哀憫の情でなく

 

れれれ

 

まるでギャグ漫画のような光景だ、と少女は思う。

 

 つい十秒ほど前に起こった、春を告げる突風。川にかかった橋の上は風がよく通る。肩ほどまで伸ばした髪を押さえた彼女の目の前で、少年は持っていたカードを飛ばされていた。

 

 ヒラリヒラリと宙を舞うカードが輝く水面へと吸い込まれ「あっ」と声を漏らし、足元の注意を怠った少年は足元の空き缶ですっ転ぶ。

 

 そうしてできた構図は、呆然と立つ少女の目の前に少年が横たわるという奇妙なもので、通行人はギョッと目を見張りつつ、横を通り過ぎて行った。

 

「えっと、大丈夫……ですか?」

 

 いち早く現実へと戻った少女が声をかけると、少年は目をそらし気味に大丈夫、ありがとうと返答する。見ず知らずの人の前で転んでしまったのだから、恥ずかしくて当然のことだろう。

 

 忌々しげに背後の空き缶を睨みつつ、鞄の土埃をはらう少年を見つめる。ある程度の埃が落ち、重そうな鞄をよっと背負って周囲を見渡すも、彼の目当てのカードは見当たらない。川に落ちて既に流されているのだから当然と言えば当然なのだが。

 

「手に持ってたカードを探してるの? それなら残念だけど、川に流されちゃったよ」

 

「うっ、そうだったか。わざわざありがとう、あーあ、またかぁ」

 

 はぁ、とため息をつきボリボリと後頭部を掻いて、彼はふと少女の後ろに広がる空へと目を向ける。少女もつられて振り返り、背後の夕焼け空を見上げた。

 

 彼の「また」という言葉から、何度も似たような目に遭っているのだろうとぼんやりと考える。なんとも不幸な――不幸?

 

「坂口透、くん?」

 

 学校一不幸体質少年、坂口。数日に一度は必ず何か酷い目に遭うという同級生がいる――そんな信じ難い噂は彼女もうっすらと聞いたことがあった。

 

「うん? そうだけど、そっちは……?」

 

 背後を振り返らずとも、困惑しているのが感じられるほど焦った声だった。誤解を解こうと急いで言葉を紡ぐ。

 

「あぁ、私が一方的に知ってるだけなんだ、初めまして。私は小林珠理という者です」

 

 たしか隣のクラスだったよね? お見知り置きを。くるりと向き合い、夕日を背後に微笑む珠理の姿は、どこか神々しかった。

 

 

 

    ◆

 

 

 

「坂口くん、これ消毒液と絆創膏ね~。ハイ膝を出して!」

 

 まだ夏の余韻が残る中庭で、慣れた手つきでテキパキと傷口処理を始める珠理。初めはおぼつかなかった手つきだったはずなのに、そうさせたのは自分のせいかと透はため息をつく。

 

 出会って以降、珠理は透の不幸現場へやって来てはこうして世話を焼く。二、三日に必ずどこかに傷を作る彼にとってはとてもありがたいことだったが、彼にとっては「恥ずかしい現場」に居られるのはとても気まずい。

 

「放っておいても大丈夫」とか「気にするな」と言っても、心優しい珠理は「化膿したら大変だし」「消毒液を使いたくて腕がうずく」と、強引に言い訳をして処置をしたり後始末の手伝いをしてくれる。

 

 よしできた! と声がする。モヤモヤした思いを押し込めている間に、処置を終えたらしい。

 

「じゃあ帰ろう」

 

 優しげにかけられた言葉に、ああ、とぶっきらぼうに返した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 当たり障りのないことを話し、ふと気がつくと、あの橋の上へと来ていた。

 

「そういえば、初めて会ったのもこの橋の上だったよねえ、懐かしいなぁ。急に目の前で転んでびっくりしたんだから……

 

 ハハと笑う珠理を見、懐かしさを感じながらも、再び気まずい思いを抱く透。言ってしまうなら早めがいい。

 

「あのさ、小林さんは優しいから、同情してくれてるだけだろ。これ以上迷惑をかけるのは俺が心苦しいんだ。だからこれから、もう気にかけなくていいよ」

 

 今までごめん、ありがとう、と、謝罪と感謝の思いを伝える。「俺が嫌だ」という言葉を使えば、心優しい彼女は反論することはできない。これで心苦しい思いから解放される、と思っていた。だが不意に発された「違うよ」という言葉を、透の耳は拾った。

 

「私があなたのことを気にかけた理由、同情なんかじゃない。もっと違う理由」

 

「じゃあ何だってんだ?」

 

 少女の返答を待ちつつも目線を合わせないように、少年はあの日と同じ橋の上で、以前より赤みを帯びた夕焼け空へと目を向けた。あの日と違うところと言えば、少女が少年を見つめていることだろう。手をぎゅっと握りしめ、耐えるようにしながら少女は口を開く。

 

「露骨に態度に出してたってのに、もう。言わせないで」

 

 その言葉にようやく少年は、夕焼けに負けないほど顔を染めた彼女を見た。その瞬間に広がる、甘く都合の良い考えへと蓋をする。そんなはずがない、良いように勘違いしてはならないと言い聞かせる。

 

 今度はやや下へと目をそらす透へ、珠理はゆっくりと歩き出す。透の隣に着いた彼女は、自らの手を透の肩に置いて背伸びをし、彼の耳元で囁いた。

 

 両者は一瞬のうちに顔を赤らめ、夕日はスポットライトのように二人を照らす。両者が押し黙ったその場には風もなく、ただひたすらに赤のみが残っていた。

〈愛情〉