三日月の夜、傷物の君に魔女を贈る

 

 アルミホイル

 

 

 

    1

 

 

 

 不思議な夢を見たのは、つい二日ほどの前のことだった。その夢は、たった一人、鉱坑でいつもの作業をこなしている最中、見知らぬ人物に声を掛けられて始まった。つるはしを置いて背後を振り向いた。その人物は深くフードを被り込み、顔には黒い靄でもかかっているように、人相を確認することは叶わなかった。

 

「楽しんでるかい? 人生」

 

 野太い声は、狭い炭坑の中でよく響いた。男のものだとすぐに理解できた。

 

 人生。そんな贅沢な概念は、自由の星の下に生を受けた人間の特権である。楽しんでいるか、だと。冗談じゃない。この男はわざわざ下賤に皮肉を言いに来たのだろうか。実に良い趣味をしている。言葉にして褒め称えてやりたい所だが、そんな事をすればどんな仕打ちを受けるかなど、目に見えていた。

 

「おやおや、無視をしないでくれよ。純粋に興味があるだけなんだ。僕と話をしよう」

 

 無視をするな。話をしよう。──人間様からの命令だ、背けば命はない。そう確信していた。だがこんな男に、皮肉や苦言以外の何を言ってやればいいのかも分からず、返答を捻り出すのに、男が『待たされた』と感じる程度の時間を要した。

 

「…………俺のような下賤に、どうして構って下さるのですか?」

 

 男は笑っていた。壊れた操り人形のように、ケタケタと。腹を抱えて笑っていた。

 

「楽しいからに決まっているだろう。君のような不遇な人間と話すのが、楽しくて仕方がないんだよ。嫌な奴だと思うかい?」

 

 ああ。本当に、嫌な奴だ。勿論口には出来なかったが。

 

「安心してくれよ、今日は君に嫌われる為に来たんじゃなくてね、良い話を持ちかけに来たんだ。勿論、君が嫌なら断ってくれても構わない。なぁ少年、僕と取引をしないか?」

 

 男の発言の意図が掴めなかった。馬鹿にしているようで、どこか本心で発言しているようにも見えた。生涯で、あれほど理解に苦しんだ瞬間はただの一度もなかった。

 

「…………大変面白い、冗談ですね」

 

「冗談じゃあ、ないさ。僕は本気で話を進めたいと思っている」

 

「俺はあなたに差し出せるものなど持ち合わせていませんよ。家族もいませんし、命が欲しいなら、主人と話を付けて来てはいかがでしょうか?」

 

「そんなつまらない物を要求するつもりはない。僕が欲しいのはね、簡単に言うなら、君の人生を変える権利だよ」

 

 随分と含蓄のある言い回しだ。いくつか考えられる発言の真意によって、男への評価が大幅に変わってくる。あまり良い期待は、するだけ失望しそうだが。

 

「人生は楽しいかい? 少年」

 

「……そもそも、人生だなんて呼べるような、高級な生き方は出来ませんよ。生き続ける限り、道具として使われ続けるだけです。親が誰かということさえ、知らされずに」

 

 男の口許が、引き裂ける勢いで横に広がった。愉しんでいるのだ、自身より遥かに弱小な存在を、目の当たりにして。噂に聞く悪魔とは、彼のような者のことを言うのだろう。

 

「それなら、運命を変えたいとは思わないかい? 生涯虐げられ続けて、一時の自由さえ味わえない理不尽極まりない命を、僕の力を借りれば終わらせることができる。どうだい、面白そうだろう?」

 

「あなたは、俺を殺すと言いたいのですか?」

 

「違うとも、言い方が悪かった。僕はね、君に充足した人生を送って欲しいんだよ。不遇な人生から一転して、身の丈に合わない福利に戸惑う君が見てみたいのさ」

 

 初めて男は自身の欲求について言及したが、それは共感を覚えるものでは到底ない、歪なものだった。例えるならそれは、農夫が食用に育てている家畜を愛でたがるような。或いは、劣悪な環境で虐げてきた奴隷に刹那の慈悲を向けるような。気まぐれで、傲慢な欲望だ。

 

 男に不信感を抱く一方で、微かに期待を寄せている自身の存在も、否定はできなかった。縋る相手が悪魔であろうと神であろうと、祈る事自体が悪であろうと善であろうと、生き方を選択する権利――すなわち自由を、飽きるまで貪りたい衝動に駆られていた。

 

 煩悩に大部分が食い尽くされた後、最後に残った手触りの良い砂粒ほどの極小さな理性によって、最後の質問が男に投げかけられた。

 

「具体的に、どうやって幸せになれるんですか?」

 

 悪魔だの神だのと、次の男の発言まで、僕は比喩のつもりで思考を巡らせていたのだが。――男本人がそのものであったと、思い知る結果となった。

 

「次の三日月の夜、君の下僕として、魔女を贈るよ」

 

 その衝撃的な台詞をもって、眠りから醒めた。

 

 

 

    2

 

 

 

 住んでいる家は非常に安全な物件だ。三方向が窓なしの壁、残りの一方向は鉄格子に囲まれ、家具等は一切なく、事故が起きる心配はない。盗人が入る事はあったとしても、精々同居人としてだろう。二十人超が密集した空間にいるので、体臭やら人間関係に悩まされるのが玉に瑕だ。あとは吐瀉物のような食事や家畜未満の労働条件、加えて雇い主からの過激な暴力や暴言などに目を瞑ればここより快適な場所はない。そんな素晴らしい物件を、世間では牢獄と呼ぶそうだ。全人類に一度は入ってみて欲しい。

 

 なんて。つまらない戯れ言に思考を割いてみたが、やはり大部分は夢の中での約束に占められている。夢など所詮、過酷な現実から逃れたいが故に自らが作り出した虚構だとは知っている。だがあれほど衝撃的な話をされてしまっては、どうしても意識せずにはいられない。

 

 労働を終えてしばらく経った現在は、おそらく夜だ。月の形を確認したいが、窓穴もないのでそれは叶わぬ願望だ。脱走を試みようにも、まず抜け出す手段がないし、仮に出られたとしても、足枷をされているのでまともに動けない。壁と足枷を繋ぐ鉄鎖を引きちぎれたとしても、精々できるのは飛蝗(ばった)ように無様に跳躍して前進するくらいだろう。

 

 無意義な時間を過ごした。元々現実逃避の妄想に想いを馳せるような感性豊かな人間ではなかったはずなのだが、どうも最近は調子がおかしい。代わり映えのしない日常を送っているだけで、心情に変化が起きるような出来事があったようには思わない。しかし何もなければ、あんな夢は見ないはずだ。それとも、心の奥底では既に苦悩が限界に達していて、先日の夢はそれが表面化した、ということなのだろうか。

 

 まぁ、思案を巡らせるだけ無駄な命題だ。変な夢を見て、非現実と知りながら、その夢についてあれこれ考える。そんな馬鹿らしい趣味があっても良いではないか。元々趣味というのは、特段意味合いを明確化してする行為ではないのだから。

 

 ところが現実ではないと一度断じてしまうと、途端に夢への関心が失せてしまった。つまらない現実至上主義をやめた訳では無かったらしい。あれほど奇妙な夢を見る人間が現実主義者というのも矛盾している気がするが、これも考え出すときりがない。

 

 一切合切きっぱり忘れたいなら、大人しく眠りに就くのが正解だ。そう思い至り、目を閉じた。――すると同時に、見えない力場に引きずり込まれるような感覚を覚えた。生命の危機を感じて咄嗟に目を開けようとしたが、縫い付けられでもしたように瞼は固く閉じている。目を閉じたまま逃げ出そうにも、浮遊感に包まれていて何をすればいいのか分からない。

 

 醜く手足を掻いてみるが、当然その行動は意味を持たない。正体不明の苦痛を味わった数十秒は、三日分の労働に相当する疲労感を(もたら)らし、唐突に尻が地面についた。そして、誰かが俺の手を握った。

 

「やぁ、三日ぶりだね。約束を果たしに来たよ」

 

 音質は良いのにどこか不快感を覚える低音は、間違いなくあの男のものだ。どうやらあの不思議な夢の、続編が始まったらしい。

 

「酷いなぁ、夢じゃないよ。もしこれが夢だとするなら、君は今から死ぬまで、ずっと夢の世界にいることになるね」

 

 夢の世界の人物に、夢であることを否定された。別に脳内でこの状況を想像しているだけと言われれば返す言葉もないが、男の声の調子はやけに現実味を帯びている。

 

「少年、目を開いてごらん」

 

 男の命令に素直に従うと、忌々しい鉱山の入り口が目前にあった。不可解だ。牢獄からここまでは、馬車で移動しても二時間弱はかかる。目を閉じていた数十秒の内に移動するなど、酷く現実味を欠いている。現実でないと言い切ってしまえばそれまでだが。

 

「背後を振り向くんだ。向いてくれたらきっと、僕が約束を果たす律儀な人間だと分かってくれるはずさ」

 

 俺は背後を振り向いた。そこに男の姿はなかった。普段ならあり得ないと頭を悩ませる所だが、そんな事実は全く気にならないくらいに、全神経がたった一つの存在に心を奪われてしまっている。――今宵の三日月の化身のような、一人の女に。

 

 

 

 背景と同色の三角帽子を被り、先端部に群青の宝石を嵌め込んだ杖に両手を掛けている、金髪の女。彼女の姿は、兼ねてから想像していた、安直な『魔女』の偶像と完全に一致している。魔女は、彫刻じみた美貌に人間味のない虚ろな表情を浮かべ、しがない下賤を睥睨している。不意に生温かい微風が女の長髪をさらい、宙にばら撒いた。吹き流される無数の光芒は、夜空に浮かぶ三日月をも嫉妬させる、鮮麗な金色をしている。

 

「初めまして、ご主人様。ルナ・クレセントと申します」

 

 呆然とする俺をよそに、魔女は続ける。

 

「何なりとお申し付け下さい。私の魔法が及ぶ範囲で、望みを叶えて差し上げます」

 

 強過ぎる衝撃の連続のせいで、理性は既に瀕死で、合理的な思考を維持するのはもはや不可能な状態だ。現実と空想の境界線は定義を喪失し、今や俺自身の存在すらも疑わしくなってきている。

 

「何なりと、願いをお申し付け下さい。可能な範囲でなら、叶えて差し上げましょう」

 

 誇張気味に女は繰り返す。悩めば悩むほどに、この女の送り主はきっと俺を嘲笑うのだろう。――そう思うと腹が立って、口が勝手に言葉を紡いだ。

 

「俺を幸せにして下さい。願いはそれだけです」

 

 間髪入れずに女は答えた。まるで最初から、俺の言う台詞を知っていたかのように。

 

「私には出来ません。別の願いなら、叶えて差し上げましょう」

 

 悪名高い魔女様は、下賤一人を喜ばせる事すら出来ないらしい。とんだお笑い種である。

 

「じゃあ逆に質問しますけど、俺一人の幸福すら実現出来ないあなたに何を望めばいいんですか? 小銭程度の富を与える事も、鳥の餌に近しい食事を出す事も、横暴な主人から解放する事も出来ないあなたに」

 

 あからさまな挑発を受けようと、女は僅かにも顔色を変えない。俺のちっぽけな幸福すら叶えられない魔法使いなんてはっきり言って無能だが、どうしてか、浮世離れした異様な雰囲気だけは纏ったままだ。

 

「出来ますよ。国一つ分の富を積む事も、どんな大貴族の宴会でも出されないような豪勢な食事を出す事も、世界中の奴隷を一斉に解放する事も、お望みとあらば何なりと。ただしあなたを、幸せにする

事は出来ません」

 

「……要するに、あなたは俺が幸せになるのは不可能だと、そう言いたい訳ですか」

 

「いえ。限りなく可能性は無いに等しいですが、幸せになる事自体は可能です。ただし魔法という手段をもってしてでは、ご主人様を幸せにする事は出来ないのです」

 

 しばらく、無言の時間が流れた。その間俺は、女の言い分が真実か否かについてではなく、純粋に俺が幸福を掴む方法を考えていた。結論としては、やはり女の言う事は理解できなかった。理想は、生活に少しゆとりが生じる程度に富があり、平和な家庭を築き、商売などに励んで月並みな人生を送る。女の力をもってすれば、このくらいは簡単にできるだろう。それとも、ただ彼女は具体的な要望以外は受け付けない、と言いたいだけなのか。

 

 とにかく、俺が容易に幸福を手にする特権を得たのはもはや確定事項だ。いつでも幸福になれるのだから、今は少しくらい遊んでみてもいいだろう。

 

「では、このような願いなら叶えられますか?」

 

 俺が女に願いの内容を告げると、案外あっさりと首肯して、可能の意を示した。

 

「ご主人様、本当にこの願いでよろしいですね?」

 

「ええ、よろしく頼みますよ」

 

 闇に覆われていた視界を、赫灼(かくしゃく)たる光が喰らい尽くした。そして再び瞼を開いた時――眼に映る世界の景色は、百八十度傾いていた。

 

 

 

    3

 

 

 

 魔女が下僕になって、三日が経過した。俺が彼女に叶えてもらった願いは、『主人と奴隷の立場を逆転させる』だった。魔法によりその願望は実現して、地方の貴族であった主人は俺の奴隷となり、奴隷であった俺は主人の代わりに貴族になった。

 

「旦那様、御食事の用意ができております」

 

 制服に身を包んだ給仕の女が、食事の用意が完了した事を知らせに来た。奴隷時代ではあり得ない高待遇である。給仕が魔女の存在を全く気にしないのは、魔女は俺以外の人間には見えないからである。意地の悪い俺は、女に更なる任務を追加する。

 

「ここに持って来い。俺を誰だと思っているんだ」

 

「た、大変申し訳ございません! ただ今持って参ります!」

 

 こうして俺に命令されて、慌てふためく様を見るのが楽しい。魔女は俺に幸福など得られないと言っていたが、そんなのは真っ赤な嘘だ。これを幸せと言わずしてなんと言うのか。

 

「ご主人様は、随分と楽しそうですね。そろそろ嫌気が差す頃だと思っておりましたが」

 

「嫌気が差す? 面白い冗談を言いますね。あなたのおかげで、毎日楽しく過ごさせてもらっていますよ」

 

 いい加減表情の一つも変えればいいのに、魔女は頑なに無表情を貫いている。毎日楽しく過ごしているのは、偽りなき真実だ。特に今日などは、とびきりの催しを企画している。急いで食事を運んで来た給仕に、一つ質問を投げかける。

 

「この部屋にある美術品や骨董品は、全て俺が集めた物だな?」

 

「そ、それは、ご主人様のお部屋でございますから、ご主人様以外に物を置く人間はいないかと」

 

「そうか……ならいいんだ。変な質問をして悪かったな」

 

「いえ! お気になさらず」

 

 そうでないと困っていたところだ。楽しい催しが台無しになってしまう。

 

「お前は、もういい。早く部屋から出て、屋敷の掃除でもしていろ」

 

 二つ返事で給仕は部屋を出て行った。彼女が近くにいなくなったのを確認してから、三人の男を部屋に呼んだ。

 

「入りなさい。無礼を働いた奴隷よ」

 

 小綺麗に整えられた貴族の部屋には場違いな、無地のぼろ雑巾を纏った男が、私兵二人に銃を突きつけられながら部屋に入った。男の目は血走り、俺を睨む目は慙恚(ざんい)に満ちている。この屋敷の、主人だった男だ。

 

「……これは何の冗談だ、卑しい下賤よ」

 

「卑しい下賤はどちらの方だ。俺を呼ぶ時は、ご主人様と呼びなさい」

 

「黙れ! どんな卑怯な手を使ったかは知らんが、断じて許さんぞ!!

 

 愚かにも、彼はまだ自らの置かれている状況を理解していないようだ。

 

「口を慎め、下賤が。背後から撃ち殺されたいのか?」

 

 抵抗しても無駄だとやっと理解したようで、卑しい奴隷は奥歯を噛み締めながらこちらを睨む。生意気な態度だが、それくらいの方がこれから起こる事を楽しめるだろう。

 

「俺の事が憎いか、奴隷よ?」

 

「無論だ!! いつか私が貴様の絡繰を明かして元の地位に舞い戻った暁には、八つ裂きにして犬の餌にしてくれる!」

 

「はは、それは楽しみだな。しかしな、今までお前には散々な仕打ちを受けて来たが、お前と違って善良な人間である俺には、卑怯な手でこの地位に就いてしまったが申し訳なくて仕方ないのだ。お前に少し、復讐の機会をやろう」

 

 何を言い出すのか、と男は目を丸くする。俺は数歩脇にそれながら背後を振り向いて、両手を広げてみせた。俺の視線の先には、この部屋にいる奴隷がかつて貴族だった頃にご執心だった、見事な収集品が並んでいる。

 

「これらは俺という貴族が今まで、我が子のように愛でてきた大事な収集品だ。奴隷としてこき使われるお前が可哀想だから、お前にこれらを壊す権利をやろう。さぁ、壊せ」

 

「……そこに並んでいる物の価値が分からんとは、哀れな奴め。その中の一つを売れば、貴様のような奴隷が何百人買えると思っているんだ!」

 

 売れば俺のような奴隷が何百人も買える。――こんな下らない物よりも、圧倒的に俺の命には価値がないらしい。

 

「奴隷の分際で俺に口答えをするのか? 主人が壊せと言ったら、壊すのが奴隷の仕事だろう。それとも、ここで撃ち殺されるか?」

 

 目を血走らせ、涙を滲ませながら男はゆっくりと前進した。美術品の前で立ち止まり、その場に跪いた。

 

「……出来ない。ここにあるのは、私が人生を賭けて集めてきたものだ。殺したいなら殺せばいい。犬の餌でも鳥の餌でも、何でも好きにすればいい。だからどうにか、壊すのだけはやめてくれ!」

 

 泣く泣く壊す様を見ながら紅茶でも嗜もうと思っていたのだが、これは随分と拍子抜けだ。命より宝を優先するとは、やはりこの男は、理解できない。どうしても壊せないと言うのなら、俺にも考えがある。

 

「魔女さん、次の願いが決まりましたよ。この男を操って、収集品を破壊させてください」

 

「……承知しました」

 

 一瞬躊躇ったような間があった気がしたが、この女に限ってそんな感情は抱かないだろう。男はすぐに魔法にかかったらしく、素直に自身の宝を破壊し始めた。目からは滂沱と涙を流し、箍が外れたように慟哭しながら。俺は側の椅子に腰掛けて、紅茶を入れた杯を持ち、しかし杯の中の液体を口に含む事はなく、ただ茫然と、男の行く末を眺めていた。胸の内で蠢いていた何かはどこかにいなくなり、肉体を貫通して空気が通り抜けていくような感覚があった。冷たくもなく、温かくもない、何でもない、ただの空気が。

 

 ――全ての収集品を破壊し尽くした男は、舌を噛み切って死んだ。

 

 

 

 

 

「催しは大成功でしたね。良かったですね、ご主人様」

 

 使用人総出で片付けさせた後の部屋で佇んでいると、ずっと背後にいる魔女がそんな皮肉を言い出した。しかし残念なことに、今はおそらく何を言われても何も感じない。強がりではなく、本当に何も感じなくなってしまっている。

 

「魔女さん、俺は幸せになれないのでしょうか?」

 

「どうしてそう思われるのですか?」

 

「憎んでいた相手が死んだのに、全く嬉しくないんです。何も、感じないんです」

 

「それは大変人間らしい、自然な感情です。気に病む事はありません」

 

 石像の如く表情を変えないこの女に、人間らしさを説かれるのは腑に落ちない。だが、人間らしいという表現自体は、はっきり想像はつかないが、どこか的を射ているような気もする。

 

「俺にこの身分は、向いていないのかも知れませんね。身の丈にあった環境でなければ、幸せなど得られるはずもない。魔女さん、明日の願いが決まりましたよ」

 

「幸せにはできません。先にこれだけ断らせていただきます」

 

「あなたに出来ないなら自力でなって見せますよ。それを俺の、復讐とします」

 

 

 

    4

 

 

 

 元主人が死んでから四日が経ち、今度こそ俺は幸せを手にした。というのも、全面的に魔女の力を借りて、生活に少しゆとりが生じる程度に富があり、平和な家庭を築き、商売などに励んで月並みな人生を送る、そんな理想を実現したからだ。もう少し魔法で遊んでみてからでも良かったが、下手に遊び続けるのも心が荒んでいく一方だと知った。だからしばらく魔法は使わず、生活を送る上でどうしても不都合が生じた時の、最終手段としてとっておく。

 

「フランク、お客さんが来てるわよ」

 

「ああ、今いくよ」

 

 フランクというのは商人としての俺の名前で、その名前を呼んだ女は妻に当たる人物だ。彼女はとびきり美しくも若くもないが、眺めているとなんだか落ち着くので、平穏を望む俺としてはむしろ理想的な人物である。

 

「父さん、おはよう」

 

「おはよう。ジョニー」

 

 ジョニーは今年で十歳になる息子に当たる人物だ。因みに彼は末っ子で、上にはまだ二人兄がいるらしいが、既に家を出ているのでまだ会った事はない。身に覚えがない人間関係が出来上がっているのはむず痒いが、別段嫌な気はしない。居住空間と店を区切る暖簾をくぐると、常連客で友人の男、ロッドが喜色を満面に浮かべて立っていた。

 

「やぁ、フランク! 久しぶりだね」

 

「……昨日会ったばかりだろう。君は気の短い男だな」

 

「んん? 事あるごとに久しぶりと言ってくるのは君の口癖ではなかったかい?」

 

 時々、魔女が設定したフランクという人物像に振り回される事がある。本当に迷惑な悪戯だ。何も考えていないようで、魔女というだけあって、案外性格が悪い。

 

「……そう、だったか? よく覚えていないが」

 

「はは、君は間抜けな男だな! そんな間抜けな君に、今日は良い話があるぞ!」

 

 常連客は腰に提げた鞄の中から、何やら一枚の紙を取り出し、俺の方に向けた。俺に向けられた方の面には、成人の男が一人、女一人、加えて幼い男児一人で構成された三人家族が精密に描かれた、見事な絵が描かれていた。

 

「以前みんなで隣街に旅行へ行った時、俺の知り合いが営む写真屋に行った事があっただろう。これはその時に君達家族を撮って貰った写真なんだが……素晴らしい出来だと思わないか! もうこれからの時代、画家なんぞは要らんな! ははは!」

 

 シャシン、とやらが何なのか分からない。無言でずっと背後に立っている魔女の衣服の裾を掴むと、勝手に説明を始めてくれた。気の利く魔女である。

 

「写真というのは、専用の機械を用いて、特殊な紙に光を焼き付けた鮮明な絵の事です」

 

「説明ありがとう。要するに、綺麗な絵の事ですね?」

 

「……はい。まあ、その通りです」

 

 何か言いたげな間が挟まっていたが、問題はそこではない。重大過ぎる問題が、他にある。

 

「なぁ、ロッド。写真に映ってる、この男性は一体誰だ?」

 

「おいおいとうとう耄碌か? どこをどう見たってお前じゃないか!」

 

 俺はもう一度写真に写っている男性を見直した。しかし分かるのは、どこをどう見てもその男性が俺とは別人である、という事実だけだ。これが、周囲を取り巻く人間達が見ている、『フランク』という人物なのか。そうだとすれば、今ここにいる俺は何なのか。――考えうる限り最悪の想定が、着々と確定材料を揃えていく。もしその想定が、真実だとしたら。なるほど、確かに俺は、幸せになど到底なれないだろう。もう良い、全て考えないようにしよう。何も考えなければ、俺は幸せに違いない。

 

 何も考えまいと外の音に耳を澄ましてみると、馬の蹄が地面を連打する音が、断続的に聞こえてきた。音はだんだん大きくなっていく。どうやらこちらへ近づいているようだ。

 

「おぉ? 何かあったのか? 馬がこっちに向かって走ってきてるぞ!」

 

 馬がこちらへ近づいてくる。別に気にするような事など無いはずなのに、なぜか俺は両手を押し付けて耳を塞いでいる。心臓の音がはっきりと聞こえる。

 

「どうしたフランク! 何か変な声でも聞こえるのか!? さてはお前、悪魔にでも取り憑かれたな」

 

 似たようなものになら取り憑かれているが、今はそれを気にする余裕はない。何がはっきりと気懸りなのかは分からない。馬が近づいて来ているだけで、別に何も関係はないのかもしれない。馬上の誰かが俺に用事があるのだとしても、それは俺の知らない『フランク』という人物への用事で、俺には関係ないのかもしれない。――でももし馬に乗った人物が、俺本人の客だったとしたら。俺を再び、現実に引き戻していくのかもしれない。

 

 馬の足音は止み、今度は靴と地面が擦れ合う音が聞こえ始めた。その音がしていたのは数秒間だけで、予期していた通りに、馬に乗っていた人物は俺の目の前に現れた。俺の元主人だった、とある貴族によく似た服装で。――さっき見た写真に写っていた男性と瓜二つだった。

 

「お前だな。俺から家族を奪った悪魔は!」

 

 言葉が出ない。ただただ申し訳なくて、恐ろしくて、悲しくて。

 

「何をおっしゃいますか貴族様。彼は生涯、あなたのような貴族と関わりを持った事はございませんよ。家族を奪ったなんて、あり得ませんよ」

 

「ロッド……お前まで俺の事を忘れてしまったのか!? 分からないか? 俺がフランクだよ!」

 

「な、何をおっしゃいますか? フランクはこいつで、貴方は貴族様です」

 

「……ふざけやがって!! おい、お前、どうやってこんな事したんだ! 早く元に戻せ!」

 

 フランクは俺の胸ぐらを掴んで持ち上げた。ロッドは唖然として男二人の喧嘩を眺めている。いや、喧嘩と言うにはあまりにも一方的だ。身分的にも貴族には逆らえないし、俺自身も怒る貴族に抵抗する意思がない。間も無くして貴族は暴力を振るい始めた。いつも受けてきたものとさほど変わらない、むしろ道具を使われない分まだマシなはずだったが、苦痛も恐怖も、普段の数倍はあった。

 

「おい、ロッド。その辺に短剣とかあったろ。もういいや、コイツ、殺す」

 

「え、いや、しかし……彼には何の罪も…………」

 

「罪深い男だ!! その罪を自覚しているからこそ、こいつは何もしないのだ! 早く持ってこい!」

 

 貴族の剣幕に押し負けて、ロッドはナイフを探し始めた。

 

 俺はもうすぐ死ぬらしい。殺されようとしている。だが抵抗する資格はない。下賤が人様の自力で作り上げた幸福を奪ったのだ、罰を受けるのは当然だ。死ぬだけでは安いくらいだ。

 

 ロッドは刃物を見つけて、貴族に手渡した。湾曲した刃物で、より首を斬るのに適した形状だった。貴族はそれを受け取り、大きく振りかぶった。思考は一瞬で恐怖に支配され、罰を受ける覚悟は消えて無くなり、一つの願いを口走った。

 

「どこでもいいから、俺をここから逃がしてくれ」

 

 視界が真っ白になった。一瞬死んだのか、願いが叶ったのか分からなかった。

 

 気が付いたら、全く人気の無い、草原に立っていた。――願いは、叶ってしまったらしい。

 

 

 

    5

 

 

 

「だから言ったでしょう。魔法で幸せにはなれないと」

 

「その通りでしたね。まさかあなたがこんな不良品だとは知りませんでしたよ。――あの男に、会って話をしなければなりませんね」

 

「それは出来ませんよ」

 

「はぐらかさないで下さい。彼に会わせて下さい」

 

「それは出来ない契約です。他の願いを申し付けて下さい」

 

 女は相変わらずの無表情だ。しかしどこか、瞳の色は何かを憂いているようにも見えた。

 

「じゃあ俺の下を去ってくれませんか。それを最後の願いとします」

 

「それも出来ません。そういう契約ですから」

 

 何を言っても、出来ないと言う。話す気が失せて、その場に座り込んで、黙った。そのまましばらく無言の時間が流れて、尻が痛くなってきた頃、魔女の方から喋り出した。

 

「最初に話しておくべきでしたが、私の魔法では、無から有を生み出す事は出来ません。つまり、あなたが何かを手にする分どこかで誰かが何かを失い、あなたが何か別の存在になれば、元々あった別の存在が、あなたの代わりになります」

 

 何となく、そんな事は分かっていた。言葉を返す気にもなれなかった。

 

「ここで何もせず、死んでいくおつもりですか? こんな所にいたら、獣に襲われても文句は言えませんよ」

 

 獣に襲われたら、死ぬのだろう。死が恐ろしくて逃げて来たというのに、これでは意味がない。我ながらすごく、馬鹿らしいと思う。

 

「何も、する気が起こらないんですよ」

 

「そうですか」

 

 一つ、気になっていたことを尋ねてみることにした。

 

「あなたは、魔女になって、楽しいと思った事はありますか」

 

「いえ、一度もございません」

 

 返しが予想通り過ぎてなんだか白けた。ところが、魔女は訂正するようにぽつりと言った。

 

「今は、楽しいのかもしれません」

 

「はぁ……人が苦しんでいるのをみるのが楽しいと。流石は魔女ですね」

 

 魔女は首を横に振った。

 

「そうかもしれません。ですが、私は、あなたを尊敬しているんです。一度魔法を味わった人間は、その力に魅入られて、欲に溺れて、いつかは魔法そのものと深く結びついて、魔法使いになってしまう。私もその内の一人でした。自力で魔法を跳ね除けた人物は、あなたが初めてでした」

 

 魔女はいつもと変わらない、平坦な声で、無表情のままだ。しかし、眉根を寄せて悩む人物よりも、声を荒げて怒る人物よりも、涙を流して憂う人物よりも、激しい感情が窺えた。

 

「魔女さん。最後の願いを聞いてくれますか」

 

「はい。可能なものでしたら、何なりと」

 

「あなたは魔女でなくなり、あなたを縛る契約の全てから解放される。……可能ですか?」

 

「……承知、しました」

 

 蛍火のような柔らかな光が、魔女の体を包み込んだ。杖や三角帽子は消えてなくなり、衣装の黒い部分は白く染まった。

 

「あの三日月の夜、あなたが俺の前に現れなければ、広い世界を見ることもなく死んでいたでしょう。魔法は受けいれられませんでしたが、あなたには感謝しています。ありがとうございました」

 

 立ち上がり、どことも知れない目的地を目指して歩き始める。水も、食料も、助けてくれる人も、何も当てはない。ただ、目的もなくさまようだけだ。

 

「どこへ行くおつもりですか。何も、当てはないのに」

 

「知りませんよ。このまま死ぬなら、それでも構いません。運命とやらに、身を任せてみます」

 

 女の方には一瞥もくれずに、前に進む。

 

「……待ってください!」

 

 一度も聞く事はないと思っていた、魔女の叫び声。二度と振りむかないと決めていたのだが、振り向かずにはいられなかった。彼女は顔を醜く歪めて泣きじゃくっていた。魔女ではない、俺の知らない一人の人間が、そこにいた。

 

「私も、お伴します。あなたが、土に還る日まで」

 

「……好きにして下さい。魔女さん」

 

 俺は踵を返し、歩みを再開する。魔女は俺に駆け寄って来だ。

 

「魔女ではありません。訂正して下さい」

 

 そういえばそうだった。彼女は、もう魔女ではない。何と呼べばいいのか考えていると、ふと初めてあった日の事を思い出した。彼女は、名前を名乗っていた。

 

「失礼しました。ルナさん」

 

「……はい。許します」

 

 女は笑った。三日月とは似つかない、太陽のような笑顔だった。