春の雨

 

 仏谷山飛鳥

 

 

 

 まるで私を祝福するかのような、どうしようもなく澄み渡っているこの晴れた日に、私は彼に会いに行く。

 

 

 

 雨。雨が降る。雨は嫌いだ。教室の空気もなんだか重たい。だけど彼だけは違う。彼の上だけには雲がないみたい。別段かっこいいという訳でもないし、勉強が特別できるわけでもない。でも、彼はいつも笑ってる。どんな時でも笑ってる。私は彼に恋をした。

 

 

 

 そんな彼が、泣いた。先生に呼び出されて、帰って来ると、彼の目から涙があふれていた。髪が長くてちゃんと見えなかったけど、確かに泣いていた。彼は、そのままカバンをもって教室を出た。

 

「早退かな?」

 

と、隣の子が話しかけてきた。私は特に何も口にせず、首を傾げた。

 

 次の日、彼は学校には来なかった。何かあったのは間違いないが、やっぱり気がかりだ

 

「早く学校に来てほしいな……」

 

 思わず呟いたそのひと言は、教室の話し声や笑い声に揉み消された。

 

 次の日も、その次の日も彼は学校を休んだ。そして終業式の日、教室に彼の姿はなかったが、帰り道のコンビニに立ち寄ると、彼にばったり出くわしてしまった。ふと彼の名前を呼ぶと、彼はこちらを一目見て、奥の棚の方に行ってしまった。話を聞きたいけど、なんて言えばいいか分からない。私がおにぎりのコーナーに行くと、彼の足音はレジに向かった。さすがに踏み込んではいけないかな、と思ったので話しかけるための努力はやめた。おにぎりとチキンを買い、コンビニの外に出ると、目の前にある交差点で彼が信号を待っていた。

 

「小野田くん……」

 

 言っちゃった。言わないつもりだったのに。

 

「おう」

 

 彼の声はいつも通りだったけど、どこか寂しく聞こえた。

 

「どうしたの? 何かあった?」

 

 とりあえず聞いてみた。力になりたい、そう思った。

 

「別に、何も」

 

「――――そっか。ごめんね」

 

 何も聞けなかった。信号が青に変わると、彼は速足で家の方に帰っていった。

 

 私は家に戻ると、仏壇に向かって手を合わせた。お父さんとお母さんに、ただいまの挨拶をして、二階でテレビを見ているおばあちゃんにもただいま、と声をかけた。

 

「今日は天気がいいし、散歩にでも行きたい気分ねぇ」

 

 祖母はゆっくりとした口調で言った。

 

「そうね。行く?」

 

 気を利かせて言ったつもりだったけど、祖母は

 

「でも腰が痛いし、やっぱりいいよ」とだけ言って、テレビのリモコンを手に取った。

 

 リビングでさっき買ったおにぎりとチキンが入ったビニール袋を開けると、以前の彼の優しい笑顔を思い出した。次に会った時、必ず事情を聞こう。そう決意した。

 

 

 

 暑い。ほんとにまだ春? そう思わずにはいられない。春課題に手を出す気力も湧かない。おばあちゃんは、今日はお出かけしてるから、お昼はコンビニ弁当でいいや。そう思ってコンビニへ向かう坂を下りた先に、彼が立っていた。信号待ちだった。勇気を出して、声をかけた。

 

「小野田くん」

 

「おう」

 

 前と変わらない口調で返してきた。

 

「課題、やってる?」

 

「いや、もらってない」

 

 もらってない、という返事に私は、あちゃー、と思った。そうだ、彼は終業式来てないから課題持ってないんだった。やっちまった。

 

「あ、そうだったね。ごめん」

 

「いや、いいよ」

 

 いつもならここで微笑んでくれるはずなのにな。

 

「何かあったんだよね? 私で良かったら、話聞くよ?」

 

 しばらくして、彼が口を開けた。

 

「お前の両親ってさ、交通事故で亡くなったんだよな」

 

「……そうだよ――――」

 

 十二年前。同じ職場に向かう途中、バイパスで事故に巻き込まれたんだ。当時の記憶はあまりない。今はおばあちゃんと二人で暮らしてる。

 

「ごめんな、急に」

 

「平気だよ」

 

 実はちょっと落ち込んだけど、大したことではなかった。

 

「自殺したんだ」

 

 ドキッとした。自殺? 誰が? 彼のそのひと言に、私は驚きを隠せなかった。

 

「三月一日、おばあちゃんが発見して、学校に連絡してくれた」

 

「――――」

 

「突然だった。頭が真っ白になった。何度も死のうと思った」

 

 何も言えなかった。しばらく沈黙が続くと、信号が青になった。彼は歩き出したが、私は動けなかった。彼はどんな思いで今を過ごしているんだろう。考えても考えても、彼の心に空いた穴の大きさは計り知れなかった。とりあえずその日は、折り返して家に帰った。気がする。

 

 

 

 桜が咲く季節になった。風に吹かれて、花びらが舞う。しかし夕方の風は冷たく、慌ただしい季節だ。まるで恋をしてるみたいだ。彼に会いたい。この胸のざわめきを、鎮めたい。

 

 公園で一人、ブランコに座ってこんな風に物思いに耽っていたことは、きっと誰も知らない。両親が生きていたら、私がこんなにも彼の事を考えることはなかったはずだ。そこに小学生たちがボールをもって公園に遊びに来たので、私は逃げるようにして家に帰った。

 

 その日は春期講習だったので、十八時過ぎに自転車に乗って家を出た。夜風に向かって坂を下る気分は、「青春」そのものだった。彼の事で頭がいっぱいだったので、授業はろくに受けてない。なんとか授業が終わり家に帰ると、おばあちゃんが外で車を見送っていた。

 

「誰か来てたの?」

 

と尋ねると、どうやら彼が家に来ていたらしい。話によれば、彼は来週この街を離れて、東京へ引越しするらしい。そのお別れを言いに、私を訪ねたのだという。彼はおばあちゃんと少し話したらしく、そのことについて色々聞いた。

 

 彼の両親は、彼が幼いころに離婚したようで、母親は女手一つで育ててくれていたらしい。彼が中学に上がるころ、母親に彼氏ができ、四・五年付き合っていたようだ。しかし、つい最近、その相手の男性が詐欺師であることが分かったらしく、そのショックで自殺したみたいだ。

 

 私、彼に何も言えてない。本当の気持ちをまだ何も伝えられてない。彼の笑顔を、もう一度見たい。

 

 

 

 始業式の日。これまでにないほど晴れた日。気温も最高。気分も爽快。なんていい日なんだろう。でも、彼はいない。ちょっと早めに来ちゃったから、教室には人はいなかった。彼が最後に座っていた席に近づく。もう少し話していたら良かった。初めから仲が良かったら、この気持ちを伝えられたかもしれない。

 

 そんな事を考えているうちに、クラスメイトが続々と教室に入ってきた。集合時間にチャイムが鳴ると、旧担任の先生が入ってきた。朝の挨拶をし、着席すると、先生が口を開いた。

 

「三学期の終わりに欠席を重ねていた小野田だが――――」

 

 教室が静まり返った。

 

「亡くなった」

 

 突然の知らせに、周りの音が聞こえなくなった。嘘だ。そんなの嘘だ。きっと何かの間違いだ。あんなに優しかった彼が……自殺? 先生が何か話をしているようだが、何も頭に入ってこない。目の前が真っ暗になった。

 

 

 

 気が付くと、保健室のベッドで寝ていた。先生が心配そうな顔でこちらを見ている。

 

「気が付いたようだね」

 

 先生が言う。どうやら、貧血で気を失ってしまっていたらしい。時計の針は十一時を指していた。ちょっと頭が痛かったけど、何とか起き上がって歩くことはできたので、今日は早退して学校を出た。

 

 ふと思い出した。彼は、本当に死んだのか。帰り道、近くの海岸に寄った。靴を脱いで、浜辺を歩いた。気温は高かったけど、さすがに海水は冷たかった。海の向こうで、彼が呼んでいる気がした。別に声が聞こえた訳ではないけど。

 

 

 

 まるで私を祝福するかのような、どうしようもなく澄み渡っているこの晴れた日に、私は彼に会いに行く。