一睡の夢

 

 黒い大きな軍が、移動を始める。ぼんやりとした月明かりの下、その軍は二手に分かれ、柔軟に形を変えながら小さな丘とも言える山を登っていた。それに呼応するように第三の軍も動き始める。山を下る川のように滑らかに、それでいて音もなく、粛々と進んでいく。一方は山を登り、もう一方は同じ山を下る。二つの軍は期せずして鬼ごっこをしていた。捕まれば、そこで終わり。しかし、鬼ごっことは少し違う。逃げている者を捕まえた時、鬼も終わる可能性がある。

 

 ふと、その軍は同時に立ち止まった。片方は山の頂上付近で、もう片方は川の手前で。一瞬ののち、一方は月明かりが反射している川を渡り、暗闇よりさらに闇の深い辺りに身を潜めはじめた。もう一方は己の存在が最初からなかったようにその存在感を闇に溶かした。

 

 ……三つの軍は物音一つ立てず、目だけを異様に光らせながら静かに夜が明けるのを待っている。夜明け前の冷たい霧が、川を渡り暗闇に身を潜めた方の濡れた足を、さらに冷やした。その軍の先頭では、一層眼光の鋭い男が体の震えを一心に抑えていた。男の名は、上杉謙信。越後の大名だ。身を切るような冷たさを感じる中、謙信は静かに愛馬の栗色の背を撫でた。吐く息が白くなりはしないかと謙信は息を吐き出したが、霧に紛れてわからない。もう一度謙信はため息をついて、後方へ振り返った。そこでは、謙信と同じように身を震わせた男達がいる。その更に後方では、男達が未だ川を渡り切らず、膝まで水に浸しながら馬の手綱を引いている。足音を立てず、鞭の音すら立てず、深い夜に川を渡っている。夜が明けたときに、少しでも有利に戦を進めるために。敵は戦国最強といわれる、武田の騎馬隊。言うなれば、大きすぎるほどの牙を持った虎。それならば、私たちは龍になればいい。初めてあの人と戦をしてから八年。この八年の間私はただ、あの人に一刀をくれてやるために戦っていた。あの人は「甲斐の虎」と言われ、私は「越後の龍」といわれている。あの人の軍装が派手になっていくのに対して、私たち上杉軍はずっと黒のままだ。この戦国の世では、きらびやかな軍ほど強いとされている。初陣は、黒。それから戦数を重ねるごとにだんだんと色が増えていく。だが、私たちはそうでなくていい。武田の騎馬隊に唯一対抗できるのは、私たち上杉軍だけだ。今も、寒くて震えているのではない。上杉軍は寒さに強い。雪国の宿命で、冬は完全に雪という魔物によって外界から隔離される。雪は最大の敵であり、最大の友だ。ただ、いつもこの瞬間……出撃の直前には、体の震えが止まらなくなる。早く暴れさせろと体の中の龍が暴れ始めるから。

 

「謙信様」

 

 静かに瞑想する謙信に呼びかける男がいた。

 

「清重か」

 

 村上清重。私がその宿敵、武田信玄と刃を交える最初の理由を作った男だ。

 

 忘れもしない、八年前のあの日。自室で書を読んでいた私の元に、一人の家臣が慌てて入ってきた。

 

 

 

「失礼致しますっ! 景虎様、川中島の領主、村上清重様がいらっしゃいました!」

 

「村上清重殿……本人が?」

 

 驚いて尋ねかえす私に、家臣はこくこくと首を縦にふった。川中島は、上杉と武田と領地を接する地。そこの豪族、村上の当主である村上清重が、留守の間に土地を取られる危険を冒してここに来たということは。

 

「武田が、取ったか……」

 

 川中島は肥沃の地。武田信玄がずっと狙っていた土地だ。先日届いた「信玄に動きあり」という報はやはり川中島を狙ったものだった。広間に入ればそこにはボロボロになった着物をさらに泥で汚した、哀れな男が身を小さくして座っていた。私の姿をみとめると直ぐに頭を下げた。

 

「む、村上清重にございます! 景虎様にお願いがあって参りました」

 

「なに? 言ってごらん」

 

 あぁ、戦が始まる。考えるまでもなく、体の中からその言葉がでてきた。一人の男である前に、上杉の頭領であれ……。その言葉は呪いのように私についてまわる。私は。私の存在意義は。上杉の頭領であることだけだから。

 

「恥を忍んでお願い申し上げます。どうか、私の土地を取り戻してください……」

 

 頼られたからには、断れない。窮鳥懐に入れば猟師も殺さず。

 

「いいよ。その代わりに君は何をくれるの?」

 

「……私の、忠誠を。貴方様のみに捧げます」

 

「私にではなく、義に忠誠を捧げること。分かった? 私が義を失った時、私を殺してでも止めること。それが、私が家臣に求めることだ。君は、約束できる?」

 

「……かしこまりました。貴方様が道を誤った時、必ずやお止め致します」

 

「うん。よし、じゃあ景家、出陣の準備をしてくれる?」

 

「はっ。出陣は……」

 

「軍備が整い次第、すぐに」

 

 サッと動き始める、私の自慢の家臣達。そこに新たに一人、村上清重が加わった。

 

 

 

 そして出陣した川中島、その布施という地で、私は衝撃を受けた。どっしりとした陣。山のように大きく、静かで……動かない。父親を追放した男、どのような傲慢な男かと思っていた。しかしこれは。

 

(甲斐の虎の名は、だてじゃない、か……)

 

 鮮やかな赤色が輝く軍装。風になびく旗には、赤地に金色で鮮やかに文字が書かれている。疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山。孫子の軍争篇第七からの抜粋だろう。

 

(一文字も欠かさないとは……嫌味な男だ)

 

 対して私の紺色の旗には、戦の神、毘沙門天の毘の白い一文字。四文字ですらも省略する私と、十四文字全てを入れる晴信。考え方からして、違う。背筋に震えが走った。この戦、睨み合いで終わるだろう。この先も、何度もこの男と睨み合うことになる。三国時代の劉備と曹操のように、私達は宿敵と呼べる間柄になるだろう……。それは上杉家にとって脅威となる。決して喜ぶべきことではない。しかし。

 

 ――武田晴信。私の宿敵。

 

 そういう存在ができたことが、私の体を熱くした。

 

 

 

「謙信様?」

 

 怪訝そうな顔をして、清重が謙信の顔を覗き込んだ。

 

「あ、あぁ……ごめんね、ちょっと昔のことを思い出していて」

 

「昔のこと?」

 

「うん。……もう、八年になるね、私と君が知り合って」

 

「謙信様には感謝しております。上杉にはなんの利もないにもかかわらず、私達を助けてくださった」

 

「まだ、助けられていないけどね。それに……利は、ある。信玄は実の父親を追放した。それは義に背く行いだ。義に背く者は」

 

「殺してでも止めること、ですね」

 

「ふふ、そうだよ。だから、私が信玄と戦うのは私の信条のため」

 

 謙信の目は真っ直ぐ前方に向けられている。その目に映るのはかならずしも敵意だけではなかった。

 

「謙信様……あなたは……」

 

 清重は、目を見開いた。その目に宿しているのは、あるいは兄を慕う弟のような、あるいは離れた恋人を想うような光。

 

「この想いは、許されるものでは無い。わかっていますよ」

 

「まさか……謙信様……」

 

 清重は息を飲んだ。

 

「敵の将に尊敬の念を抱くなど……。上杉の総大将として、許されるはずがない。ん……? 清重? どうしたの、耳を赤くして」

 

「い、いえ……申し訳ありませんでした……」

 

「……? 変な清重」

 

 清重は、謙信の端正な顔が再び前方に向くのを確認し、ほっと息を吐いた。その顔に一筋、赤い光が差す。

 

「夜が明けるね。そろそろ行こうか」

 

 謙信は腰に結いつけた瓢箪の酒を一気に煽った。口の端から零れた酒を腕で乱暴に拭い、その目を信玄に向ける。

 

「くくっ、さぁ、楽しい楽しい遊戯の始まりだ」

 

 酒に濡れた唇を舐め、謙信は妖艶に笑った。ひらりと愛馬に飛び乗り、薄明かりの中でその刀を天に突き上げて。

 

「行くぞ、皆の者」

 

 一声上げて、手綱をしならせた。

 

 

 

 ドドドドド……

 

 黒い地震が、信玄の陣を襲う。

 

「敵しゅ……っ」

 

 敵襲、と叫ぼうとした男は言い終わることなく地に伏した。血に濡れた姫鶴一文字をかかげ、謙信はその草原を駆けた。点々と立つ背の高い草木をなぎ倒し、大木を目指して。

 

「信玄、どこだぁーっ! 出てこい、出てきて我と刃を交えよ!」

 

 返り血をしたたらせ、馬と一体化したその姿は人にあらず。

 

「ば、化け物だ……」

 

 その姿を目にしたものは刀を構える間もなく地の味を知ることになった。その獰猛な瞳は先だけを見据えている。その先にあるのは、信玄の本陣。

 

「そこか、信玄!」

 

 一太刀で陣幕を切り落とし、謙信は馬を止めた。

 

「やっとその面拝めたな、信玄」

 

「ははっ、そうだな、謙信。しかし、聞いてた話とだいぶん違うな?」

 

「違ったか?」

 

「ああ、全然違うな。それでこそ俺の宿敵だ」

 

「宿敵、か」

 

「お前も俺の事そう認めてるんだろ? お前の戦い方がそう言ってた」

 

「どうだかな……っ!」

 

 言葉と同時に謙信は馬の腹を蹴り、刀を信玄に振り下ろした。耳障りな金属音が響いた。数歩行き過ぎて、馬の首をかえす。

 

(仕留め損ねたか……)

 

「謙信、お前細い体してどんだけ重い攻撃すんだよ」

 

「軍配で防いだか」

 

「くくっ、おもしれぇ、おもしれえよ謙信」

 

 信玄が立ち上がり、軍配を右手に持ち替えた。

 

「お前、どうやって啄木鳥戦法を見破った?」

 

「昨夜飯を炊く煙が異様に多く上がっていたのが見えたからな、夜のうちに山をおり、背後にまわらせてもらった!」

 

「おっ、と……はは、それでか……っ!」

 

 刀と鉄の軍配で打ち合い、火花を散らしながら、宿敵達は合間に言葉を交わした。

 

「っ、あの挟み撃ち戦法……啄木鳥戦法か。誰が考案したっ!」

 

「うちの勘助だっ! 優秀な男でな……っ」

 

 信玄は軍配で謙信の刀を受けたままその地に片膝を付いた。

 

「どうした、信玄! もう終わりか?」

 

「はは、悪ぃ……続けよう、ぜ……」

 

 口元を拭い顔を上げ、笑ってみせた信玄の顔を見たその一瞬、謙信は目を見張った。

 

「信玄、お前……」

 

 信玄の口元は血で濡れていた。口元を拭った手にも鮮やかな赤がついている。

 

「問題ねぇ、続けるぞ。八年待ち続けた好機だ、みすみす逃すつもりはねぇ。まだこれからだ。違うか、謙信?」

 

 ……私もそう思っていたよ、信玄。しかし病に侵された君を見て、酔いは覚めてしまった。長いこと待った好機だからこそ、万全の君と、本気の勝負をしたい。

 

(どうか君の病が、治るものでありますように)

 

「ううん、もうおしまいだよ、信玄。万全の君でなければ意味はないからね」

 

 その声に合わせるように地響きが近付いてきた。武田軍が予定と形こそ違えど作戦を遂行しようとしている。

 

「引き時だ、引け!」

 

 退却の太鼓がなり、兵達が巧みに撤退の姿勢に入る。

 

「逃げるのか、謙信?」

 

「ううん、君ならわかるでしょ? 戦略的撤退だよ」

 

 謙信は静かに馬をかえした。信玄が後ろから斬り掛かることはないだろうと信じている。

 

「早くその病が治ることを願っているよ。心から。その時は」

 

 謙信は地に落ちている陣幕を馬の足で踏みつけ、薄らいできた霧の中にその姿を溶かした。

 

 

 

「上杉、謙信。ただの綺麗好きな女男? どこがだ。北条の情報はあてになんねぇな」

 

「信玄様! 申し上げます、武田信繁様、山本勘助様他多数の討死を確認致しました!」

 

「そうか……あいつらが死んだか。謙信……やはりすごい男だ。いつか、もう一度……」

 

 その目は謙信が去った方に向けられていた。

 

 

 

 その三年後にもう一度戦う機会があったにも関わらず、信玄は私との決戦を避けた……。病が完治していなかったのだろうか。もう一度、会いたい。もう一度だけでいい。それなのに。その報を受けた時、私は朝餉を食べていた箸を取り落とした。一五七五年。川中島、八幡原で合間見えた時から十四年。もう一度会いたいとあれだけ願っていたのに。恐らく彼もそう思ってくれていたはずなのに。

 

 

 

「信玄が、上洛を辞めた?」

 

「は。京を目指し進軍を開始した武田軍は三方ヶ原で織田・徳川連合軍相手に大勝、そのまま進むかと思われましたが動きを止め、その後引き返し始めました」

 

「何も無く引き下がるはずはない。武田領に一揆が起きた様子はないし、北条も私達も動いていない。ということは武田軍自身に何か……。っ、まさか! 嘘だ、そんなはずっ……!」

 

 家臣達の目を感じ、飛び出しかけた言葉を飲み込む。私は大将だ。見苦しい姿は見せられない。

 

「惜しいひとを、亡くしたね……」

 

 それでも、どう耐えてもそのひとしずくだけは抑えることが出来なかった。

 

「部屋に、戻るよ」

 

 皆が目で私を追っている。私の体ではないような浮遊感。自分の部屋に戻って襖を後ろ手に閉めた時、足の力が抜けた。信玄が、死んだなんて。あの人が死ぬわけがない! あんなに傲慢で頑固で不義で、豪快で繊細なひとが! 嘘だ、信じたくない!

 

「くっ……あぁ……っ」

 

 止まれ、死んだのは敵だ、だから涙なんか流しちゃいけない! それなのに。

 

「どうして……っ、止まってくれないの……っ」

 

 拭ってもそれは次から次へと溢れて、頬を、手を、着物を濡らしていく。一度会ったっきりの、あのからっとした笑みが脳裏に浮かんで離れてくれない。

 

「しん、げん……っ、どうして君は、勝手に! 約束、したでしょう……っ、君が完治したら、もう一度……っ! うわぁぁっっ!!

 

 わかっていた。信玄はもう、戻ってこない。どう嘆いてももう一度あの笑顔を見ることは出来ない。ましてや刃を交えることなど。泣き疲れてぼんやりした頭で思う。

 

 ――信玄、君に。最高の〈宿敵〉、いや〈とも〉である君に、私が出来ることはなんだろう。私の〈特別〉である君に。

 

 

 

「それで謙信様は上洛を目指されたのですね」

 

 八分咲きの桜が見えるように襖を開け放ち、どこか疲れた顔をした上杉謙信と、その養子となった上杉景勝の幼なじみである樋口与六が談笑している。その部屋の入口では数人が二人の護衛をしている。その一人である清重は部屋の中に視線を向けた。

 

「そうだよ。がっかりしたかい? 私が上洛を目指す理由を聞いて」

 

「いいえ、謙信様らしいと」

 

「私らしい? ……私らしいとはなんなのだろうね」

 

「その甘さです。そしてその甘さを知りながら考えを変えず、全てをやり通す強さです」

 

「これは手厳しいね。……与六。君は将来、直江の家を継ぐ気はないかな?」

 

「直江の家? しかし、あそこは名門では? 俺が継いでいい家ではないと思いますが……」

 

「いくら持病があったといえ、私は信玄があそこまで突然に死ぬとは思っていなかった。私もいつ死ぬか分からない。そうなった時君に、景勝の傍にいて欲しいんだ」

 

「俺に、堂々と景勝を助けることが出来る地位を下さるのですか」

 

「君と景勝は、いい主従であり、いい友であり、好敵手でもある。その存在が、お互いの支えになる」

 

「分かりました。謙信様のご期待に添えるよう、そして直江の名に恥じぬ男となれるように精進致します」

 

「うん。この上洛が上手くいけば家督は景勝に譲る。……ふふ、そんな顔しないで、与六。これはあの人が死んだあの日からずっと、考えていたことなんだよ」

 

「恐れ入りますが、謙信様」

 

 堪えかねたように清重は口を出した。

 

「清重。どうしたの?」

 

「謙信様、私は謙信様のご隠居も上洛も反対です」

 

「先日の軍議で何か言いたそうにしていたのはその事だったのかい? 理由を聞いても?」

 

「その御上洛に、なんの義がございましょう? 謙信様のご隠居に、なんの義が? 武田のために義を疎かにしないで頂きたい」

 

「義、ね……。義ってなんなのだろうね? 誰かを救うために戦をしてもその戦で他の誰かが不幸になる。かといって戦をしなければ、私に助けを求めてきた人は不幸なままだ」

 

「何が仰りたいのでしょうか」

 

 清重の眉間に皺が刻まれる。それに気付いた謙信はその眦を下げた。

 

「私には義がなんなのか分からなくなってしまってね」

 

 清重はその目に、失望を浮かべた。怒りとも悲しみともつかぬ失望を。

 

「あなたは……変わってしまった。あの男が死んでから」

 

「……」

 

 足音を立てて清重が部屋を出ていく。謙信は微動だにせず庭を見つめている。強い風が吹き、咲ききらない桜が散る。

 

(君は風のような男だったね、信玄。突然に私の前に現れ、私を偽善的な義から引き離した。そしてあっという間にいなくなってしまった。私はいつも、君に踊らされていた)

 

 私はあの雪の上に散った花だ。もう動く術を持たない。

 

「……上洛はやめない。予定通り明日には出陣するよ」

 

 カタ、と音を立てて謙信は杯を置いた。

 

「もう飲まれないのですか?」

 

「うん。あんまりお茶を飲むと、出陣前に酒が飲めなくなるからね」

 

「とっておきの酒をご用意しましたからね、楽しみにしてて下さいよ」

 

「ふふ、それでこそ与六、私の愛弟子だ」

 

 部屋を出かけて、謙信は振り向いた。

 

「そうだ。君が直江の家を継いだら、兼続と名乗りなさい。そして自分に恥じない生き方をしなさい。私みたいに後悔しないように」

 

「直江、兼続。ありがとうございます」

 

 兼続は右膝を立て刀を少し引き抜き、勢いを付けて鞘に戻した。キン、と甲高い金属音が響き、謙信は満足げに踵をかえした。

 

 

 

 あちらこちらで酒を酌み交わす男達が騒いでいる。まだ少し肌寒いだろうに、諸肌脱ぎの男もいる。

 

「あ、父上」

 

「謙信様! お戻りになられましたか!」

 

「おや、景勝。景家も。どうしたの?」

 

「父上、与六との話は、終わったのですか……?」

 

「うん、しばらく後に戻ると思うよ」

 

「お? 与六が見えないと思ったら、謙信様の所にいたのですな! あいつと酒の飲み比べでもしようと思っていたのですがね!」

 

 頬の古傷を伸ばすように景家が豪快に笑う。

 

「飲み比べですか? 受けてたちますよ」

 

「わぁ! びっくりしたぁ……」

 

 景勝の顔の横から、与六が顔をだす。わぁって女みたいな悲鳴出すなよ、と与六が景勝を叱る。うんごめんね、気をつける、と景勝が与六に謝る。別に謝ることじゃ、と与六が狼狽える。いつもの光景。

 

「ふふっ」

 

 思わず、笑みが零れる。この子達がいれば。この子達とそれを支えられる家臣達がいれば。私がいなくても、やっていける。

 

「じゃあ私は厠に行ってくるね」

 

「ははっ、緊張でお腹でも壊しましたか?」

 

「まさか。作戦の確認だよ」

 

 今回の上洛の作戦は完璧にしておかなくてはならない。特別に作らせた厠の扉を開ける。二部屋程の広さがあり、中には文机や書もある。一人になりたい時はいつもここだ。

 

(信玄。私は君の出来なかったことをする)

 

 地図をひろげたとき、扉を控えめに叩く音がした。

 

(ここに人は来ないはずだけど……)

 

「誰?」

 

「清重にございます。謙信様にお酒を、と」

 

「? ありがとう。そこに置いておいて」

 

「お酌を……させて頂けませんか」

 

 本当は出陣の直前にしかお酒は飲まないことにしているのだけど。せっかく持ってきてくれたのだし、と考え直す。

 

「ありがとう。入っておいで」

 

「失礼します」

 

 静かに清重が入って来て隣に座り、白い陶器の徳利を持ち上げた。赤い漆塗りの杯を手に取る。その杯にゆっくり酒を満たしながら、清重が静かに口を開いた。

 

「謙信様は、初めてお会いした時の約束を覚えておいででしょうか」

 

「初めて会った時の約束? 確か……」

 

 あの時のことを思い出しながら杯に口を付け、一口、喉を湿らせるように流し込んだ。途端、その液体が流れたところが焼け付くように傷んだ。手から盃が落ちていく。

 

「ぐっ……っ!」

 

 喉が痛い、体の中を、火が流れている。視界が霞む。清重の苦しげな顔が白い靄の向こうに見える。ドサッと音がして視界が反転した。光がチカチカと瞬いている。手足が勝手に震えている。指が、動かない。

 

「謙信様にではなく義に忠誠を捧げること。謙信様が義を失った時、殺してでも止めること。それが、あなたが私に求めたものだ」

 

 遠のく意識の中、清重の頬に光るものが伝ったのが見えた。

 

 

 

「ここは……?」

 

 どこかで見たことのある景色が広がっている。懐かしさを感じる景色。

 

「八幡原だ」

 

 後ろから声がした。一度だけ聞いた、忘れられない声。

 

「信玄、君なの……?」

 

「ああ。久しぶりだな、謙信」

 

「どうしてここに……」

 

「ここが、俺達の大切な場所だからじゃねえか? おっと、振り向くなよ。お前なんで家臣に殺されてんだ?」

 

「……私が、義を失ったから。彼は私との約束を守ったんだよ」

 

「まーた義か。まだそんなつまんねえもの追いかけてたのか? 俺が死んでからのお前、自分のしたいことやって……そっちの生き方の方が俺、好きだぜ?」

 

「君は、好きなように生きたんだよね。私との約束も破って、勝手に死んで行ったけど」

 

「ははっ、悪かったって。そんな怒んな、きれーな顔が台無しだぞ?」

 

「私は男だ、そんな事言われても嬉しくないよ。誤魔化そうとしてもだめ」

 

 信玄はふと声を落とした。

 

「お前に……老いた俺を見られたくなかった。あの戦いの後、もう一度戦う機会があっただろ? あの時にもう一度、と思った。お前に会いたい、ってな。だけど……俺は老いた。約束を破ったと言われても、会いたくなかった」

 

「信玄……」

 

「って、何言ってんだろな俺は。恋する乙女みてーなこと言ってさ」

 

「確かにね。ま、私も似たようなものさ。君が死んでから、君のことばかり考えていた」

 

「ああ、知ってる。俺の死を聞いたあとのお前、部屋で大泣きしてたもんな」

 

「っ! あれも見てたの? 悪趣味だね。恥ずかしいから忘れて」

 

「ははっ、断る」

 

「全く……。ふふっ、変わらないね、君は」

 

「お前もな、謙信」

 

「私達、出会う世が違ったらきっといい友達になれたね」

 

「恋仲だったかもしれねーぜ?」

 

「それは私が受ける側なのかな? ごめん被るね」

 

「逃がさねーよ? なんてな。これは冗談にしても、今からでも遅くねぇんじゃねえか?」

 

「……君と、行ってもいいかい?」

 

「いいけどよ、このままだとお前、上杉家潰れるぞ?」

 

「そう、だね。信玄、少し待っていてくれる? 後継を選ばなきゃ」

 

「ああ、待つさ。いくらでも。だからほら、行け」

 

 トン、と背中を押される。思わず右足を前に踏み出して。ハッと目が覚めた。目の前に景勝と、私のもう一人の養子、景虎の心配そうな顔が見えた。

 

「あ……え……あ……う……」

 

 景勝、と呼ぼうとした声は言葉にならず、濁って消えた。

 

「謙信様、跡継ぎのご指名を下さいませ!」

 

 与六が泣きそうな目でそう求める。

 

「樋口! 縁起でもない、やめよ!」

 

 景虎が与六を止める。しかしその制止を振り切り、兼続がもう一度問うた。

 

「ご指名を、謙信様! 後の上杉のためにっ」

 

「か、たな……」

 

 聞き取ってくれただろうか。私の声は既に吐息にかき消されるほどの小ささだ。喉が毒によってただれてしまったのだろう。

 

「与六。父上の刀を」

 

 景勝が静かにそう言った。与六が私の刀を持ち、私を見た。震える左手を上げ、背筋をただし静かに涙を流す景勝を指さす。景勝は刀を受け取り、腰に差した。

 

「う……え、すぎを……たの、む」

 

 再び霞んでいく視界の中、景勝がしっかりと頷くのが見えた。

 

(信玄。今度こそ、君のところに)

 

 上杉謙信。享年四十九歳。

 

 四十九年一睡夢一期の栄華一杯の酒

 

 

 

「景勝様! 家康を追うべきです! 今こそ勝機!」

 

「だめだ。背後から襲うのは上杉の家訓に反する」

 

「しかし徳川の世こそ悪! それを潰すことこそ義でしょう!」

 

「ならぬ! 兼続、お前は義を見失っている」

 

「景勝様もでしょう!」

 

 会津のはるか西で、石田三成が挙兵した。上杉討伐に向かってきていた徳川家康は驚くべき速さで反転した。今背を突けば、勝てる。

 

「与六。義を争っていても、意味、無い」

 

「でもよ、景勝。謙信様以来の上杉家は、義を中心に動いてるだろ?」

 

「ううん、必ずしも、そうじゃなかった。上洛を決めた時、父上は信玄のために決めた」

 

「そうなのか? 義がなんなのか分からない、って言ってたのは聞いたことあったけどよ」

 

「最後、父上はやりたいようにやろうとしてた。だから僕も、そうする。背後は襲わない。……これは主君命令だ」

 

「……は。では敗軍の将として上杉が生き残る道を探します」

 

「頼りにしているぞ、兼続」

 

「まったく、都合いいですね」

 

「そういうな、幼い頃からの付き合いだろ?」

 

 そう言って静かに口角を上げる景勝の横顔を見て、兼続はふっと笑った。