残留物

 

 寸刻み

 

 

 

 日の差し込まない故に、緑というよりは黒一色の森の中。大樹と苔と無数の生物の蠢動だけがそれにとっての世界だった。空は見えない。屋根の如く覆い被さる樹々ばかりを見上げていると、元々この世界に空などというものは存在しなかったかのようにさえ思えて来る。その考えを否定し得るのはある時は間断なく洪水のように、またある時は霧のように降り注ぐ雨のみである。そしてこの事実も、湿った地面から吸い上げられた水が樹木に発散されているという可能性を否定しきれない。だからそれにとって、空は存在しないも同然である。

 

 無論、それが今動ける僅か数メートル四方の空間に閉じ込められる以前――この鬱蒼と茂る森の中にまだ参詣道などと呼べるものがあった頃――には考慮する必要の無かった荒唐無稽極まる可能性ではある。だが、荒唐無稽というだけで、有り得ないという先入観だけで、全く考えないという訳にはいかないのだ。過去に世界が反転するような経験をしたそれには。

 

 世界が反転するような経験。数万は繰り返した回想へ意識は急速に降下していく。今のそれが持つのは一切変化することない風景と記憶。同様に変化しないのならば、まだ喜怒哀楽を感じた記憶の方が救われる。故にそれは過去へ逃避するのだ。

 

 

 

 

 

 それにとって最も古い経験は、森に鎮座する社と祈りを捧げる人間の情景。雑多な供物と翁達の祝詞は自分を宥め、見返りに幸を求めるものであった。何故自分がそのような存在であったのかは分からない。元々は異なる何かであったのか、彼らの祈りが産んだのが自分なのか、判然としない。ただ相互に求め、与え合う関係だけがあった。無限に続くかと思われた幸福な円環。その終焉という発想をそれが抱かなかったのは自然なことであった。人間との交換関係が当時のそれには唯一の世界だった。

 

 そして当然のように、突然に、その円環は破却された。

 

 徐々に祈りを捧げる人間の数が減っていたことも、いつしか祭に若者が参加しなくなったことも。今思えば露骨な兆候だった。仕方の無いことだったのだろう。時代の流れ。その一言で説明はつく。こちらがいつまでも求めるから向こうも当然そうなのだ、とは限らないと諦めるべきだったのだ。不幸にして当時のそれは、時代の観念も潔い諦観も持ち合わせていなかった。だから、こちらの内側へ土足で踏み込み、見たことも無い装置で社を破壊しようとした他所者へ、それは反射的な裁きを下した。憤怒か恐怖か、それとも悲哀か。なんであっても、一度暴走した感情の怒涛は収まらず、振り上げた鉄槌はいつの間にか、かつて祈りを捧げた者達――それにとっては最早不義の裏切者でしかなかった――へも振り下ろされていた。

 

 破壊し、破壊し、破壊し。何も原型を留めていなくなった頃、たった一人、見知らぬ人間だけが立っていた。

 

 冗談のように芝居掛かった姿であった。それには時代錯誤と判ずるだけの知識は無かったが、何とも言えない懐かしさを感じた。人間達と自分がもっと近しかった時代の空気を、そいつは全身から発していたのだった。しかし、その懐古も感情の暴威を止めるには至らない。他の人間に対するのと同様に、それはそいつへ襲い掛かり――気付いた時には地に伏していた。その状況が己の敗北であると理解するまで数刻。その敗北の結果、己の存在がこれまでの自由を失い社の一角に束縛されていると認識するまで更に数刻。その後に漸く、それは自分が人間から忌まれる者へと堕ちたのだと、だから封印されたのだと悟った。

 

 後悔は無かった。どうせ、もう二度と在りし日の関係には戻れなかったのだから。

 

 ――このまま消える。それがいい。

 

 その覚悟――というのも厚かましい利己的な願望――はあっさりと裏切られることとなる。あの人間はそれをこの地へ縛り付けただけだったのだ。どうしたものか。今後の自身の処遇について思案を巡らしてはみたが、なにしろあれ程人間離れした人間を見るのは初めてだったから、何も思い付かない。ただ最早未練のようなものは無く、どうなろうと構わないということだけは確かだったから、その場で漠然と何か変化が起こるのを待っていた。

 

 数日が過ぎた頃、そいつは何の前触れもなく戻って来た。あの時代がかった衣装ではなく当代風の洋服であった。随分まともな、言い方を変えれば人間的な雰囲気を醸し出していたのが、幾重にも捻れた皮肉のようで可笑しかった。

 

 ――なんだ、殺しに来たのか。

 

 人間がそれに対して行った封印は非常に強力なものだった。それに破る意思など全く無かったが、仮に破ろうとしても叶わなかっただろう。そしてあの後、この人間は満身創痍のそれをこの場へ残して立ち去った。だから、

 

 ――私にこの封印を破るだけの力は無いと分かっているものだと思っていたが。

 

 そいつは現にこの場へ戻って来た。ならば導き出される結論は一つしかない。

 

 ――さぁ早くしろ。もう、うんざりだ。

 

 それは観念を示すように目を閉じた。どのような手段が用いられるかは分からない。確実なのは眼前の人間の次の一挙動で全てが終わること。

 

 

 

 

 

 ――――。

 

 そいつは不意に呟いた。こちらこそ心底うんざりだとでも言いたげな声色で。その予想外と言うも生温い衝撃的な言葉の意味が一度では理解できず、それは呆然として反復した。

 

 ――面倒臭い……?

 

 

 

 

 

 その日から、時々そいつはそれが封印された社へやって来るようになった。時間帯は決まって昼から夕暮れだったが間隔はその都度ばらばらで、三日続けてやって来ることもあれば一つの季節が終わる位の間姿を見せないこともあった。そいつ以外に訪ねて来る人間などいる訳がなく、自由に動き回ることもできないので正確な時の流れは掴めなかった。だが、そいつが来る度に外の世界の情報を伝える書物を持って来たので退屈することはなかった。

 

 ――供物か?

 

 冗談半分で尋ねるとそいつは決まって、それはもう神ではない、故に供物ではないと告げた。

 

 それらの書物を読みながら、それは漸く自らの世界が如何に小さなものであったかを知った。生まれた――という表現は全く適当ではないが――頃から一度も集落の外へ出たことはなく、進んでそのような情報を取り入れようともしなかったのだから当然ではあったが、それでも自分が世界に対して抱いていた漠然としたイメージと実際の有り様の差に愕然とせずにはいられなかった。そこにあったのは見たこともない技術と価値観に覆われた世界。自分のような説明のつかない者は存在自体を否定された世界。あの人間達の態度も仕方の無いものと受け入れざるをえない世界だった。

 

 何度かの対話の中で、そういった世界の有り様が現在のそれが置かれた不可思議な状況の理由であることも分かった。世界の変化の中でそれに類似した者達は淘汰されつつある。消えつつあるその存在を無理にこの世へ固定化し、世界の流れに抗うのがこの奇妙な人間の役割だった。無論、細かい理論は理解の及ばない所ではあったが、残された事実は単純明快だった。

 

 有り体に言えば、命を救われたのだ。

 

 そいつは勝手にしていることだから気にするなと告げた。だが、その一言で片付けるには事実が厳然にすぎた。何より、与えられるだけという役回りは気分が悪かったのだ。それは、何としてでも感謝の意を行為として示したいと感じた。本人へその意を伝えると、何ができるんだと笑いながらも確かな意向を一つ。

 

 生きろ、と。

 

 

 

 

 

 追想から浮上すると、浮かぶ景色は最早意識と同化しきる程に見慣れた森林。その行為があの人間との相互関係を成立させるものと信じ、そこに佇む。書物は風化して土に還った。往時を忍ばせるものは苔むした、かつて社だったものしかない。

 

 あの人間がどうなったのかは知らない。ある日を境に、全く姿を見せなくなった。何か、自身の使命を巡る戦いの中で力尽きたのかもしれないし、単純に天寿を全うしたのかもしれない。元々人間の顔を識別するのは不得手だったから、来なくなる直前の齢を思い出すことはできない。記憶の片隅にでも残っていないか。そう思い、そいつがいつも来ていた方向をぼんやりと眺め、

 

「…………?」

 

 小さな違和感を覚えた。あの人間がここへ来る道は決まっていた。村から続く石畳である。元々は参詣道として手入れされていたものは、既にひび割れて苔に覆われていたが、まだそこに僅かな過去の残滓を見て取ることはできる。その石畳が、記憶の中と比べて短くなっているような気がする。風化ではない。そうならば石畳は消滅する筈で、短くなったなどという奇妙な感想は抱かない。記憶違いの可能性だって当然ある。しかし、これは確実に、

 

「そうだ」

 

 そこで気付いた。記憶の中で、それは社に縛り付けられていた。縛り付けられていたというのは比喩的な意味ではなく、実際に社から少しも離れられなかったのだ。だが現在、それの身体は社の前方、二本の大木を挟んだ石畳寄りの位置にある。長い年月の中で生えて来たためにそれの身体を知らず前へ押し出していたのだ。だから、石畳が短くなったと錯覚したのだろう。しかし、この距離は――。

 

 試しに一歩を踏み出す。暫く躊躇って後、更に数歩。やはり、抵抗は無い。

 

 封印は解けていた。

 

 考えれば不自然なことではない。人間の施した術が、書物が地に還る程の時間保たれるとは限らない。それの存在は消滅していないのだから固定化の方は機能しているようだ。それは、両者を同一の術によるものだと思い込んでいた。

 

 ゆらり、と。それは目的地を持たないまま社を離れるという目的の為、森の中を集落があった方へ進み出した。

 

 進む進む。森は何処まで行っても終わらない。方向を誤ったか。仮にそうだとしてもこの広さは説明がつかない。社を取り囲んでいた森は、明らかに拡大していた。何故だろう。あの時は無遠慮にここを収奪しようとした人間が、これ程までに森の拡大を放置しておくものか? まるで――。

 

 視界は一気に開けた。木々の屋根が不意に途切れ、その向こうから曇天が顔を出す。空は無くなってはいなかったようだ。しかし、代わりに別のものが失われていた。森を抜けたそこ、姿を現したのは果ての無い草原。その風になびく短い草の中に聳え立つ巨大な岩石群と見えるものがあった。ひび割れ、蔦に覆われて立つそれは、それでもまだ過去の面影を随所に残していた。

 

 風化した高層建築物であった。件の書物でしか見たことはなかったが、直方体の箱のような無機質な構造は自然に存在しようもない。

 

 何故これがこのような状態であるのかは定かではない。だが、ここには最早人の営みは無いことは明白だった。この風景は何処まで広がっているのか。世界というものに初めて触れたそれには推測のしようもない。全世界に広がっている――つまりこの世にもう人間はいない――ということもあろう。

 

 しかし、どうなっていようと構わない。それにとって、世界と自信を繋ぐのは、唯一目に見えない存在の固定化として残るあの人間の願いだけなのだから。この術が作動し続ける限り、それは生き続けるだろう、何の目的も意思も無く。生きるという行為は既に自己目的化しているのだ。

 

 故に己の存在が消えるその時まで、この荒涼とした世界を生きてみよう。そう決意を新たに、それは曇天の下を進み出した。