氷の女王
雪村
「おは……ヨウゴザイマス」
ある朝、学校に行くと、教室の空気が凍っていた。一週間前までは日常だったものが、少し離れているだけで耐えられないほどの圧力に変わった。
そろりと足音を忍ばせて自分の席へ向かう。斜め後ろに視線をやって、眩しい光景に目が眩んだ。
笑顔で光を振りまきながら、周囲の空気を凍らせている元凶は、葉月怜という女生徒だった。
別に、彼女が虐められているわけでも、寒い親父ギャグを放っているわけでもない。何より、その程度のことで、このクラスの空気は凍らない。
教室は、圧倒的に男子の数が多い。昨年度までは男子校だったからだ。共学化は、年々学生数が減っていくなか、近くにできた新興住宅地にやって来た学生を取り込もうとした理事長の、五十年の歴史を変える大改革だった。
結果は上々。一つ下の一年生のクラスでは、男女比がニ対一ほどだという。人数も他の学年よりも格段に多い。
しかしそれも、新入生であるからで、二年生ともなると四十人いるクラスに五人でも女子がいれば、男どもが叫び、踊り上がるほどだった。
その点から見れば、このクラスは大当たりなのかもしれない。実際、新クラスが発表された当初は、皆が喜び舞い踊った。
女子の人数は六人。そしてその中の一人である葉月怜は、とんでもない美少女であった。
揺れるボブカットが可愛いかった。女子の制服が可愛かった。スカートだった。大きめのカーディガンとか凶器だった。萌え袖、なにそれ、な男どもが次の日には彼シャツという単語を覚えていた。眩しくて、顔を見ることもままならなかった。どうすればシャッター音が消えるのかという質問が、異様に増えた。萌えとか分かんねえ、と言っていた奴が、尊い以外の語彙を失っていた。
当然ながら、彼女はモテた。初日だけで、「俺、一目惚れだわ」といった呟きを、何度も聞いた。自分自身も呟いていた。
思い立ったら即行動、という猛者は何処にでもいるもので、次の日の朝、彼女は告白されたのだった。教室の真ん中で。
あの時の衝撃を、我々は死ぬまで忘れられないだろう。
「好きです、付き合ってください」と言われた彼女は、可愛いらしく目を丸くした後、その男子を見て、こう言い放った。
「もしかして、私と付き合いたい、なんて思ったんですか。馬鹿なんですか。私、馬鹿な人間には興味ないんです。わかったなら、さっさとそのあほヅラ引っ込めて、お帰りください。さもないと、貴方のーーーをーーーーしてーーも二度とーーーできないようにしますよ。それとも、そういう趣味の方なんでしょうか」
空気が凍った。告白の様子をニヤニヤと見ていた奴はサッと目をそらし、写真を眺めていた奴は慌ててポケットに突っ込んだ。何に、とは言わないが、何人かが目覚めた。誰かが、「じゃあなんで、こんな偏差値低い学校に来たんだ……」といった。彼女は、男達を見もせずに、くるりと女子達の方へ去って行った。
その日以降も、彼女への告白は続いたが、全てを同じように返した結果、今では一部を除いて、そんな奴は居なくなっていた。それから、この教室では、葉月怜がいる間、男のどもが息を潜め、空気が凍るのだった。
となれば、彼女はクラスから孤立しそうなものだ。しかし、実際には葉月怜は女生徒からは圧倒的な信頼を寄せられていた。女子には不思議と優しかったのだ。ここまで来れば、ただの男嫌いではないかと思われる程度には。
「ねぇ、ねぇ。やっぱり、あの人が噂の葉月怜? すっごい奴やなぁ」
後ろを覗いていた気配を感じたのか、真後ろの席の男子が話しかけてきた。彼は、葉月怜が学校に来ていなかった一週間の間にやって来た転校生で、現状では、彼女の本性を目撃していない幸運とも不幸とも言える唯一の男子だ。
「惚れた、とか言うなよ。お前の為だ」
「なんでさ? 俺、ちょっと話しかけてくるわ」
彼は無謀にも、教室の後ろに向かって歩き出した。クラス中が彼に注目した。中には、彼に向かって合掌する奴もいた。
葉月怜は、女子達に北海道土産だと言う、キタキツネのストラップを渡していた。鞄にも付いているそれは、彼女のお気に入りのようだった。
「それ、可愛いなぁ。白い……わんちゃん?」
教室中を、ブリザードが襲った。
「そう見えますか?」
「ちょっと違うけどなぁ、見えるよ。あ、もしかして初恋の相手とか? さすがに、その子はやめておいた方がええで」
「私、馬鹿な人間は嫌いなんですけど、ご存知じゃありませんか?」
「俺は馬鹿な人間じゃないと思うで」
彼女は少し考え込んで、「放課後、屋上で」といった。
その日は誰もが、授業どころではなかった。
そして放課後。ほとんどの者は、屋上に目を向けながら部活動に引きずられて行った。事情を話して抜けようとする奴もいたが、「クラスの女子と転校生の話の内容が気になるから」という理由で休めるほど、この学校の部活動は甘くはない。
結局、放課後に動けるのは俺だけだった。クラスメイトから託されたビデオカメラが重い。
屋上の扉のを少し開け、耳を澄ませる。二人は既に、屋上で話していた。
「凄いですね、大正解です。男では、貴方が初めてですよ」
「それほどでもないで。俺もあんたと同類だからな」
「となると、貴方も? お互い、大変なのか楽なのか分かりませんね」
葉月怜は少し呆れたようにため息をついた。
「こんな、リアルでも何でもない犬とキツネの区別はつく癖に、人とキツネの違いも分からないなんて、本当に聞いていた以上に人間は馬鹿です。キツネがここ百年で、長く生きなくても人に化けられるよう進化したなんて、思いもしない」
「それはまあ、仕方ないやろ。俺らも、偶に分からなくなるしな」
「だとしても、ですよ。バレない為にわざわざ女子に化けて男子校に来た僕の苦労を返せって感じです」
「それは俺もだけどな。転校生も楽じゃない。と、いう訳で」
屋上の扉がバッと開いた。
「秘密を知ってしまったクラスメイトAくん。これで君は共犯者や」
「僕たちのお手伝い、よろしくお願いしますね」
夕陽の中に耳の生えた二人の影が見えた。