新葉しあ
卯月の候。
鮮麗な桜の花弁が無数に宙を舞う、麗らかな春の日だった。
田舎の高校特有の無駄に蕩然とした中庭の端の桜群、その中央にあるただ一つ異彩を放つ巨大な枝垂桜の下にレジャーシートで広々と領土を確保する。そしてその上に腰を下ろした。
他に観桜の集団は見当たらない。何処からか入り込んだ猫だけが、校舎の影の当たらないところで日向ぼっこを楽しんでいる。
春休みということもあって、グラウンドからの野球の音と屋上のトランペットの音色、そして桜の下の作業音以外の音はなく、彼女の好きだった高校生の勝手気ままな放談は、素敵な背景音楽として働きそうにない。これならば夜に学校に忍び込んででもいれば風情があって良かったかもしれないと後悔の念は消せないが、まぁいいだろう。
まだ少し冷たい春風を肌で感じながら、目を閉じる。チャイムが鳴り響き、十四時を辺りに知らせる。
「準備終わったぞ、津崎」と準備完了を知らせる影内に「了解」と端的に返す。
桜の枝に掛けられた真っ白いスクリーン。もし教員に見つかれば呼び出されるのは間違いないだろうが、そんなことは知ったことではない。
このまま時が経てば、こうして一緒にいる俺達も、各々が別々の大学へ進学し、顔を合わせる回数も減り、高校生活を共にした記憶も薄れていくことだろう。
それでも俺たちは忘れない。
俺達の代。この映画研究会最後の代の今は亡き、もう一人の部員のことを。
「じゃあ始めようか、最後の部活動を。鑑賞会を」
※※※
「ねぇ、あんたたち、映画作らないの?」
と、霜月の緩やかな斜陽が教室に差し込む中、手元の本に目を落としたまま伊川が尋ねた。俺は影内が何かしら言うだろうと思って黙っていたが、向こうも同じ考えだったようだ。こちらをちらちらと見るが、何も喋ろうとしない。仕方がないから、目を伏せながら俺は返した。
「作らないだろ」
彼女は顔を上げて再度質問を口にした。
「何で作らないの?」
「いや、作らないだろ。文化祭はもう終わった。発表の機会はない。それにもう十一月だ。いくら俺たちがそんなに頭が良くなくて、適当な大学に進学するからと言ってもそろそろ勉強はしないと行けない時期だ。今から作るなんて時間がないだろ」
伊川は読んでいた本を閉じ、悲しそうな顔して、
「でも、あんな話を聞いて、二人は悲しくないの?」
「悲しくないわけないだろ」と否定したのは俺ではなく影内だった。
あんな話、というのは、俺たちの所属しているこの映画研究会がこの代いっぱいで廃会となるということだ。うちの高校では部活動は十名以上、同好会は五名以上の人員がいないとその活動を認められないのである。三年に上がってすぐに所属していた同好会員が二人脱退し、今の会員は俺、影内、伊川の三人のみ。いつ廃会になってもおかしくなかったのだ。会員が五人を下回ったと同時に廃会にされなかっただけ、高校側も寛大な処置を取ってくれたと言えるだろう。
影内は続けた。
「悲しいに決まってる。けど、津崎の言ってることの方が正しいよ。映画が作りたいなら、受験が終わってから──卒業してからまた集まって制作すればいい」
「それだったら、もう映画研究会じゃないじゃない!」と声を荒らげる伊川。
しかし、それも仕方がないことだろう。一体どこに受験期真っ只中に映画製作に勤しんでいる高校三年生がいるだろうか。と言うか、それ以前にそもそも──
「三人だけじゃ映画は作れないだろ」
「文化祭放映用のは作れたじゃない! ちゃんと上手いことしたら作れる!!」
「絶対に三人以上画面に映れない、あれのどこが映画だよ。あんな物は映画研究会始まって以来の駄作だ。演劇部と違って、演じる練習もせず、そろそろ撮り始めないと間に合わないとかそんな理由でカメラを回す。そんな物を映画と言っていいはずがない。それに──」「──おい、津崎、流石に言い過ぎだ」
気付けば体が熱くなっていた。そしてそれも急速に冷めていく。
流石に言い過ぎた。分かっている。そんなことは理解している。けれど、謝罪の言葉は喉の奥に突っかかって出てこない。間違ったことは言ってないと、どこかで意固地になっている自分がいる。
「もういいよ!! !! !!」
と痺れを切らして叫んだ伊川は、自分の荷物を掴み、靴をカッカと鳴らして教室から出ていってしまった。目尻には涙が滲んでいた。
教室に、俺と影内と、何とも言えない気不味さだけが残される。
今すぐにでも教室から飛び出して謝りに行きたい思いはある。しかし、その資格が俺にはない。
暖かくない斜陽が頬を刺す。時計の音は、止まっているかのように緩徐だ。
「明日、ちゃんと向かい合って謝罪しろよ」
背後から溜め息混じりに優しい言葉が掛けられる。
俺は「……ああ」と呟くしかなかった。
※※※
次の日、伊川は学校を休んだ。
今まで皆勤賞だった彼女が学校に来なかった。
十中八九、昨日のことが尾を引いているのだろう。
明日になれば、不機嫌ながらも元気な姿を見せることだろう。
そうすればまた仲を戻せると、この時はまだそう思っていた。
思っていた。
だから──。
「非常に悲しいことに、四組の伊川優香さんが交通事故でお亡くなりになりました」
などという言葉が次の日の臨時集会で学年主任の先生から発せられてもその場で信じることが出来なかった。黙祷を捧げながら、ドッキリか何かではないかと考えていさえした。
しかし、それは嘘でもなければドッキリでもなく、冷徹な形而下の現実であった。
集会の後、クラス担任に呼び出された。
伊川の親が俺と会うことを所望しているらしい。喧嘩のことだろうか。お前のせいで彼女が死んだと泣き叫ばれるのだろうか。
何でもよかった。魂の入っていない抜け殻のようなこの俺に怒鳴るくらいで報われない彼女の親の心が晴れはしないにせよ少しでもスッキリするというのならば、罵詈雑言暴力の嵐すら受け入れよう。
そう覚悟をして、担任に連れてこられた場所は相談室。教室の扉より重厚な扉を潜ると、四十代半ば程の窶れた、けれど目元に伊川の面影がある女性が一人座っていた。
「こんにちは。津崎……さんですね? 優香の母です」
立ち上がってそう名乗った婦人の声は、明らかに弱々しい。
「今日は、これを渡しに来ました。読んでみてください」
と言って婦人が俺に差し出したのは一冊の分厚い日記帳だった。受け取り、開いて眺めると、伊川の独特な丸文字で日記が綴られていた。
「最後のページを見てみてください」
そう促されて最後に書かれたページを開く。そこにはこう認められた。
十一月十六日
今日は津崎と喧嘩をした。あいつは、あろうことか映画を作らないだけじゃなく、あたしたちが作った映画をコケにした。あたしたち三人で作ったあの映画は、どんな内容でも、あたしたちの中では最後の映画のはずだ。それをあいつは否定したんだ。もうあたしは怒った。ちょっとの間は許してやるもんか。そうしたらあいつも反省するだろう。あいつから言ってくるなら、一緒に映画を撮ってやらんでもない。
脳味噌を直接殴られた気分だった。
読んでいると目頭が熱くなってきた。
俺は本当に何を馬鹿なことをしていたのか。意固地になって、何をしていたのか。
いつの間にか日記を持つ手の力はこれでもかという程強く、紙を大きく歪めていた。
「私はあなたを責めたりしません。恨んだりもしません。喧嘩をしてなかったら、あの娘の心に曇りがなければ、あの娘は死ななかったかもしれない。そう思います。けれどそれだけです」
そう言って婦人は目を閉じた。
「あの、ありがとうございました」
そう言って日記帳を返却しようとしたが、止められた。
「その日記にはあなたともう一人の友人の方のことばかり書かれています。それはもう最初から最後まで。あなたたちが貰ってあげてください」
そうとだけ言い残すと、婦人は荷物を纏め出ていってしまった。その後を見送り、放課後になってから影内を呼び出して、一緒になって日記帳を読んだ。
何度も何度も、視線で破けそうになるほど読んだ。
※※※
「なぁ、影内。映画を作ろう」
「よし、やるか」
「タイトルは俺に決めさせてくれないか。あいつの好きだった、あの中庭の紅色の枝垂桜を使って。『拝啓、紅色の桜の下より』」