い物

布団

 

 最近よく夢を見る。ジャングルの奥地で、うごうごしてる黒いものが見える。それの周りは腐ったもので埋まっていて、汚かった。それはゆっくりだけれど、それでもどこかへ向かってひたすら動き続ける。何かを探してるようにも見えるし、どこかへひたすら突き進んでいるようにも見える。僕はそれをただただ、見ている。

 

 

 今日も代り映えのしない一日だった。会社へ行き、書類を片付け、同僚と昼食を取る。

「なあ、俺、最近変な夢見るんだ」

「変な夢?」

 同僚は怪訝そうな顔をしてこちらを向く。

「ああ、変なんだ。小さい頃の俺が、ジャングルで何かを見てるんだ」

「何かってなんだよ」

「……」

 俺は言い淀んだ。あれをなんと表現すればよいのだろうか。あの禍々しくも哀れで間抜けな生き物を。考えるだけで胸がどす黒いものに支配されるような禍々しいあいつは、今日も夢に出てくるのだろうか。

「まあ、なんだ。無理はするなよ」

 同僚は俺が疲れているのだと思ったようだ。少し心配そうな顔でこちらを見ていた。

「ああ、ありがとうな」

 それで、この話は終わった。

 

 

 家に帰って眠りにつくと、またあいつが夢に出てきた。僕はやっぱりいつものように黙ってみているだけだ。俺はもどかしかった。何かしろよ。そう念じても僕は動かない。やがて俺は諦めて、じっと見ていた。

 あいつは、また少し前回よりも速く動いていた。けれど、それでもゆっくりには違いない速さだ。あいつはどこかへ向かって動いていた。俺と僕はそいつの後についていく。そいつの通った後は、腐った何かで満ち満ちていた。けれど僕はお構いなしにあいつの後についていく。俺も遅れないようについていった。ひたすら歩いた。けれど、どこまでたっても周囲の景色は変わり映えしない。やがて、夢との別れの時間が来た。

 

 

 ビル五階のせわしない午後。

「先輩、電話ですよ」

 直属の後輩が、俺に話しかけてきた。

「ありがとう。繋いでくれ」

 面倒事じゃなけりゃいいがな……と思いつつ受話器を取ると、回線の向こう側から切羽詰まった声が聞こえてきた。

「あの、心木様でしょうか。私、都立三島病院の飯田と申します。奥様が危篤です。至急、病院にいらしてください」

「え……」

 目の前が暗くなった。これが世に言う眼前暗黒感か、と頭の片隅で考える。その後はなんだか騒がしかったが、よく覚えていない。

 

 

 病院につくと、医者の説明を受けた。曰く、命に別状はないが、手術の必要があるそうだ。俺は不安感と絶望感に襲われた、という訳ではなく、何も感じなかった。命に別状がないというのもあるだろうが、それにしてもだ。タクシーに乗って病院に来るまでの僅かな間に、焦りや不安はさっぱり綺麗に消えていた。俺はこんなに冷たい人間だったのだろうか。妻のことは愛しているはずだ。けれど、なぜ。それでも、不安が湧かないことへの不安すら湧かない。

 ふと思い出した。中学の頃もそうだった。友人が目の前で車に轢かれた時だ。周りの他の友人たちはあまりに突然で衝撃の出来事に硬直し、しばらくして泣き出したのだが、あの頃の俺は平気だった。救急車と警察を呼んで、焦る友達をなだめた記憶がある。俺は、俺という人間がわからなくなった。大きすぎるショックを受けるべき場面では、いつも何も、感じなかった。こんな冷たいやつだったのだろうか。


周りの人間は俺のことを優しいだとか穏やかだとか言うが、冷たいのではないだろうか。

 それでもなお、何の感慨も湧いてこなかった。

 

 

 その夜も夢を見た。あいつの夢だ。あいつは昨日よりもかなり動きが速くなっていた。うごうごと君の悪い動きで、彷徨っているような進んでいるような、よく分からなかった。僕は相変わらず黙ってみている。けれど、俺はもうこらえきれなくなった。

「なあ、お前は何なんだ。なぜ俺の夢に出て……」

 俺は何も言えなくなった。あいつの目を、初めて見た。漆黒で光がなかった。絶望と不安で満ち満ちていた。悲しみに満ち溢れていた。

 俺は気付いた。俺はこいつを見たことがある。

「ああ、そうか……」

 

 小さい頃、それこそ小学校低学年くらいの頃だ。俺は母親に怒鳴られひどく傷つき、家から飛び出したことがある。その頃の俺は尋常じゃなく周りのことに過敏で、何かあるとすぐに泣いていた。そうして、いつものように過敏に傷ついた俺は、母親がいる家から飛び出し、近所の山に走って逃げた。

 山の中をひたすら、泣きながら走って転んでまた走って、としているうちに、よく分からないところへ出た。そこには小さな池があった。周りの草木はみずみずしく、時折咲いている花が愛おしかった。けれどそこは日本ではなかった。見たこともない草木が辺り一面に生い茂っている。小学生の僕には分からなかったが、今から思えば南アメリカあたりに似ていたと思う。そんな場所だった。

 その池の中から、白いワニが出てきた。僕は驚いて、尻餅をついた。ワニはじっと僕の目を見つめてくる。僕も半ば呆然として見つめ返していた。しばらく僕を見つめたあと、ワニは僕に近づいてきた。そうして、なんと、ワニはぱくりと僕の頭を食べた。

 

 目が覚めたら、天井が見えた。一瞬どこだか分からなかったが、少ししてこれは自分の家だと気づいた。僕は食べられたはずだった。何が起こったかよく分からない。だから、僕はこれを夢だと思うようにした。けれど夢にしては妙にリアルだった。



 

 

 そしてそれ以降、俺は傷つかなくなった。不安にならなくなった。悲しくならなくなった。あの時は特に不思議にも思わなかったが、今ならわかる。これがどういうことか。

 

 

 

 

 

 俺は、真っ黒い禍々しいあいつをじっと見つめた。そして、こう言った。

 

「ずっと一人でありがとう。もう、いいよ」

 

 あいつはこっちをじっと見てきた。あいつのすると目から一筋、雫が流れ落ちた。汚いあいつの中で、唯一綺麗な雫だった。

 

 

 

 

 

 それ以降、俺はあいつの夢を見なくなった。

 今、俺は胸の痛みに耐えている。これが消えるのは何年後だろうか。二十年も溜めていたのだ、長くかかるだろう。けれど、あいつが請け負ってくれていた時間に俺は成長したはずだ。それに、消えてしまったとしてもあいつは心の中にいた。それで十分心強かった。