余白の時間

布団

 

 なあ、明日って何だと思う?

 隣の君に聞かれた言葉がずっと頭をぐるぐるしてる。いつもそうやって不明瞭なことを聞いてくる。私をからかっているのだろうか。面倒だと思ってその場では「今日の次の日」と答えたが、それ以降、魚の小骨のように小さく私の心に引っかかっている。ぎーこぎーこと錆びたブランコを漕ぎながらぼんやりと考える。足が地面につきそうだ。昔はこんなに苦労して足を曲げなくてもブランコが漕げた。いつからだろうか、こんなに足を曲げないといけなくなったのは。こんなに窮屈になったのは。

 ネットで「明日」と検索してみると、一番上の記事に「明日とは、今日の次の日である。『明日』という語には、時間的経過のみならず、希望的観測を含むニュアンスがある」とあった。どうやら私が言ったことに間違いはないらしい。だが、それは前半だけ読んだときの話だ。後半の希望的観測という言葉だけが、太字で書いてあるかのようにやけに目立つ。希望。確かに明日という言葉には明るい未来のイメージが付きまとっている気がする。明日があるさ、明日がやってくる、なんて言葉たちは、どれも私には眩しすぎるくらいに輝いている。

 そんな字面だけ見れば希望に満ち溢れているが、しかし、私には明日を明るく見られる気がしなかった。明日、明後日、一週間後、一年後、十年後……。明日が積み重なればいつかは遠い未来になる。そのことを考えるだけで不安感と焦燥感が沸き上がって体中の穴から零れ出そうになる。始業式にあった校長先生の話の「あなたの将来の夢は何ですか」という質問に対して、不覚にも目から不安が溢れそうになった。自分でも情緒不安定なことくらいわかってる。

 やりたいことはあるし、楽しいことだってそれなりにある。けれど、それで稼いで生活をしなければいけないと考えると、途端に二十キログラムのリュックを背負わされて動けなくなる。今はまだ親という圧倒的信頼を寄せる人に守られて生活しているが、これからは一人でこの世界と渡り合わないといけない。そんな器量も体力も精神力も、自分が持ち合わせているなんて到底思えない。今から怖気づいてどうする、挑戦しろと父は言う。そんなに考えすぎないで気楽に生きたらいいのよと母は言う。けれどどうにもこうにも考えすぎるのは私の癖らしく、一向に治らない。それもそのはず。私は考えすぎる癖を自分の長所として捉えている節があるので、それが変わらない限り治るはずなどないのだ。

 

 風がひんやりとしてきた。気が付くと、ブランコに乗って規則正しく動く影が、さっきの二倍くらいに伸びていた。数羽のハトがふらふらと辺りを彷徨い歩く。夕日に照らされている錆びた遊具が纏う哀愁が、辺りに降り積もる。ハトにも降り積もる。何も考えずに感性だけで生きていた、神の子だった時代。懐かしさと同時になんだかぶっ壊したくなる。あれくらい何も考えずにどんどん前に進む人が、大物と呼ばれる人になるのだろうか。影は伸びて大きくなっているのに、本体の私はちっぽけだ。

 一羽のハトが私の近くにやってきた。私はブランコを止めてそのハトをぼうっと見つめた。ハトは私の周りをふらふらと彷徨った。一体何を求めているのか。いつも思うが、ハトは落ち着きがない。色んなところをぐるぐる歩き回ってはちょっと飛んでみたりして、それでまた戻ってきてはぐるぐると不規則に歩き回る。まるで私の思考のようだ。終着点が見えない。

やがて目の前に来たハトは、私にほんの一瞬だけちらっと目を向けると、すぐに興味を失ったようで、その場にしゃーっと小便をして颯爽と立ち去った。

……ハト料理にでもしてやろうか。ふつふつと怒りがこみ上げる。しかし立ち上がる気力まであのハトに持っていかれたらしく、動く元気など微塵もありやしない。焦点の合わない目で、ぼんやりと遊具の辺りを見つめた。

 

 もうすぐ影も消えそうだ。代わりに周りの街灯がててん、と軽い音を立てて目を覚ましている。楽器だと言われても違和感を覚えないような澄んだ虫の音が、草むらから響いてくる。夜が演奏を開始した。昼とは違う、静かでころころとした夜の音楽は私のお気に入りだ。ブランコを漕がずに、じっと耳を澄ませる。夜と私の境界が曖昧になって、私までこの穏やかな夜になれたのかと錯覚してしまいそう。

しかし、唐突に聞こえてきたさくさくとした足音が、夜と私を引き剥がした。音がする方向を向くと、黒い影が近づいてくる。こんな時間に来客なんて珍しい。私が言えたことじゃないけれど。影が街灯の下を通り過ぎた瞬間、私はええ……と眉をしかめかけた。一瞬オレンジの街灯に照らされた顔は、あの質問を投げかけた隣の君だった。面倒な人が来たものだ。君の質問のせいで滅入るようなことを考えてしまった上に、夜の安らぎを邪魔されて非常にイライラしている。しかし当の本人はそんなことも素知らぬようで、さくさくと小気味の良い音を立てながらこちらへ歩いてくる。君が軽く手を挙げたのが目視できたが、返してやる義理なんて何もない。即座に目を逸らした。これ以上見ていても良いことなんて何もない。大嫌いだ。

 やがて、さくさくとした足音は私の隣のブランコで止まった。ギシッとブランコの軋む音がする。いつからか、虫の音が聞えなくなっていた。目を固く閉じて、何も見ないようにする。早くここから立ち去ってほしかった。私に構わないでほしかった。

君が何かを言おうとする。聞きたくない。帰って。お願いだからさ――――。

 

「泣いてもいいんだよ」

 

 言われた瞬間、体中の力が融けて、水を入れすぎたスライムみたいに地面に落ちた。それと同時に、内側に飼っていた黒いもやもやしたわだかまりが目から零れる。これを見せたくなかったのに。だから来てほしくなかったのに。けれどもう、私にはどうしようもない。

 いつからかまた聞こえ始めていた虫の音が、穏やかにほろほろと降り積もる。ハトのまぬけな鳴き声が木枯らしに乗って、私たちの間を通り過ぎた。