黒い点

 月兎

 

 みんなは、悲しいことがあったときどうするだろうか? 友達に慰めてもらう、好きなものをひたすら食べる、寝て忘れる、思いっきり泣く……。

 

 僕はそんなとき、ある場所に行くことにしている。その場所とは、飲み物も食べ物もあって、寝ることもできて、雨風もしのげて、冷暖房も完備されている……。そう、映画館だ(お金がかかるのは考えないようにしている)。

 

 僕が今から行こうとしている映画館はデジタルではなく、フィルムを使っているタイプのものだ。画像はキレイとは言いがたいが、なんとなく感じる懐かしさが好きで、こうやって時々映画を見に来る。

 

 今日も悲しいことがあって来たのだが、どうやら神様は僕に休息を与えてくれる気は無いようだ。映画館の入り口には本日休業の札が……。なんと手厳しい神様なのだろう。

 

 諦めて家に帰ろうとしたその時、映画館の中から――ガッシャーン! ――金属の棚を倒したような不快な音。緊急事態! そう考えた僕は休業の文字を無視してドアを押し開けた。あれ? なんで休みなのに鍵が閉まってないんだ?

 

 中に入った僕を迎えたのは、ひっくり返った大きな棚と、それを必死に起こそうとしているおじいさんだった。僕は無断で侵入したことを謝ることもせず、棚を起こしにかかった。前に引っ越しのアルバイトをしていたので力仕事には自信がある。といいつつ、さすがに金属製の大きな棚を一人で起こすのは無理があった。少し持ち上げたところで固まっている僕に対しておじいさんが一言。

 

「あとで業者が来るからそのままでいいよ。もともと別件で呼んでいたし」

 

 とは言っても、なにも力になれなかった僕はそのまま引き下がるのも気が進まず――

 

「あの、ほかに何か手伝えることはありませんか?」

 

「いや、それよりもなんでここに入ってきているんだい?」

 

 自分の不法侵入を忘れていたのでした……。

 

 侵入した事情を説明するとおじいさんは納得してくださり、警察が呼ばれるようなことにはならなかった。

 

「時々来てくれているお兄さんだよね? 今日はどうしたんだい?」

 

 まさか僕のことを覚えていたとは思わなかった。こちらからすれば一人しかいない館長さんでも、向こうからすればたくさんいるお客さんの中の一人だ。覚えていないのが普通なのに。僕はなにか変なことをしていたのだろうか。

 

「いえ、実は――」

 

 僕はここに来た経緯を洗いざらいおじいさんに話した。

 

「ほう、また仕事をクビになったと」

 

 そう、僕は今日仕事をクビになったのだ。理由は人間関係の悪化。もともと人と接するのは得意ではないのだが、仕事となるとさらに話せなくなる。他人との意思疎通ができず、仕事が進まない。そんな感じでもう何回クビになったかわからない。

 

「すいません、閉まっているのに入ってきてしまって。すぐに帰ります」

 

 きびすを返して帰ろうとする僕におじいさんは、

 

「まあまあ、せっかく来たんだし、ちょっと映画館の裏を見ていかんかね?」

 

 思いもよらないお誘いに、僕は間髪入れずに返事をしていた。

 

 

 

「裏といっても、見て楽しいのは映写室くらいじゃがのう」

 

 おじいさんは僕を映写室に案内してくれた。

 

「たまにはここから映画を見てみんか?」

 

 部屋の案内だけでなく、映画まで見させてくれるとは。あとで多額の請求書が渡されるんじゃないだろうか。

 

 そうやって映画を見始めて少し経ったころ、僕と同じように座って映画を見ていたおじいさんが腰を上げた。

 

「さて、動くかのう」

 

 そう言うとフィルムの交換をし始めた。

 

「交換のタイミングって覚えてるんですか?」

 

「わしほどの齢になって覚えていられるはずもないじゃろう?」

 

 いや、僕のことを覚えていただけでもかなり記憶力はいいと思うんですが。

 

「もう少しすれば教えてあげるよ」

 

 おじいさんの言う通り少し待っていると

 

「ほれ、スクリーンの右上に黒い点が見えるじゃろ?」

 

 僕が反応するころには、もうおじいさんの言う黒い点は見えなかった。

 

「あの点が見えたらフィルムを交換するんじゃよ」

 

 その点が無いと映画は成り立たないと教えてくれた。

 

「わしはな、人生もそうだと思うんじゃ。わしは若いころに両親を事故で亡くした。しかし、同時にあるものを得たんじゃ」

 

 それが映画だったと、映画を見ることで悲しいことも少しの間だけは忘れられたとおじいさんは僕に語った。 

 

「失ったものと得たものが釣り合っていないとは自分でも思っとる。映画で悲しみを忘れるような、薄情な者だともな。でも、でもな、それでも両親の死がわしを映画に会わせてくれたのは事実じゃ。今の仕事に導いてくれたのは事実なんじゃ」

 

 おじいさんはそう言うと、ゆっくりと深呼吸して僕にこう言った。

 

「なあ、ここで働かないか? ちょうど人手が足りんくて困っとったんじゃ」

 

 

 

 僕はおじいさんの厚意に感謝して、そのうえで丁重にお断りした。

 

「僕はまだ自分のやれることをやりきっていません。やりきって、それでもだめならまたここに来ます」

 

 そういうと、納得してくれたようで、やさしい笑顔を向けてくれた。

 

 僕は映画を見せてくれたことと、貴重な体験をさせてくれたことにお礼を言い、映画館を出た。僕にとっての黒い点はこの映画館だったようだ。心なしか、空が今までより明るく見えた。