トリトン
ある暑い夏の日のことだった。
私は自宅の押し入れを漁っていた。蝉の声が普段以上にうるさいのは、一匹が家の外壁にしがみついているからだろう。
それにしても暑い。日当たりの悪い部屋にいるにも関わらず、汗は止めどなく流れてくる。私は額の汗を手首で拭って、黒色の箱に手を伸ばした。
私がこんなことをしているのは、高校二年の夏休みという、いかにもモラトリアム的で有り余る時間と、この暑さとで、宿題に対するモチベーションを完全に失ったからだ。そうでなければ、この部屋でわざわざブラウン管テレビ(いまだに置いてあった)その他もろもろを押し入れから出して陳列しているはずもない。
私の所属するバレー部は弱小で、キャプテンのやる気もなく、夏休みの間は練習なしという凄まじい部活なので、いよいよ暇つぶしに事欠く状態だった。
とにもかくにも、ブラウン管テレビやいくつかの段ボール(中には着る人のいなくなった服が入っているようだ)を並べた末、私はついにお宝らしきものを発見した。期待していなかった分、喜びも大きい。そのお宝こそ、先述の黒色の箱である。中を覗くと、これまた黒い外装が落ち着いた輝きを放っていて、不思議と存在感がある。カメラだ。詳しくない私には一眼レフだかなんだかよくわからないが、傷だらけながらも上等なものであるように見えた。手にとってみると、傷がチクチクと手のひらを刺してくるが、まだ使えそうだ。後ろに液晶画面がないので、フィルムカメラだろう。
物心つく頃にはデジタルカメラだった世代の私が、フィルムカメラの使い方を知っているはずもないので、自室に置きっぱなしだったスマートフォンを取りに行って使い方を検索する。私の面倒を見てくれている祖父母に訊いても良かったのだが、祖父母はカメラが嫌いらしいのでやめておいた。「お前の父さんはな、カメラに殺されたんだ」。祖父が以前そんなことを言っていた。
スマホにだってカメラは付いているが、あまり使ってこなかった。フィルムは入っていて、カウンターは24だった。
カメラを、箱と一緒に見つけたケースに入れて自転車の前籠に入れ、私は家を飛び出した。駅から離れた父方の祖父母の家に住んでいる私が、毎日の通学に使っている自転車だ。どこに行こうという訳じゃなかった。この世界には私の撮りたいものが溢れているような気がして、飛び出さずにはいられなかった。
自転車で坂を下りれば、吹き付ける風が汗を乾かして、うんざりするような夏の暑さを和らげてくれる。
彼方に浮かぶ入道雲。私に気づかず日陰で涼んでいる猫。青々と広がる田んぼに、電柱に区切られた青空。案の定、私が撮りたいものはこの町にたくさんあった。気づかなかった。私の住んでいる町が、こんなにも私の撮りたくなるもので溢れていたなんて。
汗で張り付いた前髪が鬱陶しくて、右手の甲で額を擦る。最初は恐る恐るだった動作は、少しずつ慣れてきてスムーズになった。フィルムを巻き、ファインダーを覗き込んでピントを合わせ、シャッターを押す。露出とやらは適当なので、まともな写真が撮れている自信はないが、楽しくなった私は一連の動作を繰り返した。撮りたいものが見つかる度に自転車を降り、しまいには自転車を押しながら撮りたいものを探すようになった。
昼には一度家に戻った。おばあちゃんが昼食にそうめんをゆでてくれた。
「宿題は進んどるんか?」
そうめんを食べる私を見ながら、おばあちゃんは訊いてきた。昼食は済ませたらしい。
「う、うん。順調だよ」
嘘だ。実は全然進んでいない。高校生にもなって過保護な心配をされている気はするが、毎年八月末に慌てる姿を見られているので、仕方ないと思う。
「それならいいんだけどね。遊びに行ってばっかりじゃいかんで」
はーい、と適当に返事をしておく。こんなに暑いのにエアコンをつけようとしない老人の温度感覚に不満を覚えながら。
昼からも写真撮影を続けていたのだが、フィルムが切れてしまった。夏に少しばかりの涼しさを与えてくれる用水路の流れを撮ろうとしたとき、フィルムが巻けなくなったのだ。カウンターは36を示している。仕方なく駅前まで足を延ばして、今日のうちに現像してもらうことにした。今どき儲かるのか分からない、個人の写真屋さん。存在は知っていたが入ったのは初めてだ。現像に一時間弱はかかると言われたので、駅前の本屋でカメラに関する雑誌を立ち読みして時間をつぶし、写真屋に戻った。
「あなた、このフィルムどこで手に入れたの?」
写真屋のおじさんは私に金額を告げたあと、不審そうに尋ねながら、写真の入った封筒を渡してくれた。
「どこでって……何がですか」
訳が分からない。戸惑う私に、おじさんは中を見るよう促す。
写真に写っていたのは、戦場だった。
銃を構える人々だった。
廃墟になった街だった。
逃げ惑う市民だった。
やせ細った子供だった。
二十四枚の写真は、どれも戦場を写したものだった。お父さんがカメラマンだったことは聞いていたけれど、戦場カメラマンだったことは、この日、初めて知った。
それからの二週間はカメラに触ることもなく、家で宿題をして過ごした。全然進んでいなかったことが祖母にばれたのだ。
「本当に、毎年のことなんだから、学習しなさい」
長い説教をぐうの音も出ない正論で締めくくった祖母は、「明日から遊びに行ったらあかんよ」と付け加えた。私は俯いて「はい」と言うしかなかった。
ワーク類は一通りやり終え、それを祖母に見せて初めて外出の許可をもらった。部活を口実に外出することもできなかったので、本当に家から出られない、息の詰まるような日が続いたのだった。
だが、そんな日々も昨日までの話だ。私は例の写真屋でひっそりと売られていたフィルムを買い、その足で電車に乗った。車内は冷房が少し効き過ぎて、肌寒いくらいだ。車窓に流れる、少しずつ田舎から都市に近づく景色も、私が撮りたい風景だった。今日は、入院しているお母さんに会いに行く。
病棟の廊下を、(小説によくあるリノリウムって、こんなのを言うのだろうか)なんて考えながらペタペタ歩くと、母の病室の前に着いた。ドアの取っ手に手をかけ、ゆっくりと横に引く。ドアは、母が閉ざしてきた口のように重たかった。
「調子はどう?」「今日は少しいいわ。夏休みはどんな感じ?」「昨日まで外に出られなくってね……」
普段は近況報告が終わればそれで帰っていたが、今日は母に訊きたいことがあった。
「ねえ、お母さん。一つ、訊いてもいい?」
「なあに?」
お母さんは不意に真剣になった私の表情に合わせてか、顔をこわばらせた。
「お父さんって、どんな人だったの?」
お母さんが、ふっと眉の力を抜く。そういえば、あなたには話したことがなかったわね、と言って、二人の馴れ初めから聞かせてくれた。
二人は高校の同級生だったこと。お父さんはその頃から写真部に入ってカメラを構えていたこと。そのまま夢を叶えてプロのカメラマンになったこと。海外に写真を取りに行ったとき、戦争を目の当たりにして、戦場カメラマンになることを決意したこと。そして、私が一歳のときに戦地で死んだこと。
一通り語り終えてから、お母さんは私に引き出しからスクラップ帳を出すように言った。お母さんは、ある記事まで来るとページをめくる手を止め、私に見せた。
「ピューリッツァー賞『戦争を撮る男』」
黄土色の世界で、銃を構える兵士をカメラに収めようとする一人のカメラマンが写っていた。
「これが、あなたのお父さんの最後の写真よ」
行きとは反対に、少しずつ田舎になっていく車窓の風景を眺めながら、こんな美しい世界の写真を撮って、皆に知らせたいと思った。私のお父さんが、世界の醜い部分を写真にして皆に知らせたように。
私の将来の夢はカメラマンになることだ。