紅の恐怖

 

アルミホイル

 

   1

 

女は至って平然と、自身の弟に躊躇なく、非道なる指令を下した。

 

「いいから、早く片付けてしまいなさい。あなたの愚行のお蔭で、私がどれほどの面倒を被ると思っているの」

 

……貴様、本当に人間か。こんなことが許されると思っているのか」

 

心底で静謐と燃ゆる忿怒の灯火を、単純な言葉にして女に訴える。

 

女は辟易とした態度で嘆息し、僅かに声の調子を上げた。

 

「たった一瞬、あなたが苦痛を我慢すれば終わる話なのよ? ただそれだけ、造作も無いことよ。私は一刻も早く、この場から全てを始末してしたいの。それにはどうしても、あなたの協力が必須。だからお願い、早くして」

 

あまりに身勝手な女の主張に、腹に据えかねた俺は声を荒げる。

 

「断固拒否する。血を分けた男にこれほどの残酷無惨な命令を下す、悪女を看過する訳にはいかない。どんなに甘く囁こうと、俺は絶対に汚れない。俺の魂は決して、貴様のような矮小な悪に屈しない!」

 

「あんたねえ……

 

女は盛大に顔を(しか)め、眉間に寄せた皺の一本一本から不快感を漏出させながら、静かに続けた。

 

「私だって、こんな不毛な議論をいつまでも続けるつもりは毛頭無いわよ。それにねえ、さっきから人のこと悪者呼ばわりしてらっしゃいますけど、悪いのはどなたですか? 正しいのはどちらの主張ですか? 一度よく、考えてご覧なさい。あなたが今、何をすべきなのか」

 

「ならん! 絶対に、絶対にあってはならない! こんなの、不当だ……!!

 

女も堪忍袋の尾が切れたのか、苛立ちを露わにして声音を張り上げた。

 

「いい加減になさい! 何度も言わせないで。私は一刻も早く、この場にある物を残らず片付ける義務があるの! ……あなたのそれで最後なのよ。だから、早くして」

 

「それは貴様の都合ではないか! そんな些末な理由で、弟にこんな外道な真似をさせようと言うのか? 傲慢ここに極まれりだな! 畜生が」

 

ついさっきまで平穏を装っていた女は、ここに来て途端に本性を表し、苛烈に怒号し始める。

 

「ほんっとに下らないんだけど! あんたがギャーギャーごねてくれるお蔭で、今この瞬間も! 私の貴重な時間が湯水の如く失われてくんだけど! 分かってる? こんなにも無益で馬鹿な遣り取りしてる姉弟、日本中のどこ探したって他にいないよ? あんたがちょっと覚悟決めればそれで全部解決する、逆にどうしてこんな簡単なことができないのよ? 意味が分からないわ」

 

「なぜ? なぜ俺がそれをできないか、だと? では逆に聞かせてもらおうか。なぜ俺の人としての尊厳を蹂躙してまで、貴様はそれを強制しなければならんのだ?」

 

女は一時的に元の調子に戻り、教えを諭すように暴論を吐く。

 

「なぜって、勿体無いからに決まってるでしょ。それとさっきから何なのその尊大な態度と言い回し。あんたのやってること、小学生の駄々捏ね未満だからね? 全く、姉として恥ずかしいわ」

 

「なっ……貴様にそんな風に愚弄される筋合いは……!」

 

「あ、そうそう。言い忘れてたけど」

 

とうとう女は、醜い豚の性根を晒し、俺の発言を無視し始めた。

 

「私、『マザー』から伝言預かってるから。それを体内に取り込むまで、あんたから目を離すなって。あと、もし成功したら褒賞はずむってよ」

 

「俺を金で釣ろうと言うのか! 見苦しいな! 例え、どんなに金を積まれても……俺は! 俺は絶対に……食わない!!

 

 

   2

 

ダイニングテーブルの真ん中に置かれた、一枚の皿。その皿の上には一個の、紅色の果実が乗っている。

 

その紅の実こそ、俺がこの世で最も嫌う、紅の恐怖とも呼ぶべき存在――――トマト。

 

今俺の視線の先にあるそれは、標準的なサイズと比較するとかなり小振りな品種だが、やはり醜い物は醜い。己を脅かす脅威を、どうして好きになれようか。

 

「ああもう! どうしてそんなに強情なの!? さっさと覚悟決めなさいよみっともない! 男なら黙って、苦手な物の一つくらい克服して見せなさいよ!」

 

「男なら? 何だその差別的な言い草は! 貴様人として恥ずかしくないのか!」

 

「人として恥ずかしいのはあんたでしょ!! さっさと食べなさいよ一個ぐらい! こっちは極限まで譲歩してミディじゃなくてプチにしてあげてるんだから! 早くしてくれないと、机の上のお皿が片付かないからイライラするの! さあ、早く! 食べて!」

 

傍若無人に怒鳴り散らす姉。こうなった彼女はもう誰にも止められない。怖い。

 

けれど勇敢なる俺は、最期の抵抗を試みる。

 

「嫌だ! 絶対食わないぞ! こんな虐待的な味、もはや人間の食い物じゃないだろ! 誰だよこんなもん最初に食おうとか言い出した奴は! 大体……

 

「ごちゃごちゃうるさい!! 早よ食わんかいボケ!」

 

俺が白熱して口を開けた隙に、姉は強引にプチトマトを口の中に入れ、顔面を渾身の力で殴りつけてきた。

 

それがあまりに痛くて、悪夢を吐き出す前につい口を閉じて咀嚼してしまった。

 

そして恐怖は現実に――口の中で、トマトの味が広がった。

〈恐怖〉