吊革を握る

新葉しあ

 

 ──落下まで後一歩。

 

 どうしてかそこには、先客がいた。

 不気味なまでに黒いビルの屋上の角の角。一人の若い男がただ直立していた。男の名前は知らない。話したことも過去会ったこともない。横顔しか見えないが今初めて見た男であるはずだ。いや、もしかしたらどこかで見たことがあるかもしれない。そんな気もした。男の足元は覚束無く今にも落ちてしまいそうで、この世に絶望したような頬が痩けた面相で、これは想像でしかないが本当に全てに絶望しているのだろう。助けたいと思った。死んでほしくないと願った。だが、そう願っただけで思考と反して足は動かなかった。男の体が傾き、終いには見えなくなった。

 

 ──落下まで後一歩。

 

 不気味なまでに黒いビルの屋上の端の端。一人の全く見知らぬ男が立っていた。

「死ぬんですか?」

 思わず尋ねていた。男はこちらを振り返り、小さく頷いた。

「どうして死ぬんですか? 見たところまだまだ若い。俺のようないい年のおっさんではなくあんたは若い。今までに何があったか、俺に話してみないか?」

 男は俯いたまま一切の力も篭っていない声で話すようなことは何もないです、と答えた。

「話すことが何もない人間はこんな所にいない。この下でキーボードを一生懸命に打つか──マイクにむかて何か話すかしているはずだ。話さないで死ぬもいいかもしれない。ただ、誰かも知らないこの俺に身の上話をすることで救われる何かがあるか


もしれない。何も引き止めて時間を稼ぐとかそういうことをしたい訳じゃない。ただ、目の前で自殺を


試みようとしている人間がどういう経緯で死という悲しい結論を選び出したのかが知りたい。それだけだ」

 真っ赤な嘘である。男に死んで欲しくないだけである。

 男は低い声で、話すようなことは何もないです、とだけ答えた。男の体がゆっくりと傾いた。手を伸ばしてももう遅かった。一瞬が恐ろしく長く感じた。長い前髪が邪魔して、男の顔は、やはり見えない。

 

 ──落下まで後一歩。

 

 不気味なまでに黒いビルの屋上の隅の隅。初めて見る一人の男が、下を見下ろしていた。

 その男は、R○DWIMPSの歌を口ずさんでいた。発売日に購入してから何度も聞いたのデビュー曲である。

「R○DWIMPS、好きなんですか?」

「はい、とても」

 男の手には、一枚のCDケースが一つ握られていた。彼は、そのケースを自分の胸に当てた。

「今日は新しいアルバムの発売日だったんんですよ。だから、買ってからここに来ました」

「そうなのか、だが、そのケースは、まだ開けていないのか?」

今はまあ、これを聞きたい気分じゃないんですよと男は軽く笑って答えた。

 そして、もう一度歌を口ずさむ。

「でも、その場所で、その歌は、ないんじゃないか?」おどけたように尋ねる。

 男は歌うのをやめない。

「なぁ。……なぁ!」

 男の足が前に出た。おい! と叫ぶと同時に足が動き出した。手を伸ばす。

 しかし、掴んだのは、宙だけだった。

「そういうわけですよ」ビルの下からそう聞こえた気がした。胸に、穴が空いた、そんな気分だった。

 

 ──落下まで後一歩。


 

 

 不気味なまでに黒いビルの屋上の先の先。一度たりとて見たことのないような他人が一人、突っ立っていた。そして考えるより先に足が動いていた。

 

「早まるな! 落ち着け、よく考えるんだ‼」

 

 抱きつくようにして力づくでを角から離そうとする。何故かはわからない、ただこの男には死んでほしくなかった。まるで他人のようには思えなかった。勿論のように男は彼の持ちうる限りの力を使って抵抗し、死に近付こう近付こうとする。それをひたすらに阻止する。

 

 男の手から、CDケースがガシャンと音を立てて落ちた。

 

 男が鼓膜が破れそうになる勢いで叫んだ。

 

「お前も! お前もここにいるってことは死にに来てんだろ‼だったらなんで邪魔すんだよ‼離せ‼離せよォッ‼‼‼」

 

「確かに俺も死にに来た! だが、あんたに死んで欲しくないと思った! まだ若い君に俺のような悲壮な運命を歩んで欲しくない、そう思った! これはただの俺のエゴだが、それを自覚して尚あんたに押し付けたい! あんたは死んじゃいけねぇ‼」

 

「お前も! お前も俺ならわかってんだろ!」

 

 男の力が突如強くなった。体が引っ張られる、体が宙を浮いた。

 

 男と目が合う真正面から。それは若い頃の自分の──

 

「自分のこともわかってねぇ‼他人のことなんて考えられるわけがねぇ‼お前は! 自分が死んで、悲しむ人間が少なからずいることだって、何もわかっていない‼‼‼」

 

「え?」

 

 男も空を飛んでいた。そして落ちていた。どれだけ世界を憎んで運命を拒んでも最後の最後までこの世界の力に囚われて、抜け出せなかった。

 

 落ちて墜ちて堕ちて行く。地面は見えない。

 

 

 

 

 

「いざ、来てみたらやっぱり、怖気付いちまうもんだな……」

 

 七階建ての建物は、二○メートル近い。落ちれば、死は免れないだろう。その高さへの恐怖に、足が自然と一歩下がる。すると、カシャ、とプラスチックを粗雑に扱う音がした。

 

 足元には一枚のCDケース。それを持ち上げて裏返す。

 

「……、そうか、発売日、今日だったか」

 

 俺のこよなく愛するロックバンド、R○DWIMPSのニューアルバム。忙しすぎて、忘れてしまっていた。だが、どうしてここに? 辺りを見渡しても誰もいない。こんな廃ビル、普通誰も来ない。なのに、今日発売のアルバムが落ちているなんて、不自然すぎる。だが、考えても答えは出ない。

 

「……今日はもう帰ろう」

 

 誰のものかわからないCDをもう一度元の場所に置き直して、廃ビルを出る。もう高くなっている太陽が眩しい。

 

 足取りは先程の数倍軽く、どうしてかは分からないが、心は晴れていた。

 

 そうだな。明日のラジオでは、R○DWIMPSの曲を流そうか。