の名は

雪村

 

「今、部屋にいるやつ、全員探検に行こうぜ」と、トキワが言った。

 

 トキワはこの村の族長の一族の世話係を代々務める家の一人息子だった。族長が村人の前に現れることはないこの村では、トキワの一族は族長と同等の権力を持っているといってよかった。その息子の誘いを断れる人間など、子供といえど、この村に存在するはずもなかった。

 

「探検って、突然何言いだすんだよ」と、オリベが言った。

 

 オリベはトキワの幼馴染で、今いる人間の中で唯一トキワに遠慮なく発言できる人だった。僕もそう思うよ。言えはしないけど。

 

「どこに行くつもりなの」と、ウラハが言った。ウラハは、昨年の夏に土へ帰ったじいちゃんの代にこの村に越してきた、比較的新しい家の出身だった。彼女は常に書物を持ち歩いている変人で、噂では、すでに父親の研究を手伝っているという事だった。

 

「まあまあ、落ち着けって。全部を一気には答えられないだろう」

 

 トキワは、村で一番美しいといわれる緑色の目を輝かせて、今日も講義を行った師のようにぐるりと部屋を見渡した。

 

「全員、異論は無いんだよな。それなら、歩きながらでいいじゃないか」

 

「まあ、俺はいいけど」

 

「あまり遅くならないなら問題ないわ」

 

 トキワと、トキワよりも渋いオリベ、神秘的なほどに薄いウラハの三対の緑が僕を向いた。ハッと部屋を見渡すと、確かにそこには僕と三人しか存在していなかった。

 

「僕も、問題ないよ」

 

 僕はどうせ何の役職の家の出身でもない平民だ。本当なら、これから家に帰って畑の手伝いや兄弟の世話をしなければならなかったのだが、トキワに誘われたのだと言えば、母も分かってくれるだろう。それに、特に大人びて見えるウラハのおかげで忘れそうにもなるが、僕たちは村でたった四人だけの、同じ年に生まれた仲間だ。仲良くできるものならば、しておきたい。

 

 

 

 僕たちが目指すのは、村の奥にある山のさらに奥に生えている、一本の妖木だ、と宣言した通りトキワは山道を歩きながら話した。

 

「でもさ、そこって確か、子供は行っちゃいけないって父上たちに言われてなかったか」

 

 話を聞いていたオリベが疑問符を浮かべながら訊いた。隣でウラハも頷いている。その割に、二人とも歩く足は緩めていない。

 

 トキワは自慢げに鼻を鳴らして答えた。

 

「二人とも、大事なことを忘れてるぜ。俺たちは今日、何をしたよ」

 

「何って、いつも通り師の話を聞いて勉強をしただろ」

 

「その後は」

 

「あっ」

 

 今までトキワの話をさえぎる勇気もなく、黙って後ろを歩いていた僕が突然大声を出したので、全員が驚いて振り返った。

 

「僕たち、卒業したんだ」

 

「何を言っているのよ。それがどうかしたの」

 

 僕に「卒業」という言葉を教えてくれたのは、ウラハだった。昨日読んだ、古い手記に書いてあったから、と珍しく向こうから話しかけてきたのだ。その意味を、もしかしてウラハも分かっていないのだろうか。

 

「卒業したんだよ、学舎から。もう師に教わる立場じゃない。今日から僕らは子供じゃない」

 

「そう、その通りだ。まさか本当に分かってないとは思わなかったぜ」

 

 トキワが呆れたように腰に手を当てた。いくら族長の息子でも、村の掟まで破るつもりはなかった、という事だ。きっと今日という日まで待っていたのだろう。そういえば、教室に僕たち四人だけ残っていたのも、僕たちが感傷に浸っていると思った他の子供が遠慮をしたからかもしれなかった。当の僕たちは、すっかりそのことを忘れていたわけだけど。

 

 そもそも、特にこれといった式もなく、いつものように長期の休みに入ったのだ。覚えていたトキワのほうが珍しいのかもしれない。

 

「子供じゃないなら、あそこに行っても問題ないだろ。俺はさ、兄さんが気を失った義理の姉さんを背負ってあそこから帰って来た日から、ずっとあそこの謎を解いてみたいと思ってたんだよ」

 

 トキワの兄夫婦の話は、村の中でも有名だった。その出来事以来、妻は神経衰弱になり、いまだに祈ることすらできていないという事だ。トキワは二人を慕っていたそうだから、自分の手でどうにか原因を見つけたいと思っているのだろう。

 

「確かにこの時期ならだれも来てないと思うけどな。それでも危険は無いのか。俺らにとっては母みたいなものなのに、妖木って呼ばれているくらいだろ」

 

 妖木は、この村ができた頃にはすでに大きな幹を持っていたと伝えられている。村の夫婦は、秋が終わるころ、寒さで地面が凍る前に、その年の春に選んで布で包み、木で挟んで半年間枕の下に置いておいた植物を、夫婦二人の血を染み込ませた子供を願う手紙でくるんで妖木の根の傍に埋める。しばらくすると木の根元は赤く染まった葉で埋め尽くされるという話だ。そして手紙を埋めた夫婦の中から、妖木は村で子供を持つにふさわしい者たちを見極め、選んだ夫婦の家の戸口に置いてある石の箱に、夫婦が持ってきた植物を入れる。植物が入っていなかった夫婦はまた春、植物を選ぶところから始める。植物が入っていた妖木に選ばれた夫婦の所へは、最後の雪が降った次の日の朝、真っ白な羽で包まれた赤ん坊が届けられるのだ。

 

「直接の危険は無い、と思うわ。あそこに行って精神を病んでしまったという話は稀に聞くけれども、それは、木に試されているように思って怖くなった、というような話がほとんどだもの。私たちは別に子供を頼みに行くわけではないのだし、大丈夫じゃないかしら」

 

 ウラハの言葉に、オリベも納得したようだった。

 

 

 

 そうしている間にも、僕たちは歩き進め、妖木まで残り僅かというところまで来ていた。少し前から、足元に梅の花びらを見るようになった。

 

 ふと、ウラハは立ち止った。前を歩いていたトキワとオリベは気付かずに進んでいく。

 

「違う」

 

 ウラハが花びらを拾い上げ、信じられないように目を見開いて言った。

 

「何がさ。その梅の花びらなら、確かに少しばかり季節が遅い気がするけれど山の上なら有り得ない話じゃないんだろう」

 

 山の上のほうが季節が遅れると教えてくれたのもウラハだ。

 

「それは、もっと高い山の話よ。違う。そうじゃないの。この花弁は、梅のものじゃないわ」

 

「そんなことないだろ。僕には梅にしか見えないけどな。梅じゃなきゃ何なのさ」

 

「わからないの。こんな花、私は見たことない」

 

「でも、この辺に知らない植物なんて何もないだろ。妖木は花を咲かせないって言うし」

 

「咲かせないんじゃなくて、誰も咲いたのを見たことがないだけよ。と、いう事はまさか」

 

 ウラハが急に走り出したので、僕も慌てて追いかけた。そこでふと、「あっ」と気が付いた。少し前まであれだけ話し続けていたトキワの声が聞こえないのだ。もしかしたら、予想もできない危険があったのかもしれない。

 

 慌ててウラハを止めようと、ウラハの肩に手を置いた時、僕の足は縫い付けられたように止まってしまった。ウラハも、トキワもオリベも止まっていた。

 

 妖木が、花をつけていた。

 

 確かに梅とは違う薄紅の花。蕾はここに来た多くの夫婦の願いを、手紙に染み込んだ血ごと吸い上げたように紅く膨らみ、花はそこに薄く墨でも混ざったように全体を鈍く霞ませていた。村人の願いと血肉を吸ってそこに咲き誇る木は美しく、確かに妖木の名に相応しかった。

 

「あら、珍しい。こんな時期にお客人なの」

 

 幹の裏から、歌うような声がした。その声を聴いたトキワが、見開いていた眼を零れんばかりにさらに開いた。

 

「……サ」

 

「あら、だめよトキワ。それは本来、このお母様の名前。ここには今あなた達しかいないのだから、ちゃんと貴方がくれた私の名前で呼んで頂戴」

 

 幹の陰から現れた少女は、その木を愛おしげに撫でながら笑った。僕の知らない人だった。

 

「トキハ様。何故ここに居るのですか」

 

「それは、お母様は今が一番お綺麗で、今が私がここで生まれた時期だからよ」

 

 僕の、いや僕たちの知らない少女は、トキワと親しげに話した。

 

 少女が姿を見せたその時から、僕の心臓が破裂しそうなくらいに鐘を打っていた。オリベとウラハも同じらしく、小さく震えたまま、指一本動かすことも出来なかった。

 

「トキワ、その人は誰なんだ」

 

 オリベが震える声で訊いた。ああ、と答えようとしたトキワを制して話しだしたのはトキハと呼ばれた少女だった。

 

「私はねえ、貴方達全員の母であり、神であり、創造主であり、兄弟であり、貴方達と同じようで異なる存在、といったところかしら」

 

「適当なことを言わないでください。皆、この方は村の族長なんだ」

 

 その少女が族長と知ってもなお、身体の震えは止まらなかった。トキハのあの目を見ても、平然としていられるトキワがいつになく遠く感じた。

 

「私はこの木から生まれて、貴方達村人の願いで生きているの。だから、もし愛する人ができたら、ぜひ、ここへ手紙を持ってきてね。皆の願い、私が全部、いただくわ」

 トキハは紅をひいたような唇をぺろりと舐めた。僕たちの誰も持っていない、血を溶かしたような赤い目がゆっくりと細められた。