでなければこんなにも草履の音が鮮烈に聞こえるはずがあるまい。向こうはこちらにも気づいていないようだった。着物は汚れていた。さっき転んだせいだ。自分がばかなせいだ。また叱られる。殴られるかもしれない。それならそれを甘んじて受け入れるまでだ。自然のために村が形をゆがめたように。死ねと言われればきっと死ぬ。言いつけを守ろうと尽くすことが弥平の生きる理由だった。

 

 重い足を上げる。足の裏に汗で張り付いた草履を引き剥がして、奥の襖に片手を掛けた。もう片方の手は、喉の皮膚をぎりりとつねっていた。

 

 すべて自然のためだった。仕方のないことだった。

 

 

 

 明くる日弥平は昨日より目深に手ぬぐいを被って叔父の家へ向かった。頬の腫れと額の傷のためである。叔父の畑を一言も口を利かずに手伝った。声は昨日以来発していなかった。毎日弥平は、一度は喋ろうと試みる。けれど、自分を見る人々の目の中に、ばかで臆病な弥平の無意識が見出しているのか、はたまた人々のうちから確かに発せられているのか、弥平は炎を見る。ぶすぶすと黒い煙を上げてくすぶって、人々の目を濁らせているその炎を見ると、弥平は口を利くどころか息をすることさえも苦しくなってしまう。

 

 手ぬぐいの陰から、後ろの黒々と影を落としている山々に視線を滑らせるふりをして見上げた叔父の目は、こちらを見てもいなかった。ただ炎だけが、ちろちろと蛇の舌先のように覗いた。叔父は田を指さして何事か言っていた。弥平の心はぐうっと自分の目や耳や鼻や皮や肉の奥底に押し込められてしまって、よく聞き取れなかった。怒鳴られた。水越しのようだ。ようやくゆらゆら浮かんできた意識で、胸倉を掴まれて揺すぶられるのを感じた。小袖の襟がゆるんだ。目はすぐそこにあったが、じっと眉間に視線をやって見ないようにした。ぱっと手を離されたので、後ろに転がった。弥平は何も感じなかった。いつもそうだ。内側へ内側へ閉じこもっていれば、何も感じなくて済む。自分の骨と肉が勝手に動き出した。農耕馬でもこうはいくまいというように、黙々と仕事をこなしていく。夏は田植えの時期だった。苗と睨み合うのはすきだった。ただ整然と苗をぐずぐずの泥に挿し並べていくとき、弥平はそこにいる意味を持っていた。

 

 他にも畑の草引きや牛の寝床の藁の入れ替え、火周りの掃除をした。終始無言だった。弥平は、骨と肉が仕事をしているのをただ眺めていた。

 

 

 

 家路についたのは日が傾きかけたころだった。

 

 世界は薄紅色の膜に覆われていた。道の脇に連なる木の幹も、地面も、岩肌も、青々と昼には目にうるさい葉も、全てが夢とうつつの狭間のようなうすくれないに染め上げられている。

 

 だからだろうか、その白は酷く鮮やかに映った。ほとんど目を突き刺されるような感覚だった。

 

 急な斜面に差し掛かったときのことだ。思わずあっと声が出た。そのまま昨日のように無様に滑り落ちかけて、あの白い腕が伸びてくるのを見た。伸ばされた腕は弥平の手首をしっかと掴み、坂の上の平坦な場へと引き上げた。

 

「きさまは毎日あそこで転ぶのか」

 

「ああ、えと」

 

「こんなものを被っているからだろう」

 

 うすくれないの、けれど夕陽が被せたそれよりも幾分か健康的で鮮やかな爪の備わった手が、手ぬぐいをひっつかんだ。弥平の身体はこわばらなかった。人間に触れられるとき、いつも強張る肉は甘んじてその少年の暴挙を受け入れた。不意に手ぬぐいは取り払われて、視界が開けた。

 

 そのとき弥平は見た。少年の目を見た。その目は冷たい流れのようにどこまでも澄んで、弥平のことを映し出していた。炎の気配はそこにはなかった。

 

「そのけが、酷いな」

 

 少年の目に湛えられた清澄なる流れがふっと淀んだ。けれど弥平はそこから目を逸らそうとは思わなかった。少年は頬と額のことを言っているらしかった。弥平はふと、この人は今までに血を目にしたことがあるのだろうか、と考えた。

 

 少年は無遠慮に、しかし壊れ物に対するように気遣わしげに、傷に指を触れてきた。弥平は、遠くの肉ではなく自分が触れられた、と確かに感じていた。今なら口が利ける。

 

「村の人間にやられたのか。ちゃんと庇えばこうはならんだろう、身を庇う術くらいはつけなくちゃならんぞ」

 

「ア、あの、エエット、だいじょうぶやから」

 

 すぐにひっくり返りそうになる声だ。聞き取りづらい声。弥平は少年の目をちらと伺った。瞳は依然穏やかだった。弥平の汗で湿った手に、手ぬぐいが押し付けられた。

 

「もう遅いかもしれんが、氷をもらってきてやろうか」

 

「あの、ほんまに、だいじょうぶやから、はよかえらな怒られるきん……」

 

 少年の手をやんわり払いのける。走り去ろうと、行く道に向き直る。その弥平の背中に、ひっくり返った声が降りかかった。

 

「おれは鹿倉左之助だっ、この上の寺に、今は住んでいるっ」

 

 少年も――左之助も大きな声を出すのは久しぶりだったと見える。弥平は思わず足を止めた。

 

「きさまっ、名前はっ、なんというんだっ」

 

 弥平は振り向いて、息を吸って、吐いた。もう一度息を吸って、吐き出しざまに自分の名前を叫んだ。

 

 左之助がぱっと笑顔に顔を輝かすのが見えた気がした。弥平は手ぬぐいを被りなおして、駆けだした。足取りは軽かった。

 

 

 

 まさか本当に死ねと言われる日が来るとは思っていなかった。

 

 それにしては心が凪の大海のようにしずかだった。無意識下にやはりそれは予感されていたのだろうか。

 

 切っ掛けは誰だったろうか。家族の誰かだった。いつも発せられるその言葉はただの呪詛だった。苛立ちから出た軽い呪詛は、弥平の肉に投げつけられようと弥平には届かない。縮こまってやり過ごす肉を、弥平は内側から眺めていればよかった。ところが今日は様子が違った。兄は虫の居所が悪かったのか、唾のかかりそうな勢いで弥平を怒鳴りつけた。このごく潰しめ、目障りだ、死んでしまえ、とか、そういう内容だったように思う。気がついたら外に締め出されていて、こうした場合に辛うじて世間体から家に引き入れようとする母の気配もなく、そうしてようやく弥平は自分が本当に死ねと言われたのを知ったのだった。

 

 外気が頬に触れていた。その冷たさが骨と肉の檻の中から弥平を呼び覚ました。八獄の山々は少しも譲る気がない様子で、朝焼けの藍の空の中に赤く燃えていた。今は早朝であるらしかった。これからどうやって死のうかと考えた。弥平は足を引きずって山道を歩いて行った。どこへ行こうというわけではない。この世に自分がとどまっていられる場所などない。ひとところにいると気がどうにかなりそうで、歩いていた。歩いているうちに、弥平自身は肉と骨の檻の中へ再び閉じこもった。死ぬのに自分は邪魔だった。

 

 道からそれてしばらく行くと、木立の向こうに川の流れが見えてきた。弥平は川のほとりに身を屈めた。へりを掴んで水底を見た。清らかな水を透かして見る川の底は、存外に深いらしかった。身を乗り出した。水は細かい波紋を重ねながら、ゆっくりと滑っていく。試しに足を投げ出してみた。水面が乱れた。草履の爪先は、底へは届かなかった。そのまま尻を滑らせて岸を下りた。着物が水で重みを増して、身体にへばりついていく。顎先まで水に浸かった。このままひとたび足を蹴ってしまえば、海へ出るころには死んでいるだろう、と弥平の肉は考えた。首をすくめて頭を水の中に突っ込んだ。水底の白い砂を、自分の足が蹴るのを見た。

 

 水の上から誰かの声を聞いた気がした。

 

 

 

 水面がゆれていた。やけに橙の水面だ。ぬくい水だ。

 

 光が目に染みた。あらゆる輪郭が光に蕩けていた。だから弥平は、自分が見上げているのが一枚板の木の天井であることに気付くのに時間がかかった。天井の板の木目が渦を巻いている。西日が差していた。枕元、弥平の顔には影が落ちている。横を見ようと身をよじると、誰かのかけた布団が身体に触れたのを感じた。存外に柔らかかった。

 

「起きたか」

 

 見ると、あの白シャツだった。弥平はその糊の効いた、重力所以のもの以外しわの見当たらない純白を見た。その腹によったしわを、釦を追っていって、高襟、シャツの白さに劣らぬ白い首すじ、細いおとがい、柔そうなつくりなのにきりりと引き結ばれた唇、華奢でよく通った鼻梁、そして少しためらって、あの涼やかな目許を覗き見た。この自然に愛されてつくられた、自然そのもののように侵しがたい姿をとった自然の生霊は、弥平の土気色の顔にごく穏やかな眼差しを向けていた。

 

「あの、ぼく」

 

 そうでなければ、弥平の口からこんな風にほとんど無意識に言葉が滑り出るはずはない。

 

「礼なら典座さんに言うと良い。飯田に行こうと出かけたときにお前を見つけたと言っていた。すぐに見つかったから大事にならずに済んだ」

 

「かわいそうに。村の人間に何か言われたのか。いくらなんでも死ぬ必要はあるまい、何がそうまでさせるのか……」

 

 まただ、瞳がふっと淀む。そこに憐憫以外の棘ある何かがちらりとゆれたのを弥平は無視した。その瞳の特別を疑いたくなかった。それに、棘はこちらに向けられていなかった。弥平が自ら死を選ぼうとしたというのも、それが村の人間のせいであるというのも、彼のこの比類なき目によっては見透かされてもおかしくないことだ。そう信じるよりほかになかった。

 

 左之助の崩した膝の上には、何かの絵図らしい鉛筆の線が踊っている帳面が広げてあった。

 

「なに、かいとるん」

 

「あっ、だめだ」

 

 弥平が手を伸ばしかけると、左之助は耳朶まで真っ赤にしてそれを後ろ手に隠した。そしてひとつ咳ばらいをして、格式ばった口調をつくった。

 

「まず言い訳をさせてくれ」

 

 何がなんだかわからないままに弥平は頷いた。

 

「おれは、本当は何かをかいたりして身を立てたかったんだ。少女世界に載ったこともある。小説だとか、その挿絵とかを描く人間になりたかったんだ」

 

 弥平は小説も少女世界も知らなかったが、左之助がやることならそれはきっと素敵なのだろうと思った。

 

「見せてくれへんの?」

 

 なにかをせがんだのは久しぶりだった。この少年の目の前ではついつい口から言葉が滑り落ちてしまう。あっ、と思ったときには遅かった。おそるおそる左之助の目を伺った。その目は一抹のきまり悪さに揺れていたが、それだけだった。そこに弥平の身を炙るものはなかった。

 

「構わん。好きに見るといい」

 

 観念したのか、左之助は帳面を広げた。弥平は半分身を起こして、帳面を覗き込んだ。どこかに打ったか、肩が引きつって痛んだ。久方ぶりにじかに受け止めた痛みは、それすら新鮮だった。左之助は立ち上がって、おれはお前が起きたのを知らせてくるからな、と言って出て行ってしまった。立ち上がる勢いの割に、襖の開け閉めは静かだった。最後に見た耳朶はまだ桜色をしていた。

 

 帳面には玉簾や熨斗蘭などの植物が生き生きと描かれていた。途中には、手ぬぐいを被った少年の姿もあった。命にみなぎった様子で帳面の上にいる彼を、弥平は自分だとは気づかなかった。それでも、使われている中で一番新しい頁を見て、気づかないわけにはいかなかった。弥平の決して整っているとは言えない顔が、山の植物同様に生き生きと命の気配を横溢させて帳面の中に眠っていた。今にもその目が開きそうだった。

 

 弥平は帳面を畳の床から取り上げて、まじまじと見つめた。しばらくの間そうしていた。自分は切り離されていなかった。左之助の目から見て、自分は自然と溶け合っていたのだ。と、鉛筆の線がぼやけた。目尻からつうとぬるいものが伝っていた。

 

 

 

 左之助か誰かが手を回してくれたのか、身を寄せるところのない弥平のことを和尚の老爺は存外に容易く受け入れた。ただ置いてもらうのでは申し訳ないから、二人ほどいる弟子と同じように開定の五時には起きて作務を手伝った。肉と骨に任せきりにしない仕事は、ひとつひとつが小気味よい楽しさを伴った。

 

 左之助が「典座さん」と呼んでいた大人に聞いた話だが、左之助は受験勉強をするために静かなところが良いと言って、親戚が和尚をしているこの禅寺に来ているという。陸士に入って将校になるのだと言っていた。将校というのは兵隊のことらしい。あの繊細な白い腕が鉛筆の代わりに小銃を握るのを想像して、似合わないと思った。藍の軍服の奥であの白いシャツの細い胸が血に汚れるところを考えるのはもっと苦痛だった。左之助はそれまで絵描きの話しか教えてくれなかったが、人づてに聞いたと言うと案外容易く打ち明けてくれた。左之助の話は物書きを生業にしたがっただけあって、骨子のしっかりとした面白いものだった。相部屋だったので、彼は度々枕元で打ち明け話をした。

 

 その夜も、弥平は左之助の話を聞いていた。夏は既に終わりに近づいていた。東京の中学の休みがどれくらいになるのかは知らなかったが、聞こうとも思わなかった。

 

「入ったら毎朝五時半起きだそうだ」

 

「このお寺の方が早いやん」

 

「寺とお前のもとの家と、どちらが早い?」

 

「家かなぁ」

 

「お前の家の話を聞きたい」

 

「面白いことないと思うよ、ぼくはばかやし、左之助みたいに上手く話せへん」

 

「それだ」

 

 左之助の語調が急に鋭く切れ味を増した。

 

「それだよ。誰がお前に、お前が馬鹿だなんて教えたんだ」

 

 いつになく神妙な口調だった。弥平は黙った。どうにかして紡ぎ出して、答えなくてはならないと思った。部屋の暗闇は一層深く、静まり返っていた。左之助の控えめな息遣いが聞こえていた。

 

 言うべきことは決まっているように思われた。すべては自然のせいのはずだった。恐ろしい自然が人々を蝕んで、慣習は歪み、歪んだ慣習が後の世の人間を歪め、そうして増幅する呪いは受け継がれてきたはずだったのだ。弥平に自分がばかだと思わせたのもきっと自然のはずだ。もし弥平が本当にばかでないならの話だけれど。

 

 しかしそこまで考えて、弥平はあの帳面の絵を思うた。あそこに描かれた弥平と自然とは、同等のものであった。決して支配と服従の関係にはなかった。自然は決して、人間を歪めてなどいない。では何が。何が人間を、己を歪めたのか。

 

「にんげん」

 

 首を絞められてもこうはなるまいという、掠れて擦り切れた声だった。息が上がっていた。自然の為したことであるならば仕方がないと思われた。山はどうあがいても取り除けはしない。しかし、人間となれば。

 

「そうだろうな。人間だ」

 

 左之助の厳かな声で、弥平は我に返った。暗闇の中であの、茫洋たる大海の如く穏やかな瞳がこちらを見ているような気がする。

 

「自然は何もしていない。人間が勝手に歪んで、その次の人間を歪めた。歪められた人間はさらにその次の人間を歪めていく。負の連鎖が続いていく」

 

 滔々と語る声は、しかし鮮烈に耳に刻みつけられていく。

 

「誰かが断ち切らなければならない。山は焼いても残るだろうが、村は焼けば残らない」

 

 弥平はあの目を思うた。あの清爽たる光を宿した双眸を思うた。あの目は今、燃えている。暗闇の中で、人の子の目にしかないはずの炎を上げている。弥平を苛む炎ではなかった。むしろ甘美ですらあった。それが危うかった。

 

「一緒にやろう。なぁ、弥平」

 

 弥平はあえぎあえぎ、ほとんど泣きそうになりながら答えた。

 

「で、でも、ぼく、ぼくも、ゆっゆがんだ人間とちゃうんやろうか」

 

「ならこうしよう」

 

 枕元に添えた手に、左之助の手がほとんど押さえるような調子で重ねられた。たちこめる闇の中にあの白い腕を見た気がする。

 

「火を放った後に、ふたりで死のう」

 

 誘いの語尾が柔らかく途切れたのに、弥平はあのきゅっと結んだ唇がゆるめられて、乳白色の歯をのぞかせて笑っているのを浮かべた。応えたかった。けれど唇は震えどおしで、返事をすることもできなかった。死ねと言われてひとりで川に身を投げることもできた自分が、どうしてこんなにも簡単な決断ができないのだろう。そうだ、あのときのように骨と肉に任せてしまえばよい。弥平は肉の中に自分を隠そうとした。できなかった。しゃくりあげる声だけが収まらなかった。それもそのはず、どうして自分を初めてあんな目で見てくれた人を、欺くことができよう。加えて命が惜しかった。左之助が教えてくれた自分の身のかわいさが、左之助に添い遂げることをよしとしなかった。

 

「できん」

 

 泣き止んで、鼻声でようやく漏らしたのがその一言だった。弥平の手に重ねられた左之助の手の力がすうっと緩まった。炎がうずもれていった。

 

「そうか」

 

 その手が離れてゆくように思われて、弥平はどもりながら続けた。

 

「前まではっ、前まではこんなことなかったんや、きっと死ねた、一緒に死ねた、それやのにっ」

 

「わかった、わかった」

 

 なだめるように、一定の拍子で手の甲がさすられる。声は変わらず優しかった。

 

「悪いことをした。すまなかった」

 

 左之助は切々と謝意を述べた。どう答えていいかわからずに、弥平は鼻をすすりあげた。既に外が白みはじめていた。幾分か薄らいだ闇の中に、あの白い腕が浮かんでくる。

 

「随分先になるだろうが、またここには来るからな」

 

 弥平は目尻を拭って何度もうなずいた。随分先になるというのは、陸士に行くからということだろう。

 

「それまでお互いに生きていよう」

 

 闇に慣れていた目は、ほのかな光の中にもくっきりとものを見出す。左之助のあの瞳ともなればなおさらだった。今まで見た彼のどの目よりも強い光を湛えていた。軍帽の陰に隠れたところで翳りそうにない光だった。

 

 弥平は深く頷き返した。手の甲を返して、重ねられた左之助の手を握った。すぐさま握り返された。暁の光は既にうすくれないの色が判然とするくらいに、部屋に差し込んできていた。