絶対零度の雪景色

 

 麗らかな春。カメラを提げた少年が歩いている。俯きがちで、足元を見ながら歩いている。ふと、少年が顔を上げて立ち止まった。胸元に下げたカメラを手に取り、咲き誇る桜ではなく、建物の影に向ける。ほんの十数秒すると、再び少年は歩き出した。行く手にあるのは、寂れた住宅街。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ほいっ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 少年は放り投げられたレンズキャップを受け取り、レンズに付けた。バイトを三つ掛け持ちして、自販機のジュースから目を逸らし、半年かけて手に入れた愛用のカメラだ。出来る限り丁寧に、壊してしまわないように扱っている。

 

 ここは「アトリエ」。閑散とした住宅街の隅に鎮座している。赤、青、緑のでたらめな模様で埋め尽くされた壁と屋根。周囲には作者の意図が全く持って分からない彫刻が隙間なく散乱している。この建物だけ街から切り離されたような雰囲気を醸し出しているが、近くを通ると絵具の匂いが立ち込めていることに気づき納得する。そう、ここはアトリエなのだ。

 

 ここの住人は、絵具の匂いがする老人ただ一人。薄い茶色のシャツに、絵具だらけのつなぎ。寡黙な背中に白髪交じりの頭。体のいたるところに絵具が付着しているが、本人はまるで気にしていない。キャンバスから少しも目を逸らさずに筆を動かしている。いつもキャンバスに向かっており、少年と会話した記憶は片手で数えられるほどだ。アトリエの住人にもかかわらず、少年はこの老人のことをほとんど知らなかった。彼の絵の色遣いは気味が悪い。観ていると作者の絶叫が伝わってくる、そんな鬼気迫るような不快感がある絵。

 

 そして今は、住人以外にももう一人、長い黒髪の若い女性がいた。繊細なガラス細工のような指が、紅茶の入ったカップを傾けている。しかし、普段の彼女が持つものは万年筆だ。彼女が紡ぎ出す言葉は透き通っており、どこか壊れそうな危うさがある。

 

 一見して真逆の二人だが、共通していることがある。芸術に従事していることは言わずもがな、もう一つ、どこか浮世とは別世界に生きているようだということ。そんな浮世離れした二人にとって、アトリエは似つかわしい場所であった。

 

 戻ってきた少年が、今度はカメラをもって暗室へと向かう。女性は万年筆を持ち直し、瞳を閉じ、彼女にしか見えない世界へと旅立つ。こうして、一見穏やかな、だが本人たちにとっては苛烈な、アトリエの日常が始まる。

 

 

 

 しばらくして戻ってきた少年が、現像した写真を持ってきた。

 

「少年、見せてみな」

 

「ど、どうぞ」

 

 絵を描いていた老人も手を止め、少年の写真の周りに二人が集まる。誰かが作品を完成させたら、全員で鑑賞する。これもアトリエの日常だ。

 

「この一枚、いいな」

 

 少年は自らの目を疑った。老人が良いと言ったのは、帰り道で何となく心に留まった風景を撮った一枚だったからだ。構図も設定もさして考えずに撮った、何気ない一枚。それがなぜ良いと思うのだろうか。聞こうと思ったが、老人は既に自らのキャンバスに戻っていた。こうなっては容易にこちら側へは戻ってこない。諦めて少年は女性へと視線をやった。しかし彼女はガラスのような透き通った微笑をこちらへ向けるだけだった。

 

 少年には、彼らの感性は理解し難かった。完成された美しいものを好きとは言わず、不格好で歪なものを好きだと言う。芸術家はこういうものなのだろうか。

 

 

 

 ***

 

 

 

 その日少年は家に帰ると、買っておいた冊子を開いた。素早く目次からコンテスト入賞者一覧のページを探し出して開く。震えそうな手を抑えつつ、ページをめくっていく。だが次第に少年の目には陰りが見え始めた。やがて冊子から目を離し、そのまま部屋の隅へと放り投げた。鈍い音を立てて冊子が床に叩きつけられ、周囲の埃が舞い散った。光をわずかに反射して、瞬きながら床にゆるりと降り積もる。しかし、それには目もくれず、少年はベッドに倒れこんだ。ベッドが軋んだ音がした。体が沈み込むようだ。深く、深く。戻れないくらいに。瞳を閉じ、暗い世界に身を躍らせる。落ちていく――。

 

 と、そのとき、一階のリビングから母親の声がした。暗く甘美な闇が去っていき、代わりに侵入してきた目障りな現実が、目を痛いくらいに刺す。どうやら夕食ができたらしい。眉をしかめつつ、少年は鉛を引きずるように一階へと下りた。

 

 しかしそんな鉛は、柔らかなシチューの香りが鼻をくすぐった瞬間に消えた。少年の頬がわずかに上がる。

 

「いただきます」

 

 口の中でほろりとほどける鶏肉に、少し甘いクリームシチュー。停滞していた血の循環が、加速していく。ふと、涙腺までもが加速しそうになった。慌てて涙腺を止めようとすると、今度は言葉のほうが加速してしまった。

 

「母さん、進路、どうしよう」

 

 そう溢すと、母はほんの少しだけ目じりを下げて、柔らかに微笑んだ。

 

「好きにすればいいのよ」

 

「……ありがとう」

 

 好きにすればいい。母はいつもそう言う。けれど、好きだけして生きていけるような甘い世界ではないと思う。本音を言うと、ずっとカメラを構えていたい。けれど、今のご時世、写真家という職業は生き延びるのが厳しくなっている。人生をかけてカメラを構えられる一握りの者だけしか、写真家になることは出来ない。そう考えると、写真は趣味で、どこかの会社に就職したほうが良いと思えるのだ。そう、何も仕事にする必要はない。現にそうやって趣味で写真を続けている人たちのほうが圧倒的に多いのだ。

 

 しかしそんな堅実的な考えとは裏腹に、今にも風にあおられて吹き飛ばされそうな、か細い少年の姿がそこにはあった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 少年は今日もアトリエに来ていた。少年の見つめる先には一心不乱にキャンバスに向かう老人がいる。老人の絵筆でキャンバスに描く所作は、丁寧で繊細だ。だが少年の目には、強い衝動をそのままキャンバスに向かって、力いっぱい殴りつけているように見える。老人から揺らめく陽炎が立ち昇っている。老人の周りだけ空気が異質だ。そう、老人の周りだけ。

 

 すると、老人がこちらへ顔を向けた。絵を描いているときは滅多にこちら側へ戻ってこない人が。

 

「どうした、少年」

 

 何がどうしたのだろうか。さっぱり意味が分からずに、ただ老人を見つめる。老人も少年をまっすぐ見つめ返す。と、その時やっと、自分の頬が濡れていることに気がついた。何か強い衝動に心が揺さぶられた感覚はした。しかしそれが少年の体だけでは収まりきらずに、涙になって少年を破って世界に現れたことには気づいてはいなかった。

 

 少年は老人の問いに答えようとした。しかし、言葉に詰まった。自分の感情を表す言葉をいくら探しても、パズルのピースは填まらない。言葉を自在に操るあの彼女なら、この感情を形にできるのだろうか。そんな遠い思考をふらふらと歩きつつも、少年の瞳はただ茫然と老人の顔を見つめていた。

 

「俺は……」

 

 老人は言葉に詰まった。眉間にしわが寄る。何か渦巻くものを形にしようとしているようだった。言葉が出てこないのは、どうやら老人も同じらしい。沈黙が立ち込める。一寸先も見えない霧くらいにまで立ち込めたとき、ようやく老人が重い口を開いた。

 

「言葉に表せないものをどうにかして世界に落とし込もうと、絵を描いている」

 

 老人の言葉はあまり頭に入ってこなかった。ただ、乾いた土に水が注がれたときのように、心にはしみ込んだ。荒んでぼろぼろと崩れそうになっていた感性が、蘇る兆しが見えた。

 

 老人はすぐに踵を返し、キャンバスに向かおうとした。しかしそこで何かを思い出したように、少年の方を振り向いた。

 

「芸術家にとって最も大切なのは、自分を信じることだよ」

 

 

 

 ***

 

 

 

 それ以来、少年は無口になった。だが、口数が減るにつれて感情は細かく鮮やかになった。いや、細かい鮮やかさが感じられるようになったとでも言うべきか。今まで「綺麗だ」なんて言葉でまとめていたが、そんな単純な言葉でまとめられるほど人の感性は真っ直ぐではない。今までまとめていた「綺麗だ」に、一つも同じ綺麗なんてなかったことに気づいた。簡単に一言にまとめて、台無しにしてしまわないように。感情は心から蔦植物のように四方八方に伸びて、複雑に絡みついている。それは少年の体の中だけでなく、今にも少年を破って外へ飛び出そうとしている。抑えきれない衝動。老人の背中から感じたものだ。

 

 少年はこの衝動をファインダー越しの世界へと託した。大きすぎる感情が自分を壊してしまわないように。そうなる前に世界に紡ぎ出すために。今なら、老人がなぜ何気ない一枚を好きだと言ったのかが、わかる。

 

 

 

 ***

 

 

 

「最近、楽しそうだな」

 

 女性から声を掛けられた。

 

「はい、まあ」

 

 近頃の少年の写真は生き生きとして見えた。有名な写真家の構図を真似たようなガラクタは減り、代わりに少年の視点が、感動が真っ直ぐ伝わってくるような写真が増えた。少年の世界を少し覗き見しているような、面白さや真新しさが感じられる。自分の感性を繊細に感じ取っているからこそ撮れる写真。

 

「もしかして、進路が決まったのか?」

 

「…………」

 

 実はその問題は、まだ解決していない。写真が好きなことには変わりないが、やはり心は揺れている。黙ったまま俯く少年を見た女性は目を逸らし、透明な横顔で語りだした。

 

「君は物理学や化学を信じているかい? あれは決して世界の真理を解き明かした物なんかじゃない。人間が世界を観測して予測するのに使う、便利な道具でしかない」

 

「それは……まあそうですけど……」

 

 唐突に始まった突拍子もない話に、少年はぽかんと口を開けていた。なぜ急に学問の話になったのだろうか。

 

「我々が肉眼で見られないくらい小さな世界は、まだ謎に包まれている。君が習った電子だって、本当はあんな粒で存在せずに、雲のようにぼんやりと広がっているとされているんだ」

 

 あまりに唐突すぎて眉をひそめてしまった。そんな嘘のような話、学校では教わらなかった。電子は粒のようになっていて、原子核の周りを回転しているものだろうに。

 

 そんな少年の怪訝そうな顔をよそに、彼女は話を続ける。

 

「では逆に大きな世界はどうだろう。人間は宇宙の全容をまだ知らない。観測不能な謎に包まれた物質が宇宙の大半を占めている、ということが分かっているくらいで、つまりは何も分かっていないことと等しい。もしかしたら外の世界の生命体が、私たちのことを作って今も観測しているのかもしれない」

 

 そんな話ありえるわけないだろう……。

 

「ありえないって顔をしているが、もし本当にそうだとしても君はそれに気づく術を持たないだろう?」

 

 確かにそう、なのかもしれない。少し気分が悪いようだ。もう話はこれくらいに……。

 

「もしかしたら、君が見ている色は他の人には違う色に見えているかもしれない、と言ったら少しは身近に感じられるかい? 結局人間は、世界を理解することなんて出来ないんだよ」

 

 頭が追い付かなかった。けれど心が強く揺さぶられた。心で分かってしまった自分がいた。壊れそうだ。今まで自分が信じてきたものが、ほんの数秒で打ち砕かれた。視界が黒く塗りつぶされる。

 

「こんな世界で信じられるものは、自分の感性だけだ。自分にはどう見えたか、どう感じたか。それだけは疑いようがない。そんな風に考えると、この世界は自分の世界で、自分を中心に回っている。この世界の神様は自分。そんな風に感じないかい?」

 

 足元が大きく揺らいだ。今まで過ごしてきた世界を粉々に壊されて、再構築されていくような気がする。受け付けない。こんなものは受け付けない。だって今までは――――。

 

 最後に見たのは、濡れた黒曜石のように全てを反射する透明な瞳。

 

 

 

 ***

 

 

 

 大人げないことをしてしまった。自分の孤独を、目の前の無垢な少年にぶつけてしまった後悔が胸を締め付ける。いつからだろうか。気づいたときには、少年に話したように世界を捉えるようになっていた。

 

 若い記憶が甦る。書いた作文の最後の一文は確か「あなたが見ている世界は本当にありますか?」。若い真っ直ぐな感性で感じたことを、感じた世界の在り様を、拙い言葉で書き綴った。だが、共感はおろか、理解さえしてもらえなかった。周りのクラスメイトが異物を見るような目でこちらを見ている。担任の先生の鬼のような添削。母親が口にした「気味悪い」という言葉。

 

 この感覚を理解し共有してくれる人は誰もいない。それに、知ってしまったら元に戻れなくなる。この世界の神様は自分だ、なんて言ったが、そんなこと本当に思っているわけがない。本当にそう思えたらいいと、ずっと思っていた。だがどこかでこの世界の存在を信じている自分がいる。けれど頻繁に崩れそうになる。

 

 孤独だった。それを紛らわすために嘘をついた。「この世界の神様は自分」。いつ崩れるかわからない不安定な世界で、独りで生きていくために。そんな嘘から目を逸らし、今日も不安定な世界を歩んでいく。世界はまるで絶対零度の雪景色。

 

 

 

 ***

 

 

 

 次に起きたときに飛び込んできたのは、アトリエの天井だった。焦点が合っていくにつれ、昨日の記憶が蘇る。その瞬間、アトリエが歪曲してぐちゃぐちゃになっていった。少年の知っている世界はもう、どこにもなかった。信じられる世界も、どこにもなかった。それに気づいてしまったとき、少年は胃の中身を床にぶちまけた。異臭が辺りを覆う。だがこの異臭も、胃が掻きまわされているような気分の悪ささえも、本物なのかがわからない。

 

 いつもは物静かな文芸の彼女が「少年!」と大声で叫んだ。少年のほうへと駆け寄ろうとする。だがそれを、老人が制止した。何かを悟ったような老人は、静かな、だが触れれば火傷を負ってしまいそうなくらいの苛烈な視線を少年へと向ける。

 

 けれどそんな二人すらも偽物のようで、遠く、遠くに感じた。どうにかしないと、このままでは壊れる……。

 

 ――――そうだ、自分は知っている。抑えられない衝動を形にする方法を。

 

 それが脳裏を掠めた瞬間、視界の端に写るカメラを掴むな否や外へ駆け出した。

 

 外は豪雨だった。風が僕を世界から引き剥がそうとする。雨が僕を貫こうとしている。それでも僕は、カメラを構える手を下ろさない。下ろすものか。

 

 僕は生きている。僕はこの世界にいる。僕は今、この世界を見ている。そうだろう。なあ。

 

 無我夢中でシャッターを切った。世界を体に焼き付けるくらいに。僕の心の嵐を、世界に映し出す。世界と僕とがごっちゃになって、一緒になって、でもその世界は信じられなくて。けれど僕は世界を感じている。だからこれは、僕の世界だ。そうだ、存在証明なんかなくてもいい。僕が神だ。僕が存在していると思えば、僕は存在しているのだ。僕が雷が鳴っていると思うから、雷はなっているのだ。僕がいると思えば、お姉さんやおじいさんは存在しているのだ。世界の因果を――――逆転させる。

 

 

 

 ***

 

 

 

 温かい紅茶の香りが鼻をくすぐる。

 

「……もう、大丈夫?」

 

 お姉さんが震える声で聞いてきた。

 

「平気です」

 

 僕が存外平気そうな声だったのだろうか、お姉さんは握りしめていた手を緩め、涙をにじませた。

 

「ごめんなさい。私のせい……」

 

「いえ、いいんです。僕が神様の世界も、悪くありませんよ」

 

 そう言うと、お姉さんは目を見張った。

 

「君、それ本気で……」

 

「何言ってるんですか。お姉さんが言っていたことですよ」

 

 お姉さんは目を見開いたまま動かなくなった。もしかしたらお姉さんは、絶対零度の雪景色の住人だったのかもしれない。

 

 しかしそんなお姉さんとは違い、おじいさんは穏やかな瞳をこちらへ寄越していた。心なしか微笑んですらいるようだ。あのおじいさんが。

 

「ようこそ、アトリエへ」

 

 緩やかな夏風が、雨上がりの匂いを運んできた。