臆病者の共有者

 

 れれれ

 

 

 

「葉山くんってほんとに優しいよね。私だったらそんな風に人に優しくできないよ、すごい、憧れる、尊敬する!」

 

 もうほんと仏様みたいだよね、いや仏様を実際に見たことないんだけどさ、と零す少女、満島愛理。自分の信念のままに――悪く言ってしまえば自分勝手に行動するせいで、クラスでは疎まれている、そんな存在だ。俺はそんな彼女に気に入られたのか、放課後に俺の座っている前の席に陣取って絡まれるのが当たり前になっているし、今日もまたそうである。

 

「アルトリコーダーがでかくて、持っていくのが邪魔」と言って、音楽の時間に一人ソプラノリコーダーを吹いていたのは一昨日のこと。まだ記憶に新しい。

 

 さっきまでだって、本を読んでいる俺が文を読む隙も与えずに話しかけてきたり、「ねえねえ、これ見てよ」と携帯を差し出したりしていた。満島のことは嫌いなわけではないけど、続編を楽しみにしていた本だから、ちょっと大人しくしていてもらいたいところでもある。彼女にバレないよう、そっとため息をついた。

 

「光栄だな。でも俺はそんな大したもんじゃないよ、ましてや仏様なんてね」

 

 彼女なら褒められた時、「そうでしょ、私すごいでしょー!」と自信満々に言うだろうな、と容易く光景が思い浮かぶことに軽く笑いがこぼれる。いつの間に、脳内で相手を動かせるほどに親しくなっていたのだろうか。

 

「ええ、謙遜しなくていいよ? え、謙遜じゃない? つまり自信がないんだね? ではこの私がここに断言しよう、君はすごい!」

 

 満面の笑みで言い放った。眩しいぐらいにいい笑顔だ。

 

 ありがとう、と俺も笑顔で応える。くすぐられているような、困ったような笑顔になっているように思う。

 

「俺は君の方がすごいと思うけどなぁ」

 

「なぜ?」

 

「堂々と遅刻してきたり、授業中も平気で飯食ったりする図太いところ」

 

「だってあのとき、眠かったしお腹減ってたんだよ」

 

 ムッとしている彼女を置いて席を立つ。一緒にいると、自分の臆病さを嫌でも自覚して苦しかった。他者に悪く思われるのが怖い俺と信念のままに動く彼女とでは、あまりに違いすぎる。眩しいぐらい憧れているのは俺の方だというのに。

 

 ねえ待ってよ、という縋るような声を無視して廊下へと飛び出した。階段を降りる直前に後ろを振り返ると、さっきいた教室だけから薄暗い廊下へと光が漏れていた。なんだかこれが己に相応しい状況のような気がした。心にどす黒いような感情が湧き出てくるのを感じて、あわてて考えるのをやめた。

 

 

 

 薄暗い部屋の中で本を読むのはよくないとわかっているけど、明るいところにいるのが心苦しかった。高い本棚に囲まれて、たくさんの本の気配を感じて、誰からも見えない暗さのところで平穏を感じていたい。まるでゴキブリのようだな、と自嘲する。

 

 昔から本に囲まれていたから、古い友人と共にいるような安心感を覚えた。

 

 本を読むというのは、他者の視点を獲得することだ。もちろん、本を多く読めば読むほど、その数は多くなる。幼い頃から山ほど本を読んだせいで、客観的に自分がどう思われているのかもわかってしまった。

 

 嫌なやつだと思われたくない、嫌われたくない。誰にも愛されるような人になりたい。そんな臆病な心が俺のすべてで、こんな自分がとても嫌いだ。無駄に相手の気持ちがわかってしまう。

 

「あぁもう、なんで俺はいつまで経ってもこんな……」

 

 止まるのが怖くて、走るのをやめることができない。毎日、自己嫌悪の環状線を走って走って、今日もまた止まることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「なあ葉山、宿題見せて~」

 

「おいおい、『次からはちゃんとやってくるから』と言って俺のを写してたのは誰だったかな?」

 

「俺だね! やるつもりだったけど寝落ちしちゃったんだって~。なんだかんだ言いつつ見せてくれる葉山様サイコー」

 

 今度こそ家でやってこいよ、と念押ししてからプリントを渡す。死体に群がるハエのごとく、プリントには宿題をやっていないやつらが集まっていく。昨日の俺の、眠たい目を擦りながらの三十分の努力は、彼らの休み時間の五分と同価値と言われているようで、どうも見ていられなかった。

 

「あ、そうだ。明日の放課後って空いてる? どっか遊びにいかない?」

 

 群れの中から、先程プリントを借りに来た田崎が顔を出す。生憎だが、明日は塾があったはずだ。角の立たない返事を。

 

「すまない、明日は塾があって行けないんだ。毎週木曜なら空いてるから、また誘ってくれよ」

 

 断る理由、また誘って欲しいという、相手を嫌っていないアピール。完璧な受け答えだ。

 

「そうかー、じゃあまた他のやつあたるわ」

 

 あっさりと引き下がる田崎。もうちょっと雑でも良かったかな、いや、万が一ということもあるし、丁寧な受け答えをしておいて損は無い。

 

 ちらりと逆方向に目をやると、一人で黙々とトランプタワーを作っている満島がいた。換気のために窓が空いているから、風のせいで完成することがないというのに、ずいぶんと時間の無駄なことをする。馬鹿なやつ。そう思いながらも、視線を外せない。

 

「葉山くん、ちょっといい? この問題わからないから教えて欲しいんだけど」

 

「いいよ、どれ?」

 

 あとちょっとで解けそうだったワークを机の端へと追いやり、新たに数学の教科書を招く。

 

「ああ、この問題は端に書いてるこの公式に、問題文に書いてある値を代入するだけで出てくるよ。やってごらん」

 

 うーん、と唸りながら問題を解いている隙に、休み時間の終わりまで彼女を観察していた。

 

 結局、彼女はタワーを完成させることはなかった。

 

 

 

 

 

 この前突き放したように別れたというのに、彼女は何事も無かったかのように、いつも通り絡んでくる。

 

「今日は誰の本を読んでるの? 前に言ってたナントカ博士が書いたやつ?」

 

「ナントカ博士って……ホーキング博士な。まあ今日は全然違う人の本さ」

 

 ふーん? と言っているが、明日に聞いたら誰? などとのたまって忘れていそうな様子だ。

 

「どんな話なの? 今度はまた宇宙の難しい話だったりしないよね」

 

「憧れと愛を履き違えた馬鹿な人間の話。なかなか面白いよ」

 

 まるで自分を見てるみたいで滑稽。ということまでは口にしなかった。そう、俺は彼女に憧れている。これは恋とか愛みたいな大層な感情なんかじゃない。

 

 恋をしている自分が想像できなくてむず痒く、そんなわけがないだろうと否定する。

 

 そんなのが面白いんだ、よくわかんないな。

 

 そうつぶやく彼女だって、懐きと憧れを履き違えてるんじゃないのか。皮肉を言おうとしたけど、いざ彼女の顔を見ると言えなくなった。

 

 どうしたらいいかわからなくなって彼女を見つめた。以前より日が落ちるのが早くなり、太陽は何も考えていないであろう横顔を凛々しく写す。

 

「私って他の子には嫌われて避けられてるんだけどさ」

 

「よく知ってる」

 

 突然語り始める彼女に、脊髄反射で返事をする。彼女に対してはどんな返事でもいい気がした。下らない甘えだ。

 

「葉山くんは普通に接してくれるよね。腫れ物を触るように、じゃなくて本当に普通に。すごく嬉しい」

 

「いや、俺は普通には接してなんて――」

 

 俺の「普通に接する」とは、田崎へ接するように角の立たない返事を頭の中でぐるぐる考え、口に出すこと。彼女へは何も考えることをせず、思ったままの返事をしていた。

 

「みんなに対しての態度がおかしいだけだよ、ずっと顔色伺ってばかりだもの。それは普通って言わない!」

 

 ああ、見抜かれていたか。よく動く、ただのアホの子かと思えばそうでもなかったらしい。はあ、とわざとらしく大きなため息をつく。なお答えを求めるように見る満島へ、バツが悪そうに目をそらしながらぼそぼそと言った。

 

「お前はそうやって、人からどう思われるか、よく思われたいなんて打算がないからそう言えるんだよ。度胸のあるやつにはわかりやしないさ。お前の憧れた優しい俺なんてただの幻で。人からの悪意が怖い、ただの臆病者なんだよ、俺は」

 

 何を隠しても見抜くような真っ直ぐな瞳で、また見つめられているのを感じる。

 

 蔑むわけでもなく、憐れむわけでもなく、ただじっと見据えている。

 

 じゃあ、と彼女が沈黙を押しのけた。

 

「私のことをよく見てたのは、私みたいになりたかったから?」

 

「いや、そんなんじゃない」

 

「正直になってよ」

 

 むすっとした顔で言われた。

 

「そんなに見てない! そっちの気のせいだろう」

 

 慌てすぎて少し早口になっていたかもしれない。これ以上詮索される前になんとかして逃げたいところだ。

 

「前からただいい人じゃないってことはわかってたよ。でも、理由のない優しさより『いい人と思われたい』っていう動機がある優しさの方が納得できるし、葉山くんが負い目みたいなのを感じて言うほど悪いことじゃないんだから」

 

 でも、疲れるでしょ? だから……と、彼女は一息ついて間を置く。相変わらずこちらを見つめる瞳に陰りはない。得体の知れない恐ろしさのようなものを感じながら「だからなんだ?」と続きを促した。

 

「ずっと誰かの顔色を伺ってちゃ疲れるでしょ? 私と一緒の時には普通に話せるみたいだから、いわゆる……共有者? というやつにならない?」

 

 なぜその提案をされているのかわからなくて硬直する。

 

「私は葉山くんのことが好きだからね、できたら楽な姿でいてほしいんだよ。そして私も、できることなら私のことを嫌ってない人と一緒にいたいんだよ。全くもって他人に無関心ってわけじゃないし」

 

 はぁ、とため息をついて項垂れた。最近はため息ばかりついている気がする。ため息をつく度に幸せが逃げているとしたら、俺は一生分の幸せの三割ほどを空気中に出しているかもしれない。ちらりと顔を上げると、顔を下げてまた上げた一連の動作を頷きとみなしたのか、満足げに微笑んでいる満島がいた。

 

「これからもよろしく、『共有者』!」

 

 言葉と同時に差し出された右手。観念して握りしめた彼女の手は、温かかった。

 

 

 

 

 

 今日の放課後の教室はとてもうるさい。田崎くんが他のクラスの友達とたむろっているからだ。本を読むふりをしながら、聞き耳をたてる。話題が話題だから、別に私が聞いたって問題ないはずだ。

 

「葉山と満島さ、最近ずっと一緒にいるよなあ、実は付き合ってたりしてな~」

 

 あの真面目な葉山がそれはないだろう、と他の生徒が笑う。実際その通りだ。だって、あのとき「恋人になろう」なんて提案をしていたら断られただろうし、共有者だって合意したことにさせて無理やり結んだ関係だし。

 

「誰が誰と付き合ってるって? それはないぞ、変なウワサをたてるなよ」

 

「げっ、本人が来た」

 

 本人降臨。気まずそうに田崎くんが頭をかいている。

 

「満島、行こう」

 

「うん!」

 

 うるさい教室から離れて、さっさと歩き始める。教室を出れば「絶対付き合ってるだろあれは……」というつぶやきが聞こえてきた。隣にちらっと目をやると、葉山くんは苛立ちを隠さずに「ンなわけないだろ」とぼやいていた。ふふふ、と笑いが漏れたのがバレて、じろりと睨まれる。

 

「こわいこわい、まあ確かに付き合ってはないものね」

 

「そうだよ、ほんと勘弁してほしいもんだ」

 

 誤解が嫌ならこの関係を解消すればいいだけなのに、かれこれ三か月ほどこの関係は続いている。満更でもない彼の様子を見て、心が満たされていくような気がした。

 

 彼はきっと知らないだろうな。「共有者」と呼ばれる役割が、別名「恋人」と呼ばれるものだということは。

 

「歩くのが遅いぞ」

 

「ごめんごめん、まあ足の長さが違うから仕方ない!」

 

 まったく、と口では言っているけど、そんなに怒ってないじゃないか。口にしたらまた睨まれるので、そっと心にしまっておく。

 

 まだしばらくは、共有者のままでもいいかもしれない、と思う自分がいた。