波天才の本当の話

うすらい

 

 君波天才を知ってるか? おぞましい奴なんだ。

 

 普通の家庭に生まれ、普通の家庭に育ち、それでいてどこにも生きものらしさがない。入試の点はオール百点だったそうだ。中学のときは男子バレー部で、奴が二年連続エースだったその部は全国大会で二度も優勝したそうだ。完全を辿るために生まれたひと。模範を体現するひと。きっと将来はいい企業に就職して……いや、起業するかもしれないな。とにかく成功するんだ。それで美人で気立てのいい優しい女の人と結婚して、親にかわいい孫の顔を見せてやって、何不自由ない暮らしをして、死ぬときには何十人、何百人という人間に惜しまれて大往生するひと。

 

 そして、俺の好きだったひと。

 

 

 

「そこはまずkを基準に降べきの順で整理してみて」

 

 蒼いあわい静脈の透き通る手の甲の、白いうすい皮膚が、西寄りの日差しを跳ね返して、白い貝がらの奥底に秘められたアゲートのようにまばゆくひかった。

 

 あんまり眩しいので指さされたノートの解きかけた問題なぞは真司郎の目に入らなかった。関節や爪の生え際にほんのり赤が差すのさえ、痛々しくぐずぐずと官能すら漂う傷口のようであった。簡単にへし折れそうな指だ、と真司郎は思う。

 

「……大丈夫?」

 

 一瞬何を言われたのかわからなかった。音楽のような声だった。どこまでも心地が良い声だった。向かい合わせの前の席から伸ばされた腕をむんずと掴んでいる自分にはっと気づいた。

 

 小首を傾ぐ彼の前髪がはらと左に揺れた。墨を引いたように形の好い眉が覗いた。その下の切れ長な瞼から覗く眼は当惑した視線をこちらに向けていた。真司郎は慌てて彼の手を離してやった。

 

「や、ごめんごめん、ぼーっとしてた。悪いな、せっかく教えてくれてるのに……」

 

「いいんだよ。疲れたなら今日はもうやめておく?」

 

 惚れ惚れするくらい一切の利己を含まない声だった。この声にこめられた感情の中に彼の意志だとか欲求だとかは一切なく、すべてが目の前の真司郎のためにある。いつもそうだ。誰に対してもそうなのだ。利他の精神が彼の唯一の動機らしかった。十年来の幼馴染としては悲しく感じないでもなかったが、それ以上にその行き過ぎた利他を尊敬していた。

 

「そうするかな……」

 

「じゃあ、帰ろうか」

 

 椅子を引く音に彼の人間らしさを、意志を、探してみるがみつからなかった。それでこそ彼だ。毎回、神か魔かと疑い願う真司郎に、小さな造作の端々から浮かみ出る人ならざるものの気配をもって応えてくれる。

 

 普段ならもう少し問題の数をこなして帰るところだったが、今日はどうにもそんな気になれなかった。真司郎には、心に決めた今日すべきことがあった。

 

 告白だ。

 

 窓は開いていた。午後の生ぬるい、うすべにいろをした日差しが差している。黄色いカーテンが風をはらんで膨れていた。向かい合わせた机二つ分の距離。環境は整っている。整い過ぎている。浅く息を吸う。これは懺悔だ。

 

「なぁ」

 

 参考書を鞄に入れていた彼が振り返った。目を上げた。白磁の頬を濡らしていた睫毛の影がやや引いた。

 

 目の前の彼は何も言わなかった。ただ黙って薄く笑みを浮かべていた。切れ長な瞼の奥で、瞳が抑えがたい感情を御すように震えていた。

 

 感情?

 

「聞いてほしいことがある」

 

 君波天才。孤高のひと。完全でいるために生まれてきたひと。

 

 真司郎は無視した。その黒く大きな瞳が期待で輝いているのを無視した。

 

「お前のことが好きだ」

 

 言ってしまった。

 

 時間が止まった気がした。真司郎は探るように、目の前のひとの眼を覗き見た。そして安心した。先ほどちらついた感情の火はくすぶる煙さえなく、彼の目は穏やかだった。そうだ。それでいいんだ。この懺悔をどうか優しく戒めてほしい。お前は美人で気立てのいい優しい女の人と結婚して、親にかわいい孫の顔を見せてやって、何不自由ない暮らしをして、死ぬときには何十人、何百人という人間に惜しまれて大往生するひとなんだ。

 

 彼は口を開いた。

 

「ありがとう、でも、ごめんね」

 

 その気遣わしげな声のなんと心地よかったことだろう。胸の中に温かいものが広がってゆく感じがする。やっぱりそうだ。完全無欠の君波天才は、振り方だって完璧なのだ。さすがだ。それでこそ俺が好きになったひとだ。

 

「ぼくも真司郎がすきだ」

 

 は?

 

 思考が止まった。我に返って、手指の先が酷く冷えていくのに気づいた。いやだ。そんなはずない。君波天才は男を好きになったりしない。何かの冗談だ。

 

 真司郎は冷や汗をかきかき、ゆっくりと首をもたげた。糊のきいた学ランの、ボタンを辿って、なまっしろい首筋を見た。細い顎を見た。涙の伝う頬をみて、あのひとの眼を見た。

 

「ごめんね」

 

 そう言って、泣きじゃくるのは果たして本当に真司郎のための演技だろうか? いや、そうに違いない。これは真司郎の気持ちに自分が答えられないから、それで泣いているのだ。彼はやはり真司郎を振ってくれたのだ。そうであってほしい。そうでなくてはならない。君波天才はそういうものだ。

 

「ぼくは真司郎がすきなんだっ、でも、そう言うと、嫌な顔をするとおもってっ」

 

 今までに見たことのない感情の奔流に真司郎は戸惑いを隠せなかった。いやだ。やめてくれ。そんなのは君波天才じゃない。俺が好きだった君波天才じゃない。

 

 目の前の気味の悪いそれは袖で頬を伝う涙、君波天才が流す訳のない涙をぬぐい拭い、君波天才と同じ眼で、君波天才と同じ顔で真司郎を見上げていた。

 

「真司郎は、ぼくを、特別凄い奴のように思っているように見えたから、でも」

 

 いやだ。その口でそれ以上言うな。それ以上言ったら。

 

「ぼくは、ただの」

 

 真司郎は拳を握りしめていた。君波天才の顔で。よくもそんなことがほざけたものだ。やめろ。やめろ。やめろ。

 

「ただの、人間だよ」

 

 真司郎は絶叫した。

 

 

 

 馬乗りになってそれの喉元を両の手で押さえつけ、圧迫していることに真司郎は初めて気づいた。

 

 手をそっと引き剥がしてみた。皮膚はほのかな汗の気配で湿っていた。赤い、青い、鬱血のしるしがじくじくとあらわれた。

 

 夜の冷たい外気が頬に触れていた。真司郎は後ろに手をついて天井を仰ぎ見た。それからすっかりやり遂げた気持ちで立ち上がって、辺りをぐるりと見回した。

 

 向こうに椅子が転がっていた。

 

 ふと、それを両手で握って振り上げて、彼を殴り付けたのを思い出す。もんどりうって鼻血を出した彼に馬乗りになって、なまっ白い喉に指をかけたのだった。学ランの腹を膝で押さえると、ひゅう、と空気の抜けるような音がした。彼は何度も嗚咽まじりに咳き込んだ。鼻血を垂れながら、ごめんね、ごめんね、と血の泡を薄くまとった唇で言っていた。それでも絞めた。歯を食い縛った。汗をかいた。手が鼻血で濡れた。嗚咽が嬌声のように聞こえた。さぁっと顔が赤くなって、震えて、青くなって、収まった。それでも。許せなかった。

 

 窓から月明かりが差している。冴え冴えと蒼い月光に、君波天才の白い面差しならばよく映えただろう。けれど、くすんだ色の、奴の顔はどうだ。唇は苦悶に歪んで半開きになり、濁った眼は上向きになって光彩を浮かべている。生にすがりついたひとつの生き物の醜い顔だ。その唇からぬっと舌先がはみ出しているのを目にして、真司郎は露骨に顔をしかめた。

 

 これは君波天才ではない。真司郎が慕い尊敬し恋し愛し固執し信仰した君波天才ではない。彼は死んだ。君波天才ならば真司郎より喧嘩だって強いはずだ。だからこれは君波天才ではない。

 

 真司郎は静かに落ち着いていた。目の前の、今は豚のような顔をしているまがいものを討ち取って、君波天才の仇を取ったような気すらしていた。

 

 これからどうなるか? 真司郎は十六歳だった。その年齢には民法刑法がいかに関わるかを決める役割なぞとうに求められてはいなかった。彼の世界の狭さだけをただただ示す年齢だった。彼の世界は大部分を占める君波天才とちっぽけな彼との間に完成されていた。そして、君波天才は永遠に失われたのだ。大半を失った世界は、それでも世界と言えるだろうか? いや、言えない。言えやしない。

 真司郎は靴を脱いだ。窓のさんに足をかけようとして、月光に目がくらんだ。