初夏のコーヒーを知って

仏谷山飛鳥

 

 つまらない。特に化学。白雪姫だったときは毒術を学んでいた。比喩じゃない。本当に白雪姫だったときがあったんだ。東京では最高の偏差値を誇るこの高校に入学してから、約二か月が経った。どの教科も三年生の教科書は完璧だし、これで本当に一番の高校なのか、と疑うほどだ。

 

 今日は一学期の期末考査最終日。今回のテストも、今のところ全部満点だし、今日の教科は化学と生物。どうせ満点だ。本当につまらない。そこで、暇つぶしに海に行くことにした。気温も高いし、海に行くには絶好の天候だし。てことで、僕は財布とスマホだけ持って家を出た。

 

 電車に揺られること二十分。駅を出ると、満たす限りの青が視界に入ってきた。眠気覚ましのコーヒーを買って、浜辺へ出た。こういう景色を見ると、生きてるって感じがする。教室の中ではきっと得られない気持ちだろうな。僕はそこへ寝転んだ。世界を独り占めしている気分だ。ゆっくりと時間が流れていくのがわかる。時代は変わっても、自然はいつも心の癒しである。僕はそっと目を閉じて、全身で海を眺めていた。

 

 瞼が暗くなった。目を開けると、白い服を着た同じ年くらいの女の子が嬉しそうに僕の顔を覗き込んでいた。

 

「何してるの?」

 

 彼女は馴れ馴れしく話しかけてきた。

 

「いや、別に何もしてないけど」

 

「そっか、ごめんね、起こしちゃって」

 

 まぁ、別に寝てたわけじゃないけどね、確かに邪魔はされたね。口にはしてないけど、ちょっとだけ態度で示した。

 

「君こそ何してるんだい」

 

「私も特に。散歩し得るだけだよ」

 

「学校は? 休んだの?」

 

 どうせ僕みたいにテスト休んだんだろう。同機はちょっと違うだろうけど。そう思ってたけど違った。

 

「私、学校行ってないよ」

 

 ふーん、学校行ってないのか。不良じゃん。僕は不良少女といるのか。前世からすると、ありえない状況だ。

 

「え、じゃあ毎日何してんの」

 

「こうやって散歩してるだけだよ。家にはじいちゃんとばあちゃんしかいないし」

 

「ご両親は仕事に行ってるのか。家事とかは手伝わなくても――――」

 

「あ、いないよ、お父さんとお母さん。私が小さいときに事故で死んじゃったからね」

 

 やってっしまった。僕の悪い癖だ。人生二年目にもなると、軽率にいろいろ言ってしまう。できるだけ慎重にはしてるんだが……申し訳ないことをした。

 

「あ、ごめんね、空気重くしちゃって。もう昔のことだからあんまり気にしてないんだけどね~」

 

 彼女は微笑んでいたが、この笑顔の奥に悲しい嘆きがあったことを、無理もなく読み取れた。

 

「いやいや、こちらこそ、ごめん。何も考えずに言ってしまった。本当にごめん」

 

「気にしないで! 大丈夫だから。じゃ、そろそろ行くね。また明日も来てね~」

 

 そう言って、彼女は浜辺沿いに歩いて行った。海の青の深さが寂しげに目立った。

 

 それにしても、風のような子だ。明日も来てねと言われたが、あいにく明日も暇だった。彼女の笑顔を思い出しながら、電車に揺られて家に帰った。

 

 次の日、午前中は学校の掃除だけだったので、それが終わってからまたあの浜辺に行った。浜辺へ向かうと、僕が昨日寝転んでた場所で彼女が寝ていた。近づくと、彼女は僕に気づいたらしく、起き上がってこちらに振り向いた。

 

「あ! 来てくれたんだね、ありがとう~」

 

 テンションが昨日と全く同じで、まるで昨日がまた訪れたみたいだ。

 

 それから彼女といろんな話をした。彼女の祖父母の話とか僕の学校の話とか、もちろん前世の秘密とかは言っていないが。でも、僕の両親の話を聞きたいといわれたときは、少し戸惑った。天然なのかわざとなのかは分からないが、この話をしているときは、彼女の気を遣うのが大変だった。

 

 気が付けば、空が赤くなりつつあった。もうこんな時間か、もう帰らなきゃ。そう彼女に告げて、お別れをした。明日もここで会う約束をして。

 

 こうやって、毎日明日の約束をして帰らされるおかげで、僕の夏休みは、ほとんど彼女と一緒だった。理由はわからないが、気を使っていても彼女と過ごすのは苦痛ではなかった。性格は真反対だが、彼女といると、本当に昔に帰ったみたいな気持ちになれた。僕らは毎日、子供みたいに遊んだ。高校生のするような高尾ではないが、心から楽しい夏休みだった。

 

 

 

 そんな夏休みも終わり、二学期が始まった。それから間もなく、僕へのいじめがはじまった。勉強ができるといってよく休むことが原因だろう。都内トップ校でいじめなんか発覚すると、きっと外部が黙ってない、面倒なことにはしたくなかったので、誰にも言わなかった。彼女以外には、誰にも。

 

 二学期に入っても、二、三日に一回は海で彼女と遊んでいた。もちろん、付き合っているわけではない。それだけは言わせてもらう。彼女にその話をすると、初めは驚いた様子だったが、少しの間の後、こう言った。

 

「実はね、私も一時期いじめられてたんだ。学校に行ってないのも、実はそれが原因なの」

 

 突然の告白に動揺した。両親の死の上にいじめまであったなんて。必ずしも神は人を平等に作っているわけではない。しかし、彼女は僕を笑顔で励ましてくれた。本来は人生経験の豊富な僕が励まされるというのは変な話だが、それでもこうして手を差し伸べてくれる人がいるのは嬉しかった。彼女の笑顔に救われた日は、そう少なくなかった。

 

 

 

 ある日、体育の授業でサッカーをしていた時のことだ。普通にサッカーをしていただけなんだが、ふとした拍子で転んだ。その時に何か硬いもので後頭部を殴られた気がした。僕はそのままその場で倒れ、そのあと一週間ほどの記憶がない。

 

 目を覚ますと、そこは病室だった。そして、ベッドのそばには彼女がいて、僕の名前を呼んでいた。

 

「あ、白河くん? わかる?」

 

 重い頭を軽く振った。彼女の顔には、少しの心配を含んだ笑顔が浮かんでいた。その後は、彼女から僕が眠っていた時の話を色々と教えてもらった。僕はサッカーをしている最中、転んでゴールに頭を強打したらしく、出血もかなりあったみたいで、そのまま救急車で病院に運ばれた。僕の親は二人とも海外出張であったが飛んで帰って来、彼女は毎日僕の見舞いに来てくれていたようだ。それ以外にもいろんなことがあったらしく、いつものようにたくさん話をしてくれていた。ただ、彼女の話す声には、どこか寂しそうな響きがあった。

 

 すると突然、彼女の携帯のバイブが鳴った。ちょっと出てくるね、と言って病室を出て行った。それから何時間と経ったが、彼女は戻ってこなかった。次の日も、その次の日も、彼女からの連絡はなかった。それから数日経って、僕は退院の日を迎えた。退院の日も、彼女は来なかった。

 

 ちょうど母と一緒に病室を出るとき、看護師さんに彼女について聞いてみた。あの日電話に出た彼女は、泣きながらに走り出し、病院を出て行った、というのだ。僕は軽く礼をして、お世話になった病院を後にした。帰りのバスでケータイの電話帳を見たときに気付いた。彼女にはもう会えないんだと。理由も言わずに消えた彼女はもう僕の前には現れない。彼女の連絡先や電話の履歴、そしてメールのすべてが数日前に削除されていた。

 

 

 

 それから十五年後、僕が三十一歳の初夏のことだ。僕は出張で九州に来ていた。新しい取引先との会談が終わり、東京へ帰る新幹線までかなり時間があった。そこで、微糖の缶コーヒーを買って、近くの浜辺に寄ることにした。

 

 空は青く、海はさらに青く光り輝いている。絶好の海日和である。波打ち際をはだしで歩いていると、白い服を着た女性が向こうから歩いてきた。僕は息を飲んだ。その女性には、消えた彼女の面影があった。距離が近づいてきた。すると、口をついて彼女の名前が出た。その女性は驚いた様子で、こちらを見た。

 

「どちら様ですか?」

 

「あ、いや、何でもありません。人違いです」

 

 そうして、通り過ぎた。二人の距離が広くなっていく。

 

 彼女だった。間違いなくあの女性は、浜辺の彼女だった。引き返そうと思ったが、やめた。コーヒーの甘さが、口の中でしつこくねばりついた。