甘蕉皮

伽藍洞

 

 葵さんはバナナの皮を好んでよく食べた。

 僕もバナナは嫌いではない。だが、僕はバナナの皮は嫌いだ。

「葵さん、バナナの皮食べる?」

 食べない。

 だが、人と話すことが嫌いな僕は、そんなことは言わない。

 こくんと頷いて、黙って下を向く。

 いつのまにか、誰もいなくなっていた。

 僕の机の上にバナナの皮が横たわっていた。

 

 僕は男について何も知らない。

 だが今日も、男は同じ場所に立っていた。男はまるで、凡庸を体現したかのようである。

「葵くん」

 男は僕を、葵くん、と呼ぶ。

「君は葵さんじゃない」

 その通りだ。僕は葵さんではない。

「君はただ元に戻っただけだだ、葵くん」

 僕は元から何も変わっちゃいない。僕が知覚している記憶と、周りが知覚している記憶がかち合わないだけだ。

 

「葵さん、最近変わったよね? どしたの?」

 僕は答えない。

「人が変わっちゃったみたいね?」

 僕は何一つ変わっちゃいない。

「前まではあんなに面白い人だったのに」

 皆、僕の知らない葵さんの話をする。

 僕は葵さんについて何も知らない。

 何も知りたくない。

 

 今日も男は同じ場所に立っていた。凡庸な男はいつものように僕に向かって呟いた。

「君の時間は十歳の頃から止まったままだろう」

 その通りだ。

 僕は十歳の頃までの記憶しか持ち合わせていない。

「だが君は今現在十八歳だ」

 周りが知覚している記憶はそうなっているらしい。

「君の空白の八年間は葵さんが君だったんだよ」

「葵さんは君のことをよく知っていた」

 僕のことをよく知っていたのなら、僕が知覚している記憶と、周りが知覚している記憶がこんなにかち合わないはずがない。

「葵さんは本当に、君を心配していたんだよ」

 それは周りの知覚している記憶にすぎないはずだ。

 

「葵さん、バナナの皮食べる?」

 今日も僕の机の上にはバナナの皮が横たわっている。

 その光景に少し、心を動かされた。

 

 男は言った。

「葵さんは君が帰ってきたときに、もっと社会と関わっていけるようにって、君を少しずつ変えていったんだ」

 僕には、僕が帰ってきて自分の居場所がなくなったときの保険にしか感じられない。

 僕と周りに知覚のズレを生じさせるための。

「葵さんは君が早く帰ってくることを毎日のように願っていた」

 知覚のズレによって、僕から葵さんを忘れさせないようにするため、葵さんは――

「君は葵さんじゃない、君は君だけのものだ。そして葵さんもそれを望んでいた」

 ――そうだとしたら僕は、バナナの皮をもう食べなくてもいいのか。

 

「葵さん、バナナの皮食べる?」

 僕はふるふると首を横に振った。

「そっか、また食べたくなったら言ってね」

 僕の初めての拒絶は、僕の思うよりずっと簡単なことだった。

 

 男は今日も呟いていた。

「君は両親のすれ違いの中で、限界だった」

 そうだったような気がする。

「だから君は『切り離された』人格を作った」

 葵さんだ。僕自身が葵さんを作ったということか。

「葵さんという世渡り上手な『君』は君のことだけを思って両親を、環境を、そして君を、変えていった」

「君のつらい記憶はみんな、葵さんが持っていった。君はいつだって一人じゃなかったんだよ」

 今の僕があるのは葵さんのおかげか。

「葵さんのためにも君は君らしく生きるべきだ」

 僕らしく生きていいのだろうか。

「君は君だけのものだ」

 その言葉が嬉しい。

 僕自身を認めてくれることはこんなにも幸せなことなのか。

「もっと君と話していたいが、ここでお別れだ」

 僕は僕自身を認めてくれる男が案外好きだった。

 男はおもむろにバナナを取り出した。

「餞別だ」

 そして、僕の掌に握らせた。

「バナナの皮、残すなよ」

 と、言い残して男は消えた。