忘れた岩屋と小川の香り

 

 山椒魚はもう我慢の限界であった。小川の小さな滝壺のすぐ側の、緩やかな木漏れ日の差し込む巌窟に身を隠す暮らしはもう沢山だった。斑模様の強い山椒魚は自分の身にあった岩屋から鼻先すら出さないほど怯弱だ。しかし、彼はそれ以上に高慢であった。二尺を優に超す、憂鬱を蓄えて肥えた体を、山女魚(やまめ)たちに「自分たちを捕まえることすらできない薄鈍だ」と揶揄されて生きるのは、何よりも辛いことだった。今日深更、山椒魚は暫く振りに住処から体を出した。寝てばかりだといっても生きているだけで腹は減る。のそりと動かした体は重く、まるで岩でも括り付けているかのようであった。そんな体では獲物を捕らえることなどできる筈もない。魚は疎か沼海老や沢蟹にさえ近づく間も無く逃げられつつ、暫時腹を引き摺っていると、一匹の山椒魚と逢った。他の山椒魚をと比べると幾分か色が淡く、ツチイロと呼ばれる個体である。山椒魚が岩の間に引き篭り始めたばかりの時、梃子でも動こうとしなかった彼に貝などの糧食を定期的に届けていた面倒見のいい山椒魚だ。ツチイロは山椒魚と目が合うと丸い目をより丸くした。面倒臭い奴と逢ってしまった、今すぐにでも逃げてしまおうか、と考えが山椒魚の頭を過ったが、先に話しかけられてしまえば、逃げ出すことは難しかった。

 

「遂に備蓄がなくなったんだ?」

 

「その通り。急に食べ物の配達をやめた誰かさんのせいで外に出る羽目になってしまった。あんなにも親切だった旧友は、今では僕を外に追いやるために謀略する悪魔のようさ」

 

「けどその悪魔は嬉しく思っているよ。どんな理由にせよ、君が外に出てきてくれてね」

 

「そりゃ結構。けど、賢い君は、僕が外に出たところで何も食べれないことくらい簡単に予測できていたんだろうね。今は冬だ。食べ物は少ない。僕でも捕れる田螺なんて腹の足しになりやしない」

 

「それなら私を頼ればいいじゃないか。一緒に食べ物を探そうじゃないか。どうして君は私を頼ってくれない。私はこんなにも君に償いをしたいというのに」

 

「はっはっは、面白い冗談だね。よしてくれ。頼る? 僕が外に出るように画作するような君をかい? 僕をこんなにしたのは誰だ。君に頼るくらいなら陸に上がってミミズを貪った方がいくらもマシさ」

 

 ペッと唾を吐く山椒魚の目にはツチイロへの侮蔑しか含まれていなかった。

 

 ツチイロは悲しげに目を伏せた。

 

「これから君はどうするつもりなんだい?」

 

「川の流れに身を任せていれば、食べ物も少しは見つかるだろう。腹が満ちればまた寝床に戻ればいい。そうして君に頼らず生きていくさ。だから君も僕にはもう構わないでくれ」

 

 言って、山椒魚は踵を返した。木の葉のように水中を揺蕩い、少量の田螺を捕食する。そうして驚くほど緩やかに川を下って行くと寝床より四半里ほど離れた川の合流点で鮭の群れと遭遇した。その中の一匹に滝のない川はどっちだったかと問われ、鮭たちの鋭く並んだ歯に餌と認識されることを怯えながら、自分が来た方と逆の支流を指差した。その対価として自分の食べ物がいる場所を訊き出すことにも成功した。早くこの身の危険を感じる場所から去ろう、とそそくさと身を河口の方へ向けようとすると、鮭の中でも一際大きい、貫禄のある個体が山椒魚の前に開かった。

 

「お主は何を貝のように怯えておるのじゃ。お主くらいの山椒魚ならば儂らを食うてやろうとさえするやつこそいれど、儂らに食われるのを怯えるようなやつなど初めてじゃ」

 

と鮭の長は物珍しげに山椒魚を眺めた。山椒魚はその視線を煩わしく思い、適当に(あしら)う。

 

「どうだっていいだろ。そこを退け。腹が減って仕方がないんだ。餓死なんてごめんだ。僕は岩屋で静かにしていたいんだ」

 

「ついてはそれが不思議だと言う。山椒魚は多く、自分の寝床の近くで狩りをする。下流にいた山椒魚もその類に漏れておらなんだ。この近年珍しげになりよる山椒魚の中でも尚珍しい個体じゃの、お主」鮭の長は皮肉な薄ら笑いを山椒魚に送った。

 

「うるさい」と山椒魚は会話の投げ合いを放棄した。「自分の生まれ故郷の場所も忘れるような馬鹿とは話す気もない。さっさと卵を産んで死んでしまえ」

 

「これは手酷い」鮭は自虐気味にまた笑った。「仕方のないことなのじゃ。いくら故郷と言えど、五年も離れれば忘れてしまうわい。お主ら山椒魚にはわからんことかも知れんがの」

 

「何を馬鹿なことを」と山椒魚は鮭を食ったような態度を取った。「僕は何年寝床を立とうとも、自分の故郷の場所を忘れることはないさ。他の山椒魚がどうかは知らないけどね」

 

 そう言って山椒魚は鮭の脇を潜り抜けた。鮭も上流へ向かおうとした時、後ろから一つの質問が浴びせられた。

 

「一つ質問いいかい」山椒魚は鮭に背を向けたまま、「山椒魚には君らを食べようとするやつだっているんだろ? それなのにどうして君は落ち着いて笑っていられたんだい?」

 

 鮭は、哀愁漂う山椒魚の背中を一瞥した。

 

「強いて言えば海で育ったことじゃろうか。儂らを食おうとする奴など、お主が可愛く見えるほどおったわい。それでも儂らは海に育てられた。お主も行けばわかるじゃろうて」

 

「なぜそんな危地に行かないと行けない」

 

「ここにいても危険さは同じじゃ。お主らに天敵はおらぬかも知れんが、土砂崩れに川の氾濫、それにお主ら山椒魚同士の喧嘩だってあるじゃろう。それと比べたら敵に会う可能性が少ない、穏やかな海の方が安全とだって言えるわい。食べ物だって十分にあるしの」

 

 山椒魚は目を見開いた。頭が理解しようとしなかった。今までずっと安全な場所にいたつもりが危険な場所にいたなどと。

 

 その後、山椒魚は泳いだ。かつてないほど遠くへ。同族も魚も無視して、食える貝で腹を紛らわせながら、未だ見ぬ海の方へと。岩屋を立って、一五刻ほど経って、地上の景色は行李柳ばかりで飽き飽きし始め上流に戻ってやろうかと思い始めた時、ようやく初めて微かな潮の香りが山椒魚の鼻を擽ぐった。それからまた半刻泳いで出会った、どこまでも続いていそうな水面の、遥か彼方が明るく光り出すその海の光景は、初めて来た海への感動と相俟って、兎にも角にも美しすぎた。

 

 

 

 日時は過ぎた。新天地に対して膨らんだ山椒魚の胸は、元の大きさを忘れてしまっていた。つい先日と比べると、山椒魚が岩窟に引き籠る頻度は誰が見てもわかるように減っていた。そもそも、山椒魚は自ら好んで閉じ籠っていたわけではない。一時期、食べ物が圧倒的に不足し、山椒魚同士で喧嘩や共食いが多発したことがあった。今の山椒魚には尾ひれの辺りに大きな傷がある。とある山椒魚に噛まれた傷だ。その山椒魚の名をツチイロと言う。ツチイロもまた、飢餓に精神を蝕まれ、同種を食らった山椒魚の一匹だった。元々山椒魚とツチイロは友達同士だった。幼い頃からの馴染みであった。山椒魚は友達に裏切られたという衝撃で何かを信じると言うことが出来なくなってしまった。しかし、ここ海には食べ物が多い。今はまだ、泳ぎの勘を取り戻せずにいるが、食べ物に困ることはない。それならばまた自分の命が脅かされることはそうそうない。そう思い込むと、彼の心はまるで重りが取れたように軽くなっていた。

 

「おう、生きてるか、山椒魚」と渋みのある声が山椒魚の寝床に入って来た。山椒魚が顔を外に出すと蝤蛑(がざみ)が一匹いる。彼は、海に出て山椒魚が初めて話をした生物だ。腹が減って朦朧としていた初めは、食べてしまおうとしたが、小さく呟いた『多くの兄弟がいるから、俺一匹が死んでも構いやしない』という言葉に感銘を受け、今では立派な友蟹である。

 

「生きているよ、勝手に殺さないでくれ」

 

「そうか、ならよかった」蝤蛑は大袈裟に頷いた。「お前、昨日も何も食ってないだろう。小さい魚だが、持って来た。食え。食わなければ泳ぎの練習なんかしたって意味がない」

 

 蝤蛑は鋏に小魚を挟んで、山椒魚の前まで泳いで来た。山椒魚は暫し考えた。

 

「蝤蛑、悪いけど、それは遠慮させてもらうよ」と山椒魚は頭を横に振った。蝤蛑がなぜと訊く前に山椒魚は続けた。「食べ物をもらうのには、少し嫌な思い出があってね。それに食べ物を獲るために泳ぐんだ。泳ぐために食べ物を獲って来てもらったら、それは本末転倒だよ。僕は、自分で食べ物を獲るんだ」

 

「そうか」蝤蛑はやや残念そうな顔を浮かべたが、すぐに笑い、「お前がそう言うならそうするべきだ。何、すぐに泳げるようになる。お前が悠々と泳ぐ姿を楽しみにしてるぞ」そう言って蝤蛑は山椒魚の寝床から出ていった。魚を落として、まるで逃げるように。

 

 岩窟には、山椒魚が一匹だけ残された。

 

 

 

 月日は経過した。海での暮らしは山椒魚にとって心地よいものだった。魚が獲れず煩わしい思いをしていた時期もあったが、貝しか食べていなかったからか、それとも今までの曇っていた心が晴れたからか、無駄な肉が落ち、魚を獲れるようになってからは、上流の寝床に戻るという考えは、山椒魚の頭から抜け落ちていた。悠々自適に我が物顔で海を泳ぎ、好きなものを食べ、落ち着く我が家に戻る。怖いものなど何もなく、楯突くほど強い生き物は山椒魚の縄張りにはいなかった。唯一本音で話をしてくれた蝤蛑は、仲間たちとどこか遠くへ泳いでいってしまった。

 

ある夜、住処に帰ると、気配を感じた。岩陰に隠れて中を覗き見ると、何かが蠢いているではないか。山椒魚は強気に声を荒らげた。

 

「おい、出てこい。隠れても無駄だ。そこにいるのはわかっている」山椒魚は口を開閉して音を響かせ、低く静かな声で「もし出てこないというのであれば、考えがあるぞ」

 

「全く血の気の多い山椒魚だ」と言って、地を這うようにして出て来たのは、一匹の老いた、巨大な蛸だった。「ほれ、出て来たぞ。して、老い先短いこの老骨は何をすればいい。まぁ老骨と言うても儂には骨などないがの」

 

 はは、と上品に笑う蛸に、山椒魚の腹に抑えがたい怒りが込み上げて来た。腹に収めて怒りを鎮める薬にしてやろうかという野蛮な考えを思いつきはすれど実行しなかったのは、海に来て、山椒魚が成長したからだろうか。

 

「出て来たというのであれば、特に何もする気はない。そこは僕の寝床だ。さっさとどこかへ消えてくれ」

 

「ふむ、勝手に寝床に入ったのは悪かった。詫びよう」と蛸は頭を下げたが、再び山椒魚の目を見つめた。「しかし、出て行けというのは断らせてもらう。今日はお前さんと話をしに来たのだ」

 

「何?」と山椒魚は目を細めた。「悪いが、僕にはあんたと話すことはない。若者と話したい年寄りの酔狂なら、他を当たってくれ」

 

 顎で追い払おうとするが、蛸は吸盤で張り付いて、ビクともしない。このまま引き続ければ、蛸が岩屋から出るより先に岩が崩れてしまいそうなほどだ。諦めて山椒魚は蛸から体を離した。

 

「話に聞いた通り乱暴なやつだ。年老いた蛸の話には静かに耳を傾けるものだ。お主よりは生きた時間は短いかもしれんが、誰よりも下から海を見て来た。この年寄り蛸の言うことは、この近海の言葉だ。だから聴かんかい」

 

「何を意味のわからないことを」と山椒魚は愚痴を零した。「まぁいい。話だけ聞いてやる。そしたらすぐにどこかへ行け」

 

「それはありがとう」そう言って蛸は吸盤を岩から外した。そして、触腕の一本を山椒魚に向け、「それでは若い山椒魚、お前さん、ここを出て行ってはくれんか?」

 

 山椒魚には一瞬、言葉の意味さえ理解できなかった。海に来て半年ほどだが、自分は絶対的強者であった。自分に歯向かうものなどいる筈もなかった。それなのに、この蛸風情は、自分に何を言っているのか、面食らって理解できなかったのだ。

 

「お前さんが、この海の者たちをどう思っているかは知らんが、皆は迷惑している。傍若無魚に振る舞うお前さんにな。強者が弱者を食うのは自然の掟かもしれん。しかし、お前さんが自分勝手に張った縄張りの中に入ったのみで攻撃をすると言うのは、ちとばかしやりすぎではないかな?」

 

 山椒魚は何も言えなかった。思い当たる節はあった。今まで岩の下にいただけの自分が、一番の優位に立った気分で、何をやっても許されるような気分になり、羽目を外しすぎた。それを理解して、口を閉ざしてしまった。

 

「お前さんのように海に出て来た山椒魚の話は初めて聞いた。過去に何かあったのかもしれないが、それを海の民にぶつけるにはやめても――」「わかった」と蛸が話終える前に山椒魚は蛸の話を遮った。「明日中には出て行く。それでいいか?」

 

 蛸は驚いたような顔をしたが、すぐに落ち着きを取り戻し、「問題ない」そう言って、蛸は体をずるずると引き摺って行った。すれ違いざまに、「今のお主は、他を思いやる気持ちが明白に欠如しておる。他の好意を感じ取る能力もの。一度外へ行きなさい。今はわからんかもしれん。だがいずれわかる時がくるだろう。そしたらまた戻って来なさい」とささやかに口添えた。

 

 山椒魚はその夜のうちに岩屋を出た。ここには自分の居場所がないように感じて。孤独を感じて。

 

 夜の海は彼の肌に少しだけ寒かった。

 

 

 

 歳月は流れた。何度目の晩夏かを、山椒魚はもう記憶していない。しかし今いる場所が一体どこなのかも山椒魚にはわからない。ただどこにも定住せず、流木のように旅をしていた。彼は、そろそろ体に限界を感じていた。山椒魚はあまり動かぬ種だ。殆どが生まれた川で一生を終える。それが、広い海を泳ぎ回れば、体の随所に痛みを感じもするだろう。どうせ死ぬなら美しい所で死にたい。初めて海に出たあの日のような感動を胸にして死にたいのだ。山椒魚は死ぬのが怖くなかった。幼い頃に怯えていた傷付けられることへの恐怖は、海で暮らすうちに忘れてしまった。今ここにいる山椒魚は、老い先短い余生を、終の住処を探すことに費やそうとする老骨であった。今まで、美しいものを多く見てきたと自負している。しかし、あの日見た朝焼けに勝るものは一つとしてなかった。

 

 ある日、一匹の鰻の子が山椒魚の目の前を通り過ぎた。白く小さな、まだ生後まもない鰻である。さすがこれほど小さな稚魚を食うのは忍びない。見逃してやろう。山椒魚が見守るように鰻の稚魚を眺めていると、ざんぶと水面から音がして、目の細かい大きな網が彼ら目掛けて降りてきた。山椒魚は網を見たことがあった。その昔、山椒魚が川に住んでいた頃、人の子がよく目高や水馬(あめんぼ)を掬って攫って行った道具だ。故に山椒魚には、それが恐ろしい道具であると理解していた。山椒魚は即座に鰻の子を口の中に含み、痛む身体に鞭を打ち、自分の出せる最高の速度でその場から遁走した。

 

 半里ほど泳いで、安全を確保した山椒魚は、口から鰻の子を吐き出し、大きく溜め息吐いた。逃げるにしても逃げすぎた。鰻の子がいたと言うことは、先ほどの場所は、南の三連山の付近であろう。そこからどの方向に逃げたかなど覚えていない。来た道を折り返すほど山椒魚も馬鹿ではない。また自分のいる場所がわからなくなってしまった。

 

「おじさん、助けてくれた?」鰻の子が言葉足らずに山椒魚に尋ねた。

 

「ああ。怪我はないかい」と山椒魚が尋ねると鰻の子は「大丈夫」と天真爛漫に答えた。

 

「そりゃよかった」と山椒魚は優しそうに頷いた。「ところで君は、これからどっちの方に泳いで行ったらいいかわかるかい」

 

「皆が行く方!」その皆がいれば聞いていない、と山椒魚に思わせる回答をした、鰻の子は、山椒魚の後ろの方に何かを見つけると、一生懸命に泳いで行った。何だ、と山椒魚も付いて行くと、一匹の鰻の成体と居合わせた。

 

「あなたがこの子を助けてくれた方ですか?」と鰻が、淑やかに山椒魚に話しかけた。

 

「ああ。元気そうで何よりだ。助けた甲斐があったってものだよ」山椒魚は鰻の子に微笑みかけた。鰻の子も同じようにニッと笑った。

 

「失礼ですが、あなたは川の山椒魚ですか? 下流に行李柳が群生している支流の多い綺麗な川の」と鰻が覗き込むように尋ねた。

 

「そうだけど、それがどうかしたのかい」

 

「会えた! 何て奇跡なんでしょう!」鰻は、顔を綻ばせて山椒魚に飛びついた。「ツチイロさんが病気なのです。戻ってあげてください。もう一度だけ、あなたに会いたいと言っていました。ここに来るまでにあなたの居場所を色々な方に聞きました。あなたのことを知っている方が沢山いました。長い旅を続けていたのですね。ですが、お願いです。最後だけ、せめて最後だけ、彼女に寄り添ってはあげられませんか? 彼女はあなたがいなくなってしまったことを酷く悲しんでいました。自分が無駄な策略をしたせいだ、と。あなたがいなくなってから、本当のツチイロさんは、強い後悔と傷心の奥に隠されてしまったのです。山椒魚さん、どうかお願いします。最後に彼女を、心から笑顔にしてあげてください」

 

 首を折るようにして頭を下げる鰻を見て、山椒魚は、ツチイロのことを思い出していた。まだ自分が若く、岩に引き籠って出て来なかった時に、糧食を用意してくれていた幼馴染み。自分を外に出すためだった、本当に嫌いだった彼女の考えも、今ではただひたすらの善意で出来ていたことがわかる。昔から世話になっておいて、少し傷つけられただけで今度は彼女のことを虐げる要因になっていただなんて、嗚呼、過去の自分は何て最低な山椒魚だったんだ! 山椒魚は目を下に向けた。

 

「僕ももう年寄りだ。昔のように早くは泳げない」山椒魚は強いか眼差しを鰻に向けた。「だけど、最善を尽くそう。可能な限りの速さで彼女の下に駆けつけよう。そうしなければならない筈だ」

 

「ありがとう、ありがとうございます」

 

「いや、例を言うのはこっちの方だ。こんな遠くまで彼女の願いを届けてくれて。では、時は一秒でも惜しい。僕はどう行ったら小川に戻れる。教えてくれ」

 

「今来た通り、このまままっすぐに行けば、大きな海の流れにぶつかります。それに乗ってください。右側ではなく、常に左側にいるのです。そうすればすぐに、あなたのよく知る光景を見つけることができる筈です」

 

「成る程、了解した」山椒魚は、大きく頷いた。「この子は、あなたに任せていいのか?」

 

「はい、大丈夫です。では、山椒魚さん、行ってください。間に合わなかったとなれば、私はあなたを許せないかもしれません」

 

「わかった。それではもう行く」

 

 山椒魚が立ち去ろうとした時だった。

 

「また会おうね! おじさん!」

 

 怖いものを知らぬような子供の声が山椒魚の背中に刺さった。

 

「あぁ、けど早めに会いに来てくれ。寄り道せずに。出来れば僕が生きているうちに」

 

 そう言って山椒魚は、老骨とは思えぬほどの速さで、海の流れのように泳ぎだした。振り返りはしない。ただ前だけを見て。

 

 一月が経ち、山椒魚は海流に乗り、それまでのおよそ倍の速さで北上して行った。二〇〇里程ほぼ地面に足を着けず、水中でのみ休息を取りながら泳ぎ続けた山椒魚は、一度海流から離れることにした。流石に疲労が溜まりすぎた。今日はもう少しも泳げない。一日だけ、一日だけ休もう。明日になればまた昨日と同じく泳げばいい。急かす心を説き伏せ、適当な岩の陰に身を潜ませようとしたところで、背後から聞き覚えのある声が聴こえた。

 

「おい、お前、まさか山椒魚じゃないか?」

 

「そう言う君は、蝤蛑じゃないか、生きていたんだ?」

 

「生きているに決まっているだろ、勝手に殺すな。俺を誰だと思ってるんだ」

 

 過去に一度したことがあるようなやりとりをして、おかしくなり、山椒魚は口角を上げた。一〇年以上振りにあった海で最初の友が何も変わっていないようで本当に嬉しかった。

 

「なんでお前はこんなところにいるんだ? 俺らに憧れて渡り山椒魚にでもなったのか?」

 

「何を馬鹿なことを。旅をしていたのさ。今は故郷に戻ろうとしている」

 

「こりゃ傑作だ。旅をする山椒魚何て初めて聞いた。いや、海に出た山椒魚もお前以外知らないが。俺の蟹生の中で、お前は一番頭のおかしい生物だぜ」

 

「それを言うなら君だって」

 

 山椒魚と蝤蛑は、同じ寝床で一晩中、自分たちが経験して来たことを語り合った。山椒魚は、自分の出会った愉快な仲間を、蝤蛑は、海で見たおかしなものと有る事無い事を交えて。夜が明けて、山椒魚の疲れも大分が落ちて、山椒魚が立つ時間になった。

 

「お前と二度も別れることになるとはな」と蝤蛑は惜しそうに目を伏せた。「早く幼馴染みの所に行ってやれ。今もお前を待っている」

 

「ありがとう、蝤蛑」山椒魚は柔らかい笑みを浮かべた。「できるならまた君と話をしたいものだね」

 

「もうすぐまた群れの大移動がある。そしたらまた会えるかもしれないな。もっとも俺がそれまで生きていたらの話だがな」

 

「君は生きているさ。十何年も生きている蝤蛑なんて君以外知らない。まだ何年も生きられるに決まっているさ。だからまた会えるのを楽しみにしているよ。じゃあね蝤蛑」

 

「おう、山椒魚、達者でな」

 

 蝤蛑との別れは、山椒魚にとって、涙が出るほどに悲しいものだった。しかし、再会の約束をしたのなら、振り返らずに別れるというのが、雄というものだ。山椒魚にとって、本当に、皺くちゃな顔を見られなくていいだけが、この別れ方のいいところだった。

 

 何日も経って、山椒魚は再び地面に降りた。ようやくであった。長い道のりであった。海流に流され続け、碌に休みも取れなかった時は、一時死をも覚悟したが、遂に故郷の河口付近の海に戻って来たのだ。この海には、一匹の老いた蛸がいた。山椒魚を旅に出させた張本蛸である。戻って来たなら、一度は会わなければならないと思っていたが、健在であろうか。山椒魚は、付近の岩の陰にいた一匹の蛸に話しかけた。

 

「蛸さん、少しいいかい」山椒魚は辺りを見渡し、「昔、この辺りにくだらない冗談を言う老蛸がいた筈なんだけど、知らないかい」

 

 蛸は目をパチクリさせ、「それはお爺さんのことですか? それでしたら、もう五年も前に亡くなってしまいました」

 

 山椒魚の体に電撃が走るようであった。まさか年寄り蛸が死んでいるだなんて、山椒魚は思ってもいなかった。あまりに思いがけなく、呆然と立ち尽くしてしまった。

 

「あ、あの?」蛸が山椒魚の顔を覗き込んだ。「大丈夫ですか? 顔色が悪いようですが」

 

「いや、問題ないよ。あの老蛸が死ぬなんて思ってもいなかったから、驚いてしまった。もう大丈夫だ。確かに年齢だった。仕方がないことだね。ありがとう、彼がいないなら、僕はもう去るよ」

 

 山椒魚が通り過ぎようとすると、蛸は触腕で山椒魚のことを捕まえた。

 

「待ってください」蛸は焦るように尋ねた。「もしかして、あなたが山椒魚さんですか? お爺さんから話を聞いています。もしそうなら、伝言も預かっています」

 

「そうだ、いかにも僕が山椒魚だ」

 

「それなら」と言って蛸は、記憶を探るように喋り始めた。「お前さんがここに戻って来ておるということは、この老体の言っていたことがわかったということかの。他を思いやる気持ちと他に思いやられる心は、本質的に同じものだ。打算的な考えから生まれるものでは決してなく、善意とも好意とも呼ばれるものだ。蛸は多子。今喋っておるその子も儂の子孫だ。もしお前さんがまたこの海に住むのだというのならば、仲良くしてやってくれ。だが、骨抜きにはならんようにの、蛸のように。以上です」

 

 最後の最後まで蛸らしい言葉だった。山椒魚の脳裏に薄れていた老蛸との会話が鮮明に浮かんで来た。全くあの蛸はどれほど多くのことを自分に伝えれば気が済むんだ。ほっほと笑う老蛸の顔が山椒魚の頭に思い浮かぶ。してやられた悔しさを持ちながら、山椒魚は小さく感謝の気持ちを呟いた。「ありがとう」

 

 山椒魚は川を上った。海で出会った物知りな蝉海老の言う通り、河口付近である程度時間を置いてから川を上った。塩の少ない所に慣れるための準備である。川から海に出た時は、あまりの遅さで体が勝手に海水に対応したようだ。海から川に戻ると、川に住んでいた頃にはわからなかった川の香りが山椒魚の鼻を纏った。山椒魚は、この川の形を忘れてしまっていた。成る程、鮭の長の言う通りだったと納得しながら、ある程度上流まで上っていく。途中で若い山椒魚を見つけ、道を尋ねた。その個体はまるで昔の山椒魚の映し鏡のようなやつで、自分の寝床の場所を忘れるなど馬鹿だと山椒魚のことを罵ったが、山椒魚は「君も海に出ればわかるよ」と昔鮭の長に言われた通りに若い山椒魚に教えを説いた。

 

 道がわかれば泳ぐのは速い。徐々に狭くなる川幅も浅くなる川底も気にせず、ぐんぐんと進んで行く。そして、見慣れなかった地形から、ようやく見覚えのある地形へ。海と比べてとても小さな、自分の世界の全てだった滝壺へ。自分が住んでいたこの空間だけは、自分の記憶とは殆ど全く変わらない形で残っていた。誰かが手入れをしなければ決してこうはならないだろう。ただ一つ違うのがあるとすれば、それは、岩屋の陰から出て小さく揺れる、土の色をした一つの尾ひれだけ。それに向かい、山椒魚は、ありたけの、胸いっぱいの気持ちを込めて、「ただいま、ツチイロ」山椒魚はツチイロに近寄った。けれど、直視することはできなかった。「遅くなってごめん。今まで海に行ってたんだ。川で体験できないようなことが体験できすぎたよ。ある蛸の教えでね、思いやりっていうのは、善意と好意で出来てるんだってさ。そしたらさ、君が僕にしてくれていたことは、本当に僕のことを思ってのことだったんだってわかって、そしたら、僕、君にどうしたらいいかわからなくなってさ。君は、あんなにも誠意を持って罪を償おうとしていたのに、僕はただ逃げていた。だから今から償わせてほしい。ほんの少しだけだけど、殆ど何も返せないけど、少しの間、君に側のいさせてほしいんだ」

 

 山椒魚は、顔を上げることができなかった。ツチイロとどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。暫く俯いていると右頰の辺りに何かに噛まれる感覚を覚えた。驚いて顔を上げると、そこには、久しく会っていなかった旧友がいた。山椒魚はいつの間にか自分が旧友より二回りも大きくなっていることに気づいた。昔は殆ど変わらない大きさだったというのに。ツチイロは、山椒魚を少し下から見つめ、本当に心から嬉しそうに微笑んだ。

 

「おかえり、マダラ」

 

 

 

 ツチイロが死んで一ヶ月が経った。悲しみに暮れて動けなかった山椒魚は、宵、ようやく岩屋から顔を出し、川を下った。河口付近で塩に慣れ、海に出た。どこへ行く宛もなく、ただ何も考えず、泳ごうとしたその時だった。

 

「おじさん!」と一匹の小さな魚が山椒魚にぶつかった。

 

「大丈夫かい? って君はあの時の――」

 

「坊主、丁度上手く会えたな」と乱暴な言葉遣いでやってきたのは、「蝤蛑じゃないか!」

 

「やあ山椒魚、僕も来たよ」と岩の陰から赤い生物が顔を出す。「蝉海老君! どうしたんだい、君たち、どうしてこんなに一斉に」

 

「上手いことお前を知ってるやつに出会ったんだ。この広い海で偶然な。お前、一体どんな旅をしていたんだ。お前がここにいるってことは、幼馴染みは、その、残念だったな」

 

「いや、仕方のないことさ。分別はついた。僕ももう寿命だ。だから死に場所を探そうかと思って川を出た所だったんだ」山椒魚は無理に笑おうと努めた。「だから、ここまで来てもらって悪いけど、君たちとはお別れだ」

 

「何を言っているんだい、山椒魚君」蝉海老が少し咎めるような声を発した。「話は蝤蛑君から聞いた。僕たちは君の側にいるよ。君がツチイロ君にしたようにね」

 

「ぼくもいるよ」

 

「蝉海老、鰻」

 

「勿論、俺もだ」

 

「蝤蛑も」

 

 何て嬉しいことを言ってくれるんだ、この仲間たちは。山椒魚にとって、それは初めての感情だった。顔を皺くちゃにしながらそれでも笑いたく成る程の嬉しさなど。

 

「僕、海に行って、本当に良かった。君たちと出会えて、本当に良かった!」

 

 山椒魚がそう言った途端、水面の遥か向こうに方で、明るく日が昇り始めた。絆を確かめ合った盟友たちの友情を祝福しているかのようであった。