初恋は実らないものと 

 雪村

 

 今日、いや今年最大の驚きだ。ハンカチを握りしめながら、山谷はしばらく動けずにいた。心臓がバクバクと激しく鳴っている。しばらくしてようやく追いついた思考で、山谷はさらに赤くなった。ありえない。だって、一目惚れなんて。

 

 

 

 山谷智紀はとある片田舎の高校に通う、冴えない学生だった。特にこれといった特技もなく、趣味もない。頭も運動神経も中の下。ここまでくるとそれもそれで一つの特徴なのでは、と考えてしまうほどには、平凡な毎日を送っていた。もちろん、彼女などいるはずもなく、好きな人もできたことがない。当然ながら、一目惚れなど、信じてはいなかった。

 

 事の始まりは、先日実施され、本日返却された模試の結果だった。今まで、中の下を維持していた成績が、ついに下の中まで落ちだのだ。本人は、のんきにもへー俺って中の下以外取れたんだ、などと考えていたが、それが、母親の怒りに触れたらしい。祖父を巻き込んだ、一時間半のお説教。座布団も置かせてもらえず正座を続けた足は痺れ、身体は凝り固まっていた。こんな状況では、やる気が出るはずもなく、山谷は、足をほぐしてくるわーと言い残して、母親の小言を背に受けながら家を出たのだった。

 

 あてもなく近所をふらふらと歩いてたどり着いたのは、寂れて子供のいなくなくなった小さな公園。日はすでに傾いていた。青々と茂り過ぎた木はなんとも言えない圧を醸し出し、あちらこちらから伸びたつるは、不気味さを演出するとともに、遊具に絡みついてその動きを妨げている。

 

 山谷は蔓に絡まれ、緑のお化けのようになっているブランコに座った。ギシッという音と浮いている錆に冷やっとしたが、どうやら遊具そのものは無事のようだった。気分のまま、思いっきりこごうとしたが、緑のお化けは本来の半分も動いてはくれない。はぁ。と大きく溜息をつく。

 

 と、そこで正面の木の下からクスクスと笑ってこちらを見ている女性に気が付いた。同じくらいの年か、少し上か。綺麗な人だった。垂れ気味な目が、笑うことによってさらに下がって全体的にほんわかとした雰囲気を漂わせている。低めの位置で一つにまとめた髪は、小さな鈴のついた淡い黄色の髪ゴムで留められていた。ほぅ、と見とれていると、女性はこちらが自分のことを見ていることに気が付いたようだった。

 

「あ、ごめんね。あなたが面白かった訳じゃないのよ。ただ、ここでブランコに乗っている人を見るのは久しぶりだなぁって思って、見てみたら大きな男の人だったからね。似合ってないなぁって」

 

 鈴を転がすような、という形容がふさわしい声だった。この人物が現れただけで、山谷には、この公園に爽やかな風が吹き、植物の葉が生命力に溢れ、夕日を受けてキラキラと輝きだしたように思えた。

 

「あれ、どうしたの? 聞こえてない? この辺りでは見かけない人だけど、もしかして日本語通じない訳じゃないよね?」

 

 彼女は続ける。

 

「えとえと、マイネームイズアオイ? ハウアーユー? だったっけ」

 

 そこまで聞こえた所で、かろうじて山谷が復活した。

 

「あ、あ、あの、アオイさんとおっしゃるんですね?!

 

 否、復活はしていなかった。ただ、彼女も天然なのか、気にした様子もなく会話は続く。

 

「あ、よかったー。日本語通じるんだ。そうだよー。アオイ。名字は立花です。あなたのお名前は?」

 

 にこにこと話しかけてくる彼女に、山谷はなんとか返す。

 

「お、俺は山谷っす。山谷智紀です」

 

「ともきくんかぁ。どこに住んでるの? 私はねー、この近くの山の上の神社、あるでしょう? そこに住んでるんだよー。裏口……って言っても私たちにとってはそこが玄関なんだけど、そこから降りてくるとこの公園に降りてこれるんだ。だからね、この公園でもたまに遊んだんだ」

 

 気がつけば、太陽はもうほとんど沈んでいた。カァカァ、と烏が鳴きながら山に帰っていく。楽しそうに話していた彼女が、それを目で追いながら言った。

 

「あー、そろそろ戻らないと。ごめんね。私ばっかり話しちゃって。楽しかったよ」

 

 じゃあね。と言って彼女は烏と同じ方向に走り出した。と、その時、彼女のポケットからコロリとハンカチに包まれた何かが落ちる。彼女は気付かずに走って行ってしまう。

 

「あ、ちょっと」

 

 大切なものではないのか。山谷は、拾い上げて彼女が走って行った方を向いた。

 

 しかし、彼女はもう走り去ってしまった後のようで、そこには、誰もいなかった。青々と繁った葉だけが、ザワザワと揺れている。日も落ちて、一番星が見えていた。急に気温も落ちてきたようだった。山谷は、拾ったハンカチをポケットに突っ込んで急ぎ足で帰っていった。

 

 

 

 翌日。忘れ物を届けるという使命を持って、山谷はアオイに会いに神社へやって来ていた。ハンカチに包まれていたのは、彼女の髪についていたのと色違いの髪飾りだった。淡い黄色であったあちらに対して、こちらは深い青色。ハンカチでの包まれかたを見る限り、やはり大切なものだったのだろう。必ず届けなければならない。

 

 昨日の公園から登って来たので、裏口の方に着いたはずだ。早めに出発したが、山道は思った以上に歩きにくかった。彼女はあんな時間帯に通って大丈夫だったのだろうか。そんな事を考えながら、立花の表札の下のインターホンを鳴らす。本殿から見ると、離れのように見える母屋から出てきたのは、山谷の父よりも少し、老けてみえる男性だった。彼女ではないのか……と少し落胆したが、用件を済ませるために持ってきたものを取り出す。

 

「あの、立花さんですよね。俺は山谷っていうんですが。昨日、アオイさんが落し物をされて、大切なもののようだったので、届けに来ました」

 

 ハンカチに包まれた髪飾りを見た途端、男性の目が信じられないものを見たように見開かれた。それに驚いた山谷が、慌てて言う。

 

「え、あ、すみません。違う人でしたか? この神社に住んでいると聞いたので来たのですが」

 

 違うのだろうか。

 

 

「い、いや。待ってくれ。合っている。葵は私の娘だ」

 

 帰ろうとした山谷の手を男性が掴んだ。男性の必死さを感じて山谷は振り向いた。男性は縋るように言った。

 

「お茶を出すから、上がっていってくれないか。詳しく話が聞きたいんだ」

 

 

 

 立花家にお邪魔した山谷は、何故か男性とともに立花葵のアルバムを見ていた。立花寿一と名乗った男性は、アルバムの写真を見ながら話を進めていく。ここまでの話を聞いていて分かった事がいくつかあった。まず、立花葵には双子の妹がいた事。その妹は身体が弱く、何年か前に亡くなっている事。そして、二人は仲が悪かった事。

 

 パラリパラリとアルバムをめくっていく。家の庭でボールで遊んでいる姿。家の陰からこちらを覗き込んでいる姿。沢山の写真には主に葵の方が写っていた。妹の方はほとんど写っていない。二人揃って写っているものとなるとさらに少なく、見たところ一枚しか見えなかった。おかっぱの葵と、髪を何故か左右で色の違うゴムで結んだ妹が、向かい合って座っている。それを見ながら寿一さんが言った。

 

「この写真はね、頼み込んで頼み込んで、ようやく撮らせてもらえたんだ。三つ編みを留めているゴムが左右で違うだろう。これは、本当は二人にそれぞれ、つけてほしくて買ったものなんだけどね。葵が、お揃いなんて嫌だって言ってつけてくれなくて。それを悲しんだ私を見たこの子が、私が二つつけるよーって言ってね」

 

 そこまで言って、寿一さんは目頭を押さえた。よく見れば、その髪飾りは昨日のアオイがつけていたものと、落としていったものと同じに見えた。だから、か。山谷は寿一さんの行動にようやく納得がいく。

 

 アルバムを進めていくと、最近のものらしい写真も出てきた。鳥居の前に立ってこちらを向いている姿。参道の掃除をしている後ろ姿。その姿を見て、山谷は思い出したことがあった。

 

「そういえば、この写真だとつけてないですけど、昨日のアオイさんはコレと色違いの黄色い髪飾りをつけてたんですよー。妹さんの髪飾りも持っていましたし、立花さんが思っているより、お二人、仲良かったんじゃないですか?」

 

 寿一さんを喜ばせるつもりで言った言葉だった。それなのに、彼は、先程とは比べ物にならないほど目を見開いて、あり得ません、と言った。

 

 もう少し、自分の娘を信じてもいいのではないだろうか。

 

「そんなに信じられないんですか? きっと、アオイさんも妹さんを大切に思ってたんですよ」

 

 さすがに少し責める色が出てしまったが、それでも一言言いたかった。それでもなお、寿一さんはあり得ない、と言い続ける。

 

「本当にあり得ないんだ。だって黄色い方の髪飾りは、あの子と一緒に燃えたんだから。この世に存在するはずが無いんだ」

 

 ドタバタと廊下を走る足音が聞こえた。バンっと扉が開くと同時に女性の声が聞こえる。

 

「父さん! 私に会いに男が来たって本当なの!? なんで勝手に会ってるのよ!」

 

 大声をあげて部屋に入ってきた葵は、山谷の姿を認識すると、こう言い放った。

 

「誰、コイツ。私の名前使って家に入って、どういうつもり?」

 

 その髪は、飾り気のない真っ黒なゴムで結ばれていた。