吊革を離す
新葉しあ
「優先席の近くでは携帯電話の電源をお切りください」
ヘッドホンから流れるR○DWIMPSの哲学的な歌詞が、電車の音をも搔き消している。
僕は大津誠一。ラジオDJだ。芸能界に華々しくデビューしようとして、土臭い田舎から上京し、タレント事務所に所属して早一五年が過ぎた。
ラジオDJと聞けば聞こえはいいかもしれないが、所詮は、夜中の九時から三時間という、テレビに目を奪われる時間帯とまだ誰も起きていない朝一番という細々とやっているたった二つラジオの司会進行のようなものだ。渡された原稿の通りに話を進め、軽いスパイスを加えるように、雰囲気に沿った曲を流す。ただそれだけの誰にでもできる簡単なお仕事だ。日曜日の午後三時から流れる音楽放送のDJだけが、誇りを持って出来ている仕事だ。
昔は、家族もいた。嫁と小さな息子だ。しかし、一日一〇時間近く働き詰めで家族サービスも出来ず、月収が二○万と少し、何年経っても変動なしでは、愛想を尽かされたの仕方のないことだった。
電車がカーブに差し掛かり、吊革に掴まる体が前に傾く。五○手前といったところだろうか、頭頂部が禿げかかったサラリーマンに体が近付き、反射的に体を逸らした。中年男性は、膝に鞄を乗せて目を瞑ったままで、こちらを気にしているそぶりすら見せない。
まだ自分が二○前半と若かった頃は、朝早くに出勤し夜遅くに帰宅する事務的な人間になってたまるかと思っていたものだが、おそらく出勤中のこのサラリーマンと日もすでに黄色さを失ったこの時間にようやく退勤中の俺では、どちらが良い生活をしているかなど比べるまでもないだろう。
「──ドア付近で立ち止まらず、車内中ほどまでお進みください」
今まで、ラジオの枠の移動は何度かあったが、昇進したと実感できるような──レギュラー枠が増えるようなことは、今の枠数になった一○年前から一度もなかった。恐らく、局にとっては、俺のような存在は使い古しの駒でしかないのだろう。新人はいくらでもいるから、古株がやめたら若い力でその穴を補填するだけ。
そもそも俺は何になれたというだろう。
元々ラジオDJ志望であったのなら、こんな過酷な生活もまだ耐えられるものかもしれない。だが俺は違う。俺はテレビタレント志望だった。そのための専門学校にも通った。それなのに、である。
電車がブレーキを踏み、耳とヘッドホンの間から、タイヤとレールの嫌に高い摩擦音が聞こえる。
「──駅。──駅。お降りのお客様は──」
車掌の鼻抜け声に反応して足元の鞄を持ち上げ、人混みの騒音に備えて少し、音楽の音量を上げる。
電車が完全に停止し、人が流れ出す。
疲れた足を酷使して歩く。
最寄駅ではない。
ただ少し、足なんかよりも心の方が疲れてしまっただけだ。