トリトン
私が彼に告白されたのは、一学期の授業も終わり、球技大会やら芸術鑑賞やらで午前だけ学校に集められる一週間のことだった。
『今日の放課後、体育館の裏に来てください』
既に半分以上は告白しているその紙を見つけた私は、言われたとおり体育館の裏に行った。差出人の名前も、送り先の名前も日付も入っていないシンプルなメモ。もし私以外の人が見つけたら、もし私が気付くのが明日になっていたら――彼はどうしただろう。いや、差出人が彼女の可能性も否定はできない。幸い体育館の裏は周囲からも見えず、告白するには打って付けだ。余りにも古典的すぎて、ここで告白があるとは却って誰も思わないだろう。慎重な場所選びと軽率なメモは、差出人についてちぐはぐな印象を与えた。
差出人のことを想像していると、誰かの――恐らく差出人の――足音が聞こえた。
「あ、ごめん、待たせ、た?」
角から現れた彼を見てピンときた。眼鏡をかけた小柄な学ラン姿。四月の席で隣だったはずだ。名前は憶えていない。
「いえ、大して待ってないわ。で、差出人はあなたで、宛先は私ってことでいいのね?」
「はい……日高から、天ヶ瀬さん宛てです」
私のクラス名簿の六人目に日高君は追加された。ちなみに一人目と二人目は男女の学級委員長、三人目と四人目はクラスの人気者二人。それ以外はいちいち憶えていない。
「そう。用件は?」
日高君はガチガチに緊張して話し出せそうにないので、分かり切った用件を私から訊いてあげることにした。なんだかあべこべだ。
「ぼ、僕は」
彼は一度言葉を切って、もう一度大きく息を吸う。
「天ヶ瀬さんに、恋をしています!」
ようやく言えた解放感。言い終わったことによる虚脱感。返事を待つ緊張感。そんな諸々の感情がない交ぜになった表情で私を見つめる日高君。先ほどのおどおどした態度からすれば、私の顔を見たまま言い切ったことを褒めてあげたいくらいだ。
「ごめんなさいね、私――」
予定通り断ろうとした私に、日高君は冷や水を浴びせる。
「瀧野君、ですよね」
その名前を出されて、私は狼狽えた。
瀧野秀治。私のクラス名簿の五人目。私が密かに想いを寄せる人物。誰にもそのことを明かしたことはないのに、
「どうしてそれを」
日高君は俯き、私の問いを無視して続ける。
「分かってたんです。きっと瀧野君だろうなって」
「知ってて、私に」
「はい」
諦観のこもった笑みを向けられて動転した私は、次の瞬間、自分でも思いもしなかった言葉を口にしていた。
「それでも良ければ」
「それでも良ければ?」
「それでも良ければ、いいですよ」
気まずい、非常に気まずい沈黙。日高君は何を言われたか分からず呆然としていたが、呆然としていたのは私も同じだ。そして、思考が戻ったのは日高君の方が早かった。
「ぜひ!」
今さら前言撤回するわけにも行かなかった。こういうわけで、日高君と私の不思議な関係が始まった。
ひとまずLINEを交換し、その日の晩には『こんばんは、これから宜しくお願いします』というメッセージが送られてきた。私の返信は『こちらこそ宜しくお願いします』だった。
まあ、最初はこんなものだろう、と交際経験のない私は自分を納得させる。ちょっと堅苦しすぎる気はしているが、仕方がない。
問題はそれからだった。これ以降の一週間、LINEのやりとりが全くなかったのだ。二人の性格からして無理からぬことではあったが、OKを出した身として、この状況はいささか心苦しいものがあった。
コミュニケーションの基本は挨拶から。というわけで、終業式の朝、教室に入ったときに挨拶をすることにした。
「おはよう、日高君」
教室がざわつく。そういえば私から誰かに挨拶したことはなかった。不自然すぎたか。
「……おはよう、天ヶ瀬さん」
日高君は小さな声で応えてくれた。幸い教室に瀧野君はいなかったが、人づてに聞かれてしまうだろう。あらぬ噂を、否、あらむ噂を立てられてしまうと、私の本命との進展が望めなくなるのでまずい。教室で挨拶をするのは得策ではなさそうだ。とはいえ、幸いにして翌日から夏休みに入り、七十五日も経たないうちに噂は立ち消えになった。
夏休みには、彼が行きつけの喫茶店を紹介してくれた。そこで何度も日高君に会い、私はコーヒーを、彼は紅茶を飲むというのがお決まりのパターンになった。最初は緊張していた彼も、段々リラックスして私に会うようになり、四方山話をしたものだった。恋と愛を区別しない言語を学ぶ意義について。新しい国際単位系の定義について。近年の政治と国際情勢について。読書家の日高君がこれまでに読んできた本について。恋の話もした。私たちの関係性は、片思いの辛い愉しみを知っているもの同士の、緩やかな同盟とでも言うべきものだった。
マスターのご厚意で、喫茶店で宿題を広げて何時間も過ごしたことも何度かあった。日高君の得意科目が文系で、私が理系だったから、お互いに分からないところを訊きあって、一人でするより捗った。
その日の分の宿題が一段落して、私がアイスコーヒーを、日高君がアイスティーを飲んでいるときに、訊いたことがあった。
「そういえばさ、日高君は私のどこを好きになったの?」
日高君はグラスの中でカラカラと氷を回し、それを見つめながら答えた。
「どこがって……それは全部好きだけど…………一途なところ、かな」
本人を前にして言うのは流石に恥ずかしいのか、日高君は俯いたまま続ける。
「僕が気付いたのは去年の夏休み明けぐらいだったかな、授業中に何となく教室を見渡したら天ヶ瀬さんのことが目に入って、それで、ずっと瀧野君を見てるから、好きなんだろうなって。中学の頃からクラスメイトが付き合ったりすぐ別れたりするのを見てきたから、天ヶ瀬さんみたいに真っ直ぐ恋をできるのって素敵だと思って。それが、きっかけ」
夏休みは明け、また学校に通う日々が戻ってくる。私は得意科目である数学の授業を半分聞き流しながら、習慣のように瀧野君の横顔を見ていた。白い半袖の開襟シャツに、日に焼けた黒い顔が載っている。久し振りに顔を見たなとか、去年の夏休みは瀧野君に会いたくて早く二学期になってほしかったなとか、取り留めのないことを考えた。教室の外では、目を凝らせば見える程度の細線を雨が描いていた。
授業が終わって昼休み、私が自分の席で弁当を食べていると、隣の席で名前も知らないクラスメイトたちが話しているのが耳に入ってきた。
「えー、あんたまだ瀧野のこと好きだったの? 彼女いるの知ってるでしょ」
「分かってるけどさぁ、好きなものはしょうがないじゃん。私もサッカー部のマネージャーになっときゃよかったのに~」
「はいはい、チョー今更だよ。早く諦めな」
昼休みが終わってからも、私はいつもと同じように授業を受けた。学校が終わる頃には雨は酷くなっていて、私は傘を差して帰り道を走った。少し走っただけで、つま先は冷たくなっていった。
あの時、自分でもびっくりするくらい、何も感じなかった。もし好意というものが、その人と作った心地よい思い出の量で決まるのだとすれば、私はとっくに彼を好きになっていたのかもしれない。
私たちの高校の学園祭・星辰祭は十二月二十五日に行われる。終業式も済んで冬休みに入っているというのに、なぜかクリスマス当日に夜遅くまで開催するのが伝統になっていた。当然カップルは盛り上がること請け合いで、中庭にできたツリーの周りで愛の言葉が囁かれるのが恒例だった。
翻って私たちは、電気を消した四階の教室で並んで座っていた。窓から下を覗くと、先述のカップルたちが見える。その中には瀧野君とその彼女であるサッカー部のマネージャーもいた。遠くからでもすぐ見つけられたのは、かつての好きな人だからだろう。
結局二学期に入ってからも、私は不安を抱えたままこの関係を続けていて、今日の星辰祭も一緒に回る約束をしたのだった。
空を見上げれば空は澄み渡っていて、半月が見えた。私はそれを見て、そっと口を動かした。
「月が、綺麗だね」
日高君は、はにかみながら訊き返す。
「夏目漱石?」
私は少し顎を引いて肯定した。
かつての私は欲しいものが手に入らないことを恐れ、今の私は手の中のものが無くなってしまうことに不安を覚えた。そして、なにもしてこなかった。でも日高君は違った。振られると分かっていても告白した。私はその勇気を見習わなきゃいけない。勇気を出すとすれば、今日だ。
私は日高君に向き直り、姿勢を正す。
「もし私が日高君のことを好きだって言っても、変わらず私を好きでいてくれますか?」
私たちは暫く見つめ合った。中庭の喧噪は嘘みたいに静かに聞こえた。とても長いようで、その実一瞬でしかない静寂の後に、日高君はこう言った。
「もしそうだったとすれば、すごく嬉しいです」
その後は、あんまり嬉しくて学校に長居したものだから、夜遅くに家に帰って、母にこっぴどく叱られたのだった。