複製品にさよならを

 

 れれれ

 

 

 

 アップルパイを食べた。

 

 炭になる直前の生地は苦くて、とても食べれたものじゃない。砂を食っているかのようなざらりとした口触りに、思わず眉をしかめる。自分の愚かさの混じった炭を噛み砕いた。

 

 そしてリンゴは酸っぱくて食べれたものじゃなかった。

 

 飲み込むのも辛くて、ひたすら水で流し込んだ。なにもかもを飲みきって、誰もいない部屋の虚しさに心を覆われる。

 

 ほろりと涙がこぼれ落ちた。やっぱり僕はこの味が嫌いなのだろう。

 

 最後のアップルパイは、泣くほどまずかった。

 

 

 

    ◇

 

 

 

 世の中には、母親のお腹の中の頃の記憶を持っている子供もいる、と聞いたからだろうか。原初の記憶、泣く自分とその手を引く兄を思い出した。どこで、なぜ迷ったか。場所を思いだそうとしても、できない。

 

 ただ霞む景色の広がる中、唯一輪郭のはっきりとした兄がいるのを見て、どこか安心していた――それだけは確かなのに。

 

「進、もうすぐ駅に着くぞ」

 

「ありがとう、降り損ねるところだった」

 

 あわてて席を立つ兄の後ろを追った。ちらりと忘れ物を探すふりをして、優先席にいる人物を見る。

 

 先程の胎児の記憶について話していた妊婦たちは、まだここでは降りないようだ。楽しそうにニコニコと話を続けて、立つ気配はない。

 

 お腹の子たちには、もう兄や姉はいるのだろうか。もし、いるのなら。

 

 彼女らの子が自分のようにならなければいいな、なんて。赤の他人の僕は願った。

 

 

 

 すごく見に行きたい国宝が展示されてるんだ、見に行かないか。そう兄に誘われた。まったく興味はなかったけど、うん、と頷いた。

 

 電車をいくつも乗り換えてやって来た博物館は、駅からさほど遠くない。展示されているはずの金印や刀について熱く語る兄に、そうだね、そういえばこんな逸話もあったよね。そんな相槌を打っている間に着いてしまった。

 

 入館券を買う時に実感したのは、たった二年、されど二年の年の差。中学生と高校生では買う券も環境も違うのだろうな、と。ぽつりと思った。

 

 一人で見ても楽しくなくても、誰かが一緒だったら楽しい、なんてこともない。

 

 長い時間をかけて、古い剣を見た。甲冑を見た。兄と同じように、目を輝かせている人がいた。おしまい。兄たちが感じているであろう感動は、僕には一生得ることができないだろうな、と感じてしまった。

 

「人が多かったな。やっぱりこういうものの理解者って、意外といるものなのか」

 

「まあマイナーだからね。最近はSNSがあるから交流も簡単になってるけど」

 

「いや、やっぱりネットとリアルとは全然違うよ。ほら、やっぱりさぁ」

 

 共感者が身近にいると助かるよなぁ。

 

 ぐさり。

 

 なんともないはずの言葉が、心に刺さる音がした。

 

 

 

「姫リンゴ? そんなの家で育てて大丈夫なのか?」

 

「大丈夫、そんなに大きくならないらしいからさ」

 

 一目惚れした。そう言って連れて来られたのは、姫リンゴの木。

 

 ちょうどこの頃、兄は植物にのめり込んでいた。のめり込んだらなんでも極める、兄の真似をして、僕も知識を入れていた。知識を入れるだけだが、兄より多くのことを知っていたように思う。

 

「中途半端な知識で買われたなんて可哀想だろ、ちゃんと調べろよ」

 

「もちろん、ちゃんと世話するって! ほら本も買ってきた」

 

 寒冷な気候で育てるのがよい。兄の買ってきた本にはそう書いてあった。そこまで暑くはならないこの地域ならば、なんとかなるだろう。

 

 もう大学生にもなって考えもせずに買い物をする、というのはいかがなものか。高校生に指摘されるのを恥ずかしく思ってほしいところである。昔と同じように振舞っていい年でもないだろう。小言を言うと、へへ、と笑って誤魔化された。

 

 結局、庭の西日の当たらないところに置かれることとなった。

 

「進、実がなったらりんご飴にしようぜ」

 

「昔みたいに砂糖を焦がして終わり、にならなきゃいいな。アップルパイとかはどうだろう」

 

「それは母さんに頼むべきだと思う」

 

「だな。食材を無駄にするより、よっぽどいい」

 

「きっと小言を言いながら『あんたたちが好きな甘い生地にしたよ』って作ってくれるはず。兄弟揃って甘い物好きで、ほんとによかったよ」

 

 ぐさり。

 

 

 

「ほら、二人の好きなホットケーキが焼けたよ」

 

 差し出された皿には、それぞれ一枚のホットケーキが乗っていた。元気に「いただきます!」と言った兄を尻目に、僕は躊躇していた。

 

 不審に思われる前に食べよう、と口を開く。フォークで突き刺した生地は、逃げるようにするりと抜け落ちた。じれったくなって、拾って口へ入れた。

 

 甘ったるくて仕方ない。僕ら兄弟に合わせたはずの味は、唐辛子が混じっていてもわからない――それほどに甘い。

 

「あ、そうそう! 進、前に俺が連れ帰った姫リンゴ、今年はとうとう花が咲いてたって言ったじゃん? 実もできてたからさ、あとで見に行こう」

 

「絶対枯らすと思ったのに、あそこまで育つとは思わなかったよ……」

 

 屋台で売っている、一番小さいりんご飴ほどのリンゴが結実していた。子供用の鈴のように、一箇所にかたまっている。

 

 なんとも言えない羨ましさと、収穫することへの罪悪感が生じた。

 

 家族みんなで、家庭菜園みたいだねと言いながら食べてみた。売り物のように甘くない、むしろ酸味が強くて食べたいとは思えない。

 

 もうこれは捨てようか。そう話が出たとき、冷凍庫で寝かしておけば甘くなるかもしれないよ、と適当なことを言った。

 

 そんなはずないし、聞いたこともない。でも、どうしても捨ててほしくなかったのだろう。

 

 翌年以降、姫リンゴは花を咲かせることはなかった。

 

 

 

    ◇

 

 

 

 憧れというには執着しすぎていて、友愛というには近すぎる。無論、恋でもない。兄に抱いていたのは、そう簡単に表せない感情だったのか。

 

 僕はやけに一人ぼっちになるのを恐れる子供だった、と思う。そして、誰かと一緒にいるには、好みが一緒であればスムーズだと気づいたのはやけに幼い頃だった。

 

 みんな違っているから、孤独を恐れるから、共通点を見つけ、ひとくくりにしてしまう。好みであったり、容姿であったり、趣味であったり――それは様々。

 

 群れから追い出された動物の末路などただ一つ、強者に食われるのみ。

 

 だから、僕は。群れの中にいたかった。

 

 手始めに、身近な人と同じくくりに入れるようにしよう。そう考えた。身近な人――兄と、好み、そして、ただでさえ似ている容姿をより似せれば完成。

 

 家族というくくりがなくとも、自然と一緒にいる時間は多くなる。

 

 だが、何事にも代償というものはある。

 

 

 

    ◇

 

 

 

「一人暮らしだよ、とうとう。巣立ちというやつさ。もうしばらくは会えなくなるけど、まあちょいちょい連絡は取り合おうな」

 

 そういえばこの間、数少ない友人が「家業を継ぐことになって」とせっかく受かった大学を辞めていたなぁ、と思い出した。みんな別々の生活を送り始めて、風化してホロホロと崩れていくプラスチックを頭に浮かべた。

 

 誰かとずっと一緒などありえない。いずれは別れることなんて当たり前なのに、ずっと一緒にいてくれる、なんて勘違いをしていた。

 

 荷造りする横で、興味なさげに携帯電話を触っていた。新しい職場、家、生活。むすっとした僕の横でそんな話を楽しそうにしていたけど、ちっともわからない。

 

 やっと安定した同じくくりに入れた、そう思ったのもつかの間か。埋めることのできない、年の差。目の前に、グラフのように現れていた。

 

 出発は荷造りの終わった次の日だった。早朝だというのに、牢獄から開放されたようなスッキリとした笑顔で、兄は出ていった。父と母は下宿先を訪ね、それから帰ってくるらしいから、明日の朝にここに着くだろう。

 

「火を使うなら気をつけて。電気はつけっぱなしにしないで、必ず消し忘れないこと。一人だけ残すのは心苦しいけど、ごめんね」

 

 いいさ、そんなの気にしないから。僕だってそれぐらいできる。そう答えれば、申し訳なさそうな表情で「ありがとう」、と。

 

 荷物が多くて、車に僕が座る場所はなかった。不満げに後部座席を覗けば、普段から座っているかのように、ふてぶてしくスーツケースが横倒しになって積み重ねられていた。

 

 兄はすでにその横に座っている。

 

「ごめん」

 

 横顔を見ていたら、そんな言葉がこぼれた。

 

 虚をつかれたような表情で、でもそれも一瞬で取り繕って。

 

「なんで謝るんだよ」

 

 答えたくなくて、車から離れた。結局、謝罪とは言えない、謝り捨てになってしまった。

 

 いってらっしゃい、と声をかけて、家に入った。エンジン音が聞こえたのは、それから間もない頃。

 

 大変だっただろうなぁ、と他人事のように思う。

 

 自分がやることなすことすべて、弟が真似をし、自分を超えて。超えた本人は好きでもなんでもないのに、ただ「兄がやっているから」という理由だけでやっているのに。

 

 負の感情を向けてくるわけでもなく、ただ真似ているだけ。幼児が年長者の真似をするようなことを、十何年も続けられて。見せつけられているような気分になって。置いてけぼりにしようとすれば、追いすがられ。

 

 その繰り返しの中で、兄はここから出ていくのを決意したのだろう。

 

 僕も変えようとしないとなぁ。そう思いながら鏡を見た。

 

 鏡に映る人形は中身のない、空っぽなもので。人間になり損ねたような姿で、たたずんでいた。空虚であるはずなのに、どこか執着を感じる。

 

 もう、終わりにしよう。

 

 

 

 冷蔵庫から、姫リンゴを取り出した。懐かしい、酸っぱいにおいがする。

 

 初めて一人でアップルパイを作った。

 

 リンゴを大きく切りすぎた気がしたけど、そのままにした。生地を作っている間に茶色く酸化して、塩水に浸しておけばよかったと思ったけど、もう遅い。

 

 焼く時間も確認していなくて、どうでもよくて、適当に焼いた。半分炭でできたようなアップルパイが完成したのは、短針が二と三の間を示す頃。

 

 帰ってこないはずだけど、もしかしたら。ドッキリだよ、騙された? なんて言って帰ってくるんじゃないか。そんな淡い希望を抱く自分を嗤った。

 

 夕焼けが眩しいなぁ。

 

 わずかに月光が差している。

 

 あ、遠い遠い、街灯の光が部屋にまで差した。

 

 明かりも付けずにソファに座って。きっと雨戸の閉まっていない窓から中を覗いたのなら、死人のような目をした僕が見えたことだろう。その比喩は、心が死んでいた、という意味ではあながち間違ってはいないだろう。

 

 中身が形成されるわけでもなく、人になるわけでもない。虫が脱皮した殻を食べるよう、という表現がふさわしいのか。次の段階へ進むための糧とするように、空っぽの人形は、パイを口にする。

 

 一欠片も落とすことなく。己の愚かさを恥じるようにして、水と共に飲み込んだ。

 

 受け取られることのなかった謝罪と涙が、床にぼとりぼとりと落ちる音がした、気がした。

 

「さよなら、歩」

 

 最後に一度、兄の名を呼んだ。