波天才の話

うすらい

 

 君波天才って知ってる?

 

 普通の家庭に生まれ、普通の家庭に育ち、それでいてどこにも生きものらしさがない。入試の点はオール百点だったらしい。中学のときは男子バレー部で、彼が二年連続エースだったその部は全国大会で二度も優勝したという。頭脳明晰で文武両道の凄い人。

 

 そして、私の好きな人。

 

 

 

「そこはまずkを基準に降べきの順で整理してみて」

 

 恭子の向かい側に座る彼は、同じ年齢の男子に比べてひどく落ち着いた柔い声音で話す。ぼんやりと聞き惚れてしまっていて、内容が頭に入って来なかった。慌てて彼の指が指し示しているノートの一部分に視線を滑らせるが、何をどう書くべきかわからなくて、恭子はシャープペンの先を少し揺らした。

 

「……大丈夫?」

 

 彼がおそるおそる恭子の顔を覗き込んでくる。恭子は顔が赤くなるのを感じたが、いけない、と首を振った。彼は誰であってもこのように優しくしてくれるひとなのだ。それを勝手に勘違いしては悪い。なんとか勉強を教えてもらうところまではこぎつけたが、それでも、私でなくっても教えてくれたにちがいない。小首を傾げる彼の前髪がはらと左に揺れた。墨を引いたように形の良い眉が覗いた。その下の切れ長な瞼から覗く眼は当惑した視線をこちらに向けていた。

 

「ああ、うん、大丈夫。ごめんなさい、少しぼんやりしていて」

 

「いいんだよ。疲れたなら今日はもうやめておく?」

 

 彼の気遣わしげな声が耳に心地よい。それでも、例えここに誰が座っていても同じように彼が答えたであろうことを想像するとひどく虚しかった。

 

「そう、だね」

 

 いけない。恭子は自分を戒めた。今日こそはなんとしてもやり遂げると決めていることがあった。

 

 告白だ。

 

「じゃあ、帰ろうか」

 

 彼は椅子から立ち上がるところだった。椅子を引く造作にすらやさしさを感じてしまう。

 

 窓は開いていた。午後の生ぬるい、うすべにいろをした日差しが差している。黄色いカーテンが風をはらんで膨れていた。向かい合わせた机二つ分の距離。環境は整っている。整い過ぎている。浅く息を吸う。これは決死の告白だ。

 

「ねぇ」

 

 参考書を鞄に入れていた彼が振り返った。どこまでも澄んだ眼だった。やっぱりすきだ。目の前の彼は何も言わなかった。ただ黙って薄く笑みを浮かべていた。私を待ってくれている。そう感じた。

 

「聞いてほしいことがあるの」

 

 君波天才。孤高のひと。完全でいるために生まれてきたひと。

 

 恭子は見た気がした。その黒く大きな瞳が期待で輝いているのを見た気がしたのだ。

 

「好きです。付き合ってください」

 

 言ってしまった。

 

 時間が止まった気がした。恭子は目を伏せた。顔を見るのが怖かった。黙って、返事を待っていた。時間が幾倍にも感じられた。自分という糸がどこまでも引き伸ばされ、張り詰めてゆくような心地がする。どうか。どうか!

 

 彼は口を開いた。

 

「ありがとう」

 

 その気遣わしげな声のなんと心地よかったことだろう。胸の中に温かいものが広がってゆく感じがする。この後がどう続いたってかまわない。「ごめん」だろうとなんだろうと。それでも。少しは期待してしまう。果たして君波天才は、ここにいるのが誰でも、こんな風に答えただろうか?

 

「ぼくも恭子がすきだ」

 

 恭子、恭子。恭子は普通名詞じゃない。それは紛れもなく、ただ一人に向けられた言葉だった。

 

 恭子はゆっくりと首をもたげた。糊のきいた学ランの、ボタンを辿って、なまっしろい首筋を見た。細い顎を見た。彼の眼を見た。笑っていた。それも、今までによく見た品の好さそうな、大衆向けのこぎれいな笑顔ではない。目をそらしながら、ややはにかんで、照れくさそうにしているその笑顔は、皆が抱く「君波天才像」にはそぐわないものだった。

 

 夢を見ている気さえした。いいのだろうか。こんな。

 

「ほんとう?」

 

「本当、本当だよ」

 

 初めて目が合った。きっといまい。他にこんな目を向けられた人はいまい。今までに見たことのない彼の表情に恭子は茫然としていたが、やがて、くすりと笑った。

 

「なんだよ」

 

 照れ隠しのようにぶっきらぼうな口調で喋る彼は、そこいらの少年と変わらない。

 

「普段もそんな風にしてる方がかわいいよ」

 

「今も普段も変わらないだろ」

 

 一気に肩の荷が下りた気がして、恭子は伸びをした。

 

「ううん、普段の君波くんはね。なんか、こう、遠いんだよな。遠くのひとって感じ」

 

「ぼくはただの人間だよ」

 

 そう言ってむっとしてみせる彼の袖をつんつんと引っ張って、恭子は教室のドアへと駆け寄った。ドアの形にくっきり落ちた陽だまりが暖かい。

 

「一緒に帰ろう」

 

「そうだね」

 

「手ぇ繋ぐ?」

 

「いや、まだいいよ……」

 蒼白いはずの彼の横顔が午後の日差しに馴染んだ気がした。