区長

 

小麦粉

 

 

 

「区長、二〇六〇年度の予算書に承認印をお願いします」

 

「そろそろ5時じゃないか。……分かったよ」

 

 私は液晶をタップして、われらが上司、垂水区長にできたてほやほやの予算書ファイルを送る。

 

「はぁ、最近ますます神戸市から降りてくる税金が減ってきているね」

 

「そうですね。なんせ人口が激減していますからね」

 

 御年六十歳の区長は感慨深いため息をつく。追い打ちをかけるように、私も出て行きたいんですけどね、とは言えなかった。

 

「私が若い頃から、人口が徐々に明石市に流出し始めていたのだけど。ここ最近はね……、明石市があれを開発してから特にひどい」

 

 

 

 明石市が開発した最新技術、それはデータ上で日本標準時子午線を取り出し、移動させる技術だった。初めは誰もが何の役に立つのだと、嘲った。しかし、その日の夜までに巨万の富を築き上げた明石市を目の当たりにして、事の重大さを思い知ったのだ。子午線を動かせること、それすなわち時間を動かせることだと。

 

 子午線の位置が動かされる度に、インターネットに繋がった機器たちの日本の時間は進んだり戻ったりした。明石市の西端と東端の経度の差は0度1051秒。時間差にしてわずか40秒強。しかし、リアルタイムでやり取りされるこの情報社会では、十二分に威力を発揮した。ある時は株式、ある時は為替。自分たちに都合の良いように、巻き戻し、進め利益を得た。今のところ、正確な被害範囲は分かっていない。政府は多くの被害データを検証して唯一の対抗法を見つけた。それは、明石市が市外に子午線の基準点を動かした時に、日本標準時のコントロールを奪取するというものだ。しかし、明石市が子午線を手放すはずもなく、政府は指をくわえて見ているしかなかった。被害を受けて憤りを覚える者が数多くいる一方、その恩恵を受けようと移住する者は後を絶たない。新たな技術で得た富と、増えた市民からの税収で、今や明石市は日本一、いや世界一の福祉都市にまで成長した。

 

 

 

「羨ましい限りだ。私なんて七十まで働き詰めだよ。いつになったら隠居生活を送れるのやら。ここは最前線なのだから、補助金くらい出てくれても良いのになぁ」

 

「最前線って……、まるで戦争みたいじゃないですか」

 

「そうだよ。あれから三ヶ月、遂に政府は自衛隊を動かすことにしたらしい。ネット上での解決はほぼ絶望的、政府と明石市の話し合いは決裂。挙句、外資系企業が軒並み日本から撤退しようとしている。いろいろもう限界さ。来週からこの区にも自衛隊が駐屯する」

 

 私は驚きのあまり、口がきけなかった。これはいよいよ生まれ育った垂水区を後にしなくてはならないかもしれない。私は机の上を片付け始める。暗い顔の私を見て、区長が軽い口調で続ける。

 

「ところで君、どうやって子午線って取り出すんだろうか」

 

 私は帰り支度をする手を止めずに答える。

 

「さぁ、分かりかねます」

 

「定時を超えた途端、君は愛想がなくなるね」

 

 先輩方は既にさっさと部屋を出ていってしまった。私はちらっと時計に視線をやる。さっさと家に帰って、荷物をまとめたかった。

 

「まぁ、どうだっていいじゃないですか。仕組みなんか分からなくても、便利だったら使うんですから」

 

 そういって、帰ろうとする。無責任だが、もうここに出勤することはないかもしれない。私は、この区役所にずっと勤め、その一部となった区長を最後に一瞥する。そして、扉へ向かう。

 

 区長の端末が鳴る。聞こえない、聞こえない。

 

「……明石市長からだ」

 

 私は耳を疑った。驚きのあまり一周回って平坦な声で区長は続ける。

 

「『垂水区の明石市への合併を提案する』」

 

 私は、ドアノブにかけていた右手を引き剥がした。

 

 

 

 併合か……。私はやや興奮した頭で、垂水区を思い浮かべる。須磨区、西区、明石市と隣接する垂水区。明石市が子午線を掌握する前も、住民がそこそこいたものの、神戸市? いやいや、おこがましい、と鼻で笑われる庶民的住宅地であった。駅に行けば、新快速が見向きもせずに通り過ぎていく。全く感じ悪いことこの上ない。そして今や明石市と接する地区ということで、人口すらも右肩下がりである。垂水区民はいつもどこかに「田舎者」という燻りを抱えつつ、しかしながら神戸市民という自尊心を持っていた。けれども、その誇りも薄れ、残ったのはただただ退屈な街並みだけである。

 

 

 

 すぐに明石市長からビデオ通話がかかってきた。区長は緊張した面持ちでつなぐ。市長は明石市の豊かな財政、素晴らしい福利厚生、きらびやかな官民連携事業などについて語った。

 

「――悪い話ではないでしょう?」

 

 私は思わずクラッとくる。老後が保証された暮らし、安い医療費。それはまさにユートピアだった。もうこの萎びた区に未練はなかった。私は期待をこめて区長を見る。区長はしばらく逡巡する様子を見せたのち、顔を上げて市長に向き直る。

 

「分かりました、ただし――」

 

 どんな要求をされるのかと、市長にやや緊張が走る。下手な要求をして、この好機を逃してしまうのではと私は不安になった。

 

「明石市にした瞬間、子午線を垂水区の東の端に置いてほしいのです。そして、ほんの一、二秒で構いません。我が区の上を通過させてから、市の方に戻してほしいのです。今まで馬鹿にしてきた他の区に、繁栄の象徴を見せつけてやりたい!」

 

「なんだ、そんなことですか。お安い御用です。そうですね、折角ですから二十秒弱くらいかけて通過させますよ」

 

 市長はあからさまな安堵の様子を見せて、満面の笑顔で答える。区長は少し不安げな顔をした。

 

「それではいきましょうか、明石市の繁栄を願って」

 

「明石市の繁栄を願って」区長が復唱する。

 

 

 

 173543秒。それは垂水区が明石市の一部になった時刻だ。子午線が西に動き始める。子午線が東経135度から垂水区の東端に移ったことを端末が示す。子午線を表す青いラインが見知った形の地図の上を西へ西へと進んでいく。

 

 子午線の移動によって巻き戻る時間と、進んでいく時間が釣り合っているのだろう、時計は43秒を表示したまま動かない。固唾を飲んで、心の中でカウントする。5秒、6、7、8、9。

 

 突如、時計が173542秒になる。

 

 止まる子午線、神戸市に戻る垂水区。青い線は、ちょうど垂水区役所の上で止まっている。

 

 そして時計だけが動き、再び43秒になり、4445と進んでいく。

 

 私は息をのむ。何が起こったのだろうか? 驚きで微動だにしない私と明石市長を叩き起こしたのは、垂水区長の高笑いだった。

 

 そうか、42秒の時、ここは神戸市だったのだ。だが子午線はここにあった。だから――、だから子午線は神戸市のものになったのだ。

 

 区長がぼんやりと立っている。私は彼の瞳をのぞき込む。

 

「桃源郷がそこにあったんですよ? どうして……」

 

「私は……、私は、それでも言いたかったんだ。兵庫出身ではなく、神戸出身だと」

 

 ばかみたい。けれど、私はどこか安堵を覚えていた。

 

 

 

 子午線は早急に垂水区から政府の直轄となった。そして明石市長以下、多くの職員が逮捕された。また、市役所に加担して職務を放棄したとして、一部の警察官も処罰されるらしい。

 

 今日もやっぱり垂水区はいまいちな扱いだ。住民が戻ってきたものの、普通の住宅地であるし、なんにもない。それに将来年金がでるかの保証なんてまるでないし、不安なことばかりだ。ユートピアなんぞとは程遠い。垂水区は今日もなんでもない街と、都会との狭間を揺蕩っている。