春の話

 

 ヒース

 

 

 

 ヒース。意味は荒野、荒野に咲く花。一般にエリカ。花言葉は「孤独」、そして……。

 

 

 

 

 

「合格してる……」

 

 私は長い受験を耐え抜き、見事志望校に合格した。暖かな春の太陽が私を静かに讃えているようだ。

 

「やったわね、エリカ!」

 

 隣で母親が私以上に喜んでいる。「最難関の学校に合格した子供の母親」になれてそんなに嬉しいのか、などと考えてしまう。今まで、運動会も音楽会も、来てくれた事なんてなかった。それなのに今日は、仕事を休んでまで、こうして合格発表について来ている。母親は勉強ができる私が好きだから。そんな私の母親である自分が好きだから。半年前の鬼のような母親は、今はすっかり消え去っていた。私はこっそり母親の下を離れた。辺りを見回すと、ハーフらしき人を二人ほど見つけた。これから同級生になる人だろう。私は少し安心して、金色の髪を指先でくるくるといじる。でも、英語が苦手だからすぐにバレるか。余計なことを考えてしまった。やがて人混みを抜けた私は、携帯電話を取り出す。かける相手は恋人というやつだ。

 

 彼とは数ヶ月前に付き合い始めたばかりだが、受験で壊れかけていた私を献身的に支えてくれた。成績が伸び悩み、母親に辛く当たられて、そんな居場所を失くした私に寄り添ってくれた。彼は少し前に受験を終えていたけれど、それ以降も変わらず、私を応援してくれていた。だから彼も心から喜んで、「おめでとう」と言ってくれるだろう。

 

「もしもし」

 

 彼が電話に出た。私は彼に合格を報告した。すると、彼は大きく息を吐き、言った。

 

「おめでとう。で、別れようか」

 

 

 

 

 

 夕食の母と二人の食卓。母が張り切ってちらし寿司を作ってくれたのに、私は何も感じなかった。彼に振られたショックから立ち直れずにいたのだ。彼は、私が勉強ばかりで付き合いが悪かったから飽きた、と言い放った。私は居場所が欲しくて勉強をしていたのに、勉強をした事で一番大切な居場所を失ってしまったのだ。彼の言葉で私は頑張れたのに、あの一言で、今までの全てが偽物だったかのような気さえした。

 

「本当におめでとう、エリカ」

 

 母親が話しかけてくる。私はそれに対して、喜ぶでもなく怒るでもなく、ただ箸をすすめた。母親は昔から、私がテストでいい点数を取ると喜んだ。勉強のできる私が誇りだと言ってくれた。だから私は頑張ったし、母親の勧める上級公務員になることが、いつしか私の夢になっていた。でも私は最近になって、私は本当にそうなりたいのかと疑問を感じたのだ。私はただ、母親の敷いたレールの上を走らされているだけのように思えたから。

 

「これでまた、夢に一歩近づいたわね」

 

 母親が懲りずに話しかけてくる。私の中で何かが切れた。

 

「私はね、居場所が欲しかったの。お前が誰ともわからない外国人と子供を作ったせいで、私はこんな髪の色に産まれた。そのせいで友達なんてできなかった。だから私には、お前しかいなかったんだよ! お前の好きな娘になりたくて頑張ってたんだよ!」

 

 初めての私の反抗に、母親は驚いているようだった。その顔を見て、私の勢いは弱まった。それでも私は、続く言葉を振り絞る。

 

「そんな私にも、居場所ができたんだよ。なのに……」

 

 熱いものがこみ上げてくるのを感じ、私は家を飛び出した。

 

 

 

 

 

 昼間とは一転して、外は大雨。春の雨はまだかなり冷たかった。しかし、私は濡れるのも気にせず、全力で走った。辿り着いたのは彼の家の前。震える指でインターホンを鳴らす。数秒たっても誰も出ない。膝に力が入らなくなり、私はその場に崩れ落ちる。幼い子供のように、声をあげて泣いた。人目な

 

 

 

んて気にならなかった。この世に私一人しか存在していないような感覚に陥っていた。すると、誰かが私の目を手で覆い、私はハッとする。

 

「誰……?」

 

 私が訊いても、その誰かは応えなかった。しかし、代わりに一言返ってきた言葉が、その正体を私に見せた。

 

「ごめん」

 

 その音が、話し方が、声の主を彼だとわからせた。私はすぐに顔が見たくて、彼の手をどけようとした。しかし彼は手に力を込めて、そうはさせてくれなかった。

 

「ごめん。今はエリカとは顔を合わせられない。そんな資格、俺にはないから」

 

 そう言った彼の声は本物だった。私は私の目を覆っている彼の手に、自分の手を重ねる。そこには確かな体温を感じた。

 

「エリカが遠くなっていく気がしてたんだ。俺なんかが隣にいちゃ駄目なんじゃないかって」

 

 

 彼が言った。私は口を開いたが、言葉を発することはできなかった。彼が言葉を続ける。

 

「勝手でごめん。エリカのこと支えるって言ったのに。裏切ってごめん」

 

 彼のその言葉を聞き、私は自分の愚かさを突きつけられた気がした。私の瞳から再び熱いものが溢れる。それは彼の手に触れ、私の頬に落ち、雨に溶けていった。

 

「ごめん。私、甘え過ぎてた。貴方は離れないって思い込んでた」

 

 彼は表向きにはあまり周囲に興味を示さないように見えて、本当は誰よりも思いやりの強い人だった。私自身親しくなる前は彼のことを良くは思っていなかったけれど、そんな彼は弱い自分を見せないように自ら作った姿なのだと判ったとき、私は急に親近感を覚えたのだ。私は、自分が弱いと思われないように、勉強という壁を作った。初めは母親の喜ぶ顔が見たくて勉強をしていたのだが、いつの間にかそれが私になり、私を守る壁となっていた。私は強くない。そして、彼も強くない。誰も強くなんてないんだ。そんなことを、私は忘れていた。そしてそれは、きっと……。

 

 

 

 

 

「エリカ。静かにしてごらん」

 

 彼が私に言った。耳を澄ませると、後ろからヒールの音が近づいてくるのが聞こえた。

 

「お母さんっ!」

 

 私そう叫んで音の方へ駆け出した。私が飛びつくと、お母さんも私を思い切り抱きしめてくれた。

 

「ごめんね。わかってあげられなくてごめん。苦しめてごめん。お母さんは、どんなエリカでも大好きよ」

 

 私はお母さんの腕の中で何度もうなづく。そんなこと、本当は分かっていたから。

 

「勉強勉強って、煩くてごめん。でもね、エリカ……」

 

「わかってる」

 

 私はお母さんの言葉を遮る。

 

「私知ってるよ。お母さんは、私が将来困らないように、勉強させてたってこと。それと、お母さんはいつも私を想って、一生懸命大変な仕事をしてくれてるってこと」

 

 私がそう言うと、お母さんが泣きそうな顔になった。でも、泣かなかった。強い人間なんていないけれど、お母さんは確かに強い人だと感じた。

 

「ごめんなさい」

 

 私は人生で初めて、お母さんにちゃんと謝った。それは心からの反省と、改めて感じたお母さんへの敬意によるものだった。

 

「さぁ、帰ろう。すぐにお風呂を沸かさないとね」

 

 お母さんが私の頬の水を拭う。私は振り返ったが、彼はもう居なかった。今晩、また電話をしよう。

 

 

 

 

 

 ヒース、エリカ。その雰囲気から「孤独」という方が有名で、もう一つの花言葉はあまりしられていない。もう一つの花言葉は、「心地よい言葉」。