明日を見る君へせめてもの華を

 

 《1》

  

 

歯痒い。僕という存在が酷く、矮小なものに見えて仕方がない。

 

ああ。本当に。退屈だよ。こんな無益で無臭で味のない人生。この絶望的な暇を、誰か埋めてくれないだろうか。そんな奴はいないから、ただでさえ薄っぺらい日々が薄さを極めていくんだろう。つまらない。なにか。面白いことでも起きないだろうか。部屋の外が見たくなって、開け放たれた窓の方を向いた。哀れな僕を嘲るように、やけに穏やかな風が吹く。

 

鳥の声が聞こえる。蝉の声が聞こえる。道行く人の話し声が聞こえる。全部が僕に向けた嘲笑に聞こえる。誰でもいいから、僕になにかを見せてくれないだろうか。それが楽しくても、苦しくても、嬉しくても、悲しくても、希望でも、絶望でも構わないから。

 

僕に。会いに来て欲しい。僕の。声を聞いて欲しい。僕が。まだこの世に存在していられるように。僕を。最期まで見ていて欲しい。身勝手な弱者の、果てしなくどうでもいい願い。

 

きっと神様は聞いてくれないだろう。

 

 

 

 《2》

 

 

 

夏の序盤に始まった入院生活は、やっと二週間を過ぎた。不味い病院食の味には慣れて、左隣のベッドで眠る老人の口臭といびきにもすっかり免疫がついて、時々あるナースの冷たい言動にも目を瞑れるようになった。毎日退屈ではあるけれど、やってられなくなるほど不快なことはない。残り二週間と僅か。あと半分。――早く過ぎろと祈るばかりの日々。

 

そんなある日。得体の知れない男の子――彼がこの病室にやって来た。見た目の印象だけでいえば、彼は中学生の私とそう年は離れていなさそうだ。病状は非常に悪いようで、自力では上体を起こすのがやっと。ほんの些細な動作でさえ、看護師の補助を求めている。比較的症状が軽い人が集められたこの病室において、彼の存在は殊に異様に映った。

 

その上彼は、全く理解できないが、執拗に他の患者と喋りたがる。話の内容は専ら、聞いてるだけで眠くなる世間話に赤の他人の身の上話。私にとって蚊の涙ほども興味が湧かない話題だが、話している彼は楽しそうに、生き生きとしている。数日も経たぬ内に彼のことが気になった。好きという意味での「気になる」じゃなく、むしろ逆。負の意味での「気になる」。

 

自分と違うだけで不愉快とは、私は酷い奴だと思う。もしかしたら単純に、誰とでも関わりを持てる彼への嫉妬かもしれないが。でも本当は。言動なんて関係なく、私的なストレスを思い切りぶつけても、心が痛まない人を探していたのかもしれない。

 

彼が疎ましい人間であることは、八つ当たりの大義名分。私の身勝手な理由によって、彼は気になる人に成り下がった。そう考えるのもあながち不正解とは言えない。

 

ここまでが、前置きで。私は勇気を出して彼に八つ当たりしてみることにした。

 

けれど彼は朝からぐったりとしていて、誰とも言葉を交わしていない。話し飽きたのか知らないけど、最近は、八つ当たりする上で要求される冷酷さが増加しているのが悲しい現状。

 

とはいえなにもしなければ、あっと言う間に退院の日が来る。私の意地悪な部分が、それはダメだと固く拒絶する。下らないと言ってしまえばその通り。そうと知りながら、葛藤する私。私は今どんな顔をしてるんだろうと、少しだけ気になる。

 

「僕に話しかけようか否か、迷っているのかい? そんなことせずとも、僕ならいつでも君と話す準備ならできているよ」

 

 唐突に。彼が喋り出した。思わず数回、私は目をぱちくりさせる。そして突然彼は笑い出す。……それがあまりにも不気味で、背筋に悪寒が走った。

 

「ごめんごめん。びっくりした? 君の態度があまりにも分かりやすいから、込み上げてくるものを抑えきれなかったよ」

 

 改めて思う。やっぱりこの人、むかつく。気障な喋り方とか、妙に大げさな手振りとか、声とか顔とか存在そのものが。私の神経を逆撫でしてならない。

 

「不機嫌そうな顔してるけど、僕気に障ること言ったかな? それとも、もしかして君、そもそも僕のこと嫌い? いつもうざそうに見てるもんね?」

 

 ……見透かされている。寒気がするほど完璧に。私はそれに動揺して、『図星です』と顔に書いてしまった。そしてまずかったと後悔する時、決まって事態は既に手遅れなのである。

 

「図星……かな? 正直言ってショックだよ。冗談半分で鎌をかけてみただけのつもりだったのに、まさかそれが本心だったなんてね。退院を数週間延ばされた気分だよ」

 

 実に不愉快な言い回し。頭に血が上る感覚が、手に取るように分かる。

 

「あんたさ、言い加減にしなよ。その喋り方、ものすっごい苛々するから止めてくれる

 

 とうとう言ってやった。まだ言いたいことの四分の一にも満たないが。頭の中に棲み着いたモヤモヤが、黒から灰色になるくらいにはスッキリした。あいつは目をぱちくりさせて、完全なる奇襲となった私の口撃に驚愕している。いい気味だ。勝ち誇った笑みをあいつに向け鼻で笑ってやった。するとあろうことかあいつは、いつにも増していやらしく笑った。

 

「やっと喋ってくれるのか……君との会話を、僕がどれほど待ち望んだことか。さあ、思う存分思いの丈をぶちまけてくれ」

 

……そういうのがキモいんだけど。しばらく黙ってて」

 

なにがおかしいのか、私の顔を見ながらあいつは声を出して笑う。きっとあいつは、私を挑発して楽しんでいる。でなければ、人が怒ってるのを見て笑ったりはしない。

 

それなら黙っておけばいいだけ。それが多分、あいつにとっての嫌なことなんだろう。

 

「おいおい、黙ってないでなんか喋ってくれよ。……あ、もしかして、僕が構って欲しくて君を挑発していたのに気付いてしまったのかい

 

 そして案の定。あいつは構って欲しかっただけだった。……しかも、自分から明かした。

 

「ああ……やっぱ喋ってくれないのかー。残念」

 

 そう言ってあいつは、静かにまたベッドに寝転がった。するとここで、不可思議な現象が起きる。やっと面倒な奴がいなくなったという安堵するより、なぜか視線をベッドの方に向け、そのまま彼の寝姿に見入ってしまった。まるで、遊び疲れて寝入る子供のようで。人生に疲れ果てて永遠の眠りにつく、屍のようでもあった。そんな彼を目の当たりにして渦巻く、直感的な意味不明の感情。嫌いなはずなのに、ただの鬱陶しい奴なのに。――なぜかそんな奴のために次々と、湧き水の如く心の底から憐憫が溢れ出る。

 

……要らない。持つべきじゃない。こんな感情。興味なんかない。知りたくもない。あんな奴のことなんて。だったら。あいつのことなんて、見えてないふりをすればいい。

 

 

 

 《3》

 

 

 

無味乾燥な日常を終わらせたい。その一心で僕は一つ、看護士に希望を出した。願いを聞いた看護士は、僕の家族と相談すると言って病室を去った。それから数日後。

 

案の定実に呆気なく、僕の願望は現実となった。まあ当然だ。なんせ患者自ら高コストで好環境の個室から低コストで悪環境の大部屋に移りたいと言い出したのだから。我ながら中々に、孝行なことだ。別に親族の負担を減らしてあげたいとか、そんな崇高な目的で部屋を移った訳ではないが。可哀想な僕へのせめてもの気遣いを踏みにじることにはなったが、向こうもきっと無駄に家計を食う入院費が大幅に軽減されて少しほっとしていることだろう。どうせもうすぐ一円も払う義務はなくなるけどね。

 

まあ、大雑把に言うとこんな背景があって開幕した念願の大部屋生活なのだが。

 

序盤はかなり順調に思えた。朝日が昇って夕日が落ちるまで、看護士と短い会話を交わす刹那的な時間以外は退屈で仕方なかった日々は終わりを告げ、気の済むまで隣人と言葉を交わすことができる、一見して孤独とかけ離れた生活が幕を開けたのだから。随分と久しぶりに、快楽を生じるホルモンが分泌されている気さえした。最も、感情を司る化学物質の気配すら個室にいた頃は感じなかったのだから、それに比べれば生への実感は雲泥の差だ。

 

単純に言えば、楽しかった。記憶から失われかけていたそれを、およそ二年ぶりに思い出せた。でも、決して恒久的な喜びではなく。人生という名のぶ厚い辞書の、ほんの一ページのたった一行の僅か二文字に過ぎず、数回夜を明かせば掻き消える果敢ないものだった。

 

なにも考えずに他者との談話に興じれば、まだ多少は救いがあったかもしれない。僕に構ってくれる彼らの、漏れ出る僕への哀れみさえ感じなければ。しかし本来問題はないのだ。他者と会話がしたいという欲求は果たされ、孤独を感じる理由はない。だって僕を哀れみ、構ってくれる人がいるから。悩む必要も道理もないのだ。

 

きっとそう思えれば幸せだから、僕は一切合切黙殺して、残りの日々を愉しめばいい。

 

僕が現実を憂うなんて、それこそ無意味で非生産的。そうやって時間を浪費する内も、僕の全身に棲み着いた異端者共――やがては寄生している僕そのものを喰らい尽くし、自らをも滅ぼす顛末を迎える思慮なきモンスター、悪性新生物。世に言うガンは進行を続けているのだから。悲劇の主人公じゃない。少なからぬ誰かがそうなるから、三大死因に数えられる病なのであり、僕以外の誰かが明日そうなるとも知れない世の中なのだから。

 

だから不毛な苦悩など忘れて、僕に与えられた時間を精一杯華々しく生きるのだ。

 

そんな日々の中に、一人。不思議な少女を見つけた。他となにが違うのかと言えば、僕に一切興味を示さず。僕への悲哀に類する情を、欠片も持ち合わせないのだ。それだけでもう興味深いのに、なんと彼女は、ことあるごとに僕を疎ましげに睨み付けてくる。それが特に顕著なのは、僕が誰かと話している時。というかその間だけ、彼女は僕への憎悪を露わにする。そんな面白い奴に、興味を持つなと言われても酷な話だ。

 

欲望に忠実な人間である僕は、彼女と会話することを試みた。まあ、結果は当然、そういうのがキモいとの苦情を頂戴して終わることとなったが。あの瞬間だけ、素直に文句を言われた瞬間だけ、長らく僕の常識から抜けていた、他者との対等なやり取りが成立していた。

 

もっと話がしたい。でもそう思うのは僕だけで、彼女はそれに応じない。残念過ぎて笑いそうだが、僕のことが嫌いで、僕が彼女に疎まれるような発言しかしなかったから仕方ない。

 

挑発して会話を続けようとしたのが、そもそもの間違いだったのだ。どうやら僕は、もうすぐ二年になる入院生活の中で、ごく簡単な人との付き合い方も忘れてしまったらしい。

 

そしてそれを思い出させてくれた、たった一度の、受け答えと呼べるのかすら怪しいやり取りもどき。それを恋しく思いつつ、感謝して。もう二度と。その日以上の喜びは訪れないと諦観しながらも。普通みたいな、限りなく人並みに近い今日を求めて。醜くとも僕は生きる。

 

 

 

 《4》

 

 

 

入院生活も残すところ二日。リハビリは順調に進み、動作にほぼ支障は残ってない。明日にでもいつもの日常を送れと言われても、多分可能だ。あいつは相変わらずで、むしろ以前よりも積極的に、楽しげに談笑するようになっていて、一度でも心配した私が馬鹿らしい。

 

でもなぜか、あいつになにも告げずに退院するのは、何かし忘れていることがあるような気になる。直感的の一言に尽きるその感覚は、容易に説明させることを許さない。強引に自分を納得させようとしても、試みは不完全燃焼のまま終わり、心に不愉快な靄がかかったままになる。そのわだかまりを解消するためだけに、あくまで私のためだけに、別れの挨拶くらいしておきたい。

 

嫌なことはさっさと片付けて忘れたい。嘆かわしいことに、あいつならいつでも私の隣にいるんだから、挨拶のタイミングなんて作ろうと思えばいくらでも作れる。

 

……でもやっぱりまだ、その覚悟を決めきれない。あいつと極力接点を持ちたくないのは勿論のことだが、それよりもなによりも。単に気まずいというのが最もな理由。前みたいにあいつから喋りかけて欲しいと、願い始めている私を否定しきれない私が恥ずかしい。

 

そんなことを考えていると、無意識の内にあいつの方をずっと眺めている。なにかとおぞましいあの男のことだ。もしかするともう、以前の例に同じく、私の懐の奥など探り尽くした後なのかもしれない。……極力そうあって欲しくないけど。

 

「またなにか言いたげな表情だね。もし僕が気を害したのなら、先に詫びておくよ。ごめん」

 

またも思考を読まれたのは想定の範疇ながら底気味悪かったが、今度に限って、そんなことは重要度が低い案件と捨て置かざるを得ない。だってあいつが。未だに信じ難いけど確かにあいつが。謝罪という名の、固定観念の遥か外からの奇襲を仕掛けてきた。

 

「おいおい、勘弁してくれよ。まだ僕変なこと言ってないだろ? それとも、そんなに僕って嫌がられる要素が滲み出てたりするの

 

 ……あいつはいつになく弱気だ。一体どんな心境の変化があったのか、皆目検討も付かないが、拍子抜けですっかり毒気を抜かれた。正直言うとまだうざいが、弱り切った彼にさらなる追撃を加えるほど私は無慈悲じゃない。無駄話に付き合ってやるほどお人好しでもないが。この場を去ることくらい、言葉で知らせておきたい。躊躇う私を押し切って発声する。

 

「……別に、怒ってない。私あさって、退院だから、報告くらいしとこうと思って」

 

 彼は数回瞬きして、呆気に取られたように私を見つめる。あまり目が合うと気まずいのでやめて欲しい。でもその行動は、あいつを少しでも驚かせられた証拠であり、ほんの意趣返しにはなったようで微かな嬉しさもある。

 

「ごめん。まさか君からお別れを言ってもらえるなんて思ってもみなかったから、少しばかり驚いてしまったよ。退院おめでとう」

 

 ああ、また。彼には一方的に翻弄されてばかり。当然の如く彼が口にしたおめでとう、という日本語は、もし他の誰かが言うなら当たり前で、簡単に流せる些細な言葉なのに、嫌な奴という地位が確立している彼が言うことで、流通の少ない商品に高値が付くのと同じ理屈で、価値が格段に跳ね上がって俄かに感動すら覚える人間の心理は、皮肉が効いたものだ。元より彼の扱いは不安定だったが、今回でそれはさらに深刻なものとなった。

 

言語化が難しいが、強いて言うならまるで、喧嘩別れした友人がある日唐突に親し気な態度で接してくるような、否応無しに不信感を抱かせられる甚だしい違和感だ。

 

後腐れなく退院するつもりで行ったことが、意図とは真逆の方向に作用している。これが結末なら、概ね確実に後悔を残す。そうは言っても、特にあいつに話したいことなどない。

 

好きか嫌いかで聞かれたら断然嫌いだし、関わりを持ちたい訳じゃない。幾重にも折り重ねられた感情が、相互に矛盾して複雑なもどかしさを生じている。解りにくい比喩だが、まさしく今の私はそんな状態だと明言できる。無闇に思案を巡らせても、分からない時は。せめて私に相対する彼を、普通の人間として扱わせてあげることが最適なんだと思う。

 

 それならまず、すべきことがある。嬉しいことを言われたのに、礼の一つも言えてない。

 

……ありがとう。あんたも早く退院できるといいね」

 

 彼は一瞬だけ訝しげに眉を顰めて、ため息混じりにくすりと笑った。

 

「溜めの長いありがとうだったね。十数年生きた中で、あんなのは初めてだったよ。本当に君は、面白い人だね」

 

 なにが面白いのかさっぱり分からないし、言い回しが馬鹿にしてるみたいで腹が立つ。でも、悪意があって言ったのではない。そう思うことにして、話下手な変人を許してやる。

 

「ところでなんだけどさ」

 

 若干の緊迫を孕んだ音が響いた。ここにきて話題の転換。彼はまだ会話を続けたいらしい。

 

あまり好かないのは変わりないのに、それを自然に受け入れている私がおかしい。

 

「君、退院したらなにがしたい

 

 退院したらなにがしたいか。早く出たいと単調に祈り続けてはいたが、思えば退院後の展望などは考えてすらいなかった。他人に言われて初めて気付くことはよくあるが、今回もまさにその一つだろう。話が長くなりそうな気はしていたが、まさかここまで他愛ない話題が振られるとは思いもしなかった。でも不思議と、拒絶感はない。

 

「私の事情なんか聞いて、なにが楽しいわけ? 暇過ぎて頭おかしくなっちゃったの

 

「……辛辣だね。まあまあ、暇過ぎて気が狂った病人と話せる機会なんて滅多にないんだから、もっと僕をありがたく扱ってくれても損はないと思うよ」

 

「そんな無益極まりない機会、こっちから願い下げなんだけど」

 

「そうつれないこと言わずに。どうせ君も暇なんだからさ」

 

大まかには最初とずっと変わらない調子で、日が暮れるまで馬鹿馬鹿しいやり取りに興じて時間を潰した。元々意味のない時間がさらに不毛なものに変わっただけ、という理由が大部分を占めていそうだが、無駄な時間を過ごした、とはほとんど思わなかった。

 

もし彼が明日いなくなっても。他人だと割り切ってなにも思わずにいられるだろうかと、ふと私に問うてみた。すぐに私は返事をした。――答えは否。

 

親しくなったつもりは勿論ないし、お互いの名前も聞いてないままなのに、既にあいつは他人ではなくなったらしい。たった一回、暇潰しの相手になってやっただけなのに、本当に厚かましくて、実にあいつらしいことだ。もう鬱陶しいとは、思えないみたい。なんだか彼の思うがままに、掌の上で踊らされているような気がすると思うと。

 

そんな私が情けなくて、溜め息を吐かずにはいられなかった。

 

 

 

   《5》

 

 

 

日に日に精彩を欠いてゆく僕の日常。最近は病魔の侵食が如実に感じられ、僕の前途がそう長いものではないのだと、僕の肉体が動作の節々から、痛切に訴えてかけてくる。しかし肉体が死にかけてきているにも関わらず、反比例的に毎日がかけがえなく、愉悦多きものになっていく。

 

特に昨日は豊作で、もう喋ることなど叶わないと思われた少女との会話に成功した。面白いことに彼女は、僕への嫌悪感を残したまま、哀れみでも義務感でも、友情でもないなにかに駆られ、僕の話し相手を買ってでてくれたのだ。そしてそれからの数時間が。入院生活における最上の悦楽に浸った数時間であることは、最早言うまでもないだろう。

 

 なにげない日常の話。ありふれた世間の話。あたりまえの未来の話。それらは全て、閉塞的な空間に囚われ生きる僕にはどんな創作物より楽しめる娯楽であり、喉から手が出て腕が生えそうなくらいに渇望するものだ。

 

そしてなにより、彼女がいること。これが僕を不用意に日常に興じさせ、世界を目に優しくない色彩で氾濫させて虜にする原因で。同時に、見ないふりをしてきた生への執着心を増幅させる最もな原因でもある。

 

 明日が。明後日が。一週後が。一月後が。一年後が。遥か先の数十年後の未来が見たい。

 

この上なく非合理的で自分を傷付けるだけの、百害あって一利ない愚かに過ぎる欲望が止めどなく滂沱と溢れ出て。僕を騙し続けてきた穏健で賢明な僕を殺し、騙され続けてきた方の過激で愚劣な僕を暴走させる引き金になってしまった。

 

だから昨日が。今日が恋しく。明日が迎えられるだろうかと、弱った心臓にさらに負荷をかけることを強制されねばならなくて。なんの所縁もないに等しい少女の存在に耽溺し。彼女が退院する明日を想って、独善的な事情で生じた寂寞に、汚らわしい涙を流すのだ。

 

どうしてこんなにも君は酔狂なのか。僕に殺されて亡霊にされた利口な僕が、脳みそをぐちゃぐちゃに掻き混ぜ、心臓を掴んでギリギリと締め付け、愚かな僕を拷問する。

 

なぜそんな馬鹿な希望を抱くのか。愚鈍な僕は分からないの一辺倒で、苛立った僕の亡霊はもっと苛烈に僕を嬲る。ああ。――嫌だよまだ。まだ死にたくない。消えたくない。

 

「なんで泣いてんの? 私がいなくなるのが恋しいのか知らないけど、気持ち悪過ぎ。非常に不愉快だからやめてくれない

 

 退院前日。現在午前八時半を過ぎたところ。朝が弱いのか、生意気な少女はついさっきまで鼾をかいていた。彼女を見ながら涙していた僕にも非はあるが、これはさすがにない気がするので、少々反駁させていただく。

 

「君ねえ、人が泣いてんのにその言いようはデリカシーが欠如していると思わない? まず君がいなくなるから僕が泣いていたと自然に思ったなら、それは自信過剰と言わざるを得ないよ」

 

……うるさい。病人は病人らしく大人しく寝てろよ。どうせ私の寝顔とか見てにやけてたんだろ、変態」

 

「いっそ病的な被害妄想だね。退院後は精神科に入院することをお勧めするよ」

 

「もうさっさと死ねよ重病人。あんたみたいなの誰も必要としてないよ」

 

「はは、酷いや。さっさと死ねなんて、既に現実になりつつあるのに」

 

 突如少女が青褪めた顔で、声色を急変させて言った。

 

「あ、ごめん……別に私、そんなつもりで言ったんじゃなくて……

 

 少女に安売りされた軽口の応酬に、安易にのったことを後悔する。軽口と知りながら、死に敏感になっている今、過剰に反応して涙まで流してしまったらしい。

 

「別に、気にすることはないよ。それよりなにか、別の話をしないか

 

 急いで僕はフォローに回った。しかし声が震えていたせいで動揺が伝わってしまい、余計に少女に引け目を感じさせる結果となってしまった。

 

「ごめん……ホント、ごめん……

 

 半泣きになりながら、少女は言う。ああ、こんなにも些細な道理で、芽生えかけた人生最後の縁は崩れてしまうのか。せめてもう少し。小さな願いの欠片でも、叶えてあげたかった。

 

 

 

 《6》

 

 

 

 退院当日。親が迎えに来るまで残り二時間弱。待ち望んだ日が訪れたのに、頭にあるのは昨日のことばかり。彼を泣かせたことは勿論悲しい。もっと辛いのは、彼の命が残り僅かと知ったこと。憎まれっ子世に憚るというように、彼もその例に漏れず、憎々しくこの世にのさばり続けると思っていたのに、いざ真逆の現実を知ると、まざまざと絶望感が込み上げる。

 

私は彼をどう思っているのか。気付けばまた分からなくなっている。

 

 人付き合いが苦手な私は、恋にも友情にも縁がなかったもので、彼に抱く情がなにに類するものなのか分からない。けれどなにか大事なものだと、漠然とした確信だけはある。

 

 胸の奥の苦しみが、判然とそれが真実なのだと宣する。だから。せめて最後まで。

 

 伝えたいことを伝えたいだけ。――それが私の、私のための願いごと。

 

……ねえ。ちょっとだけ、お話しない

 

「勿論、良いですとも」

 

待ち望んでいたかのように、ためらいなく彼は応じた。それから話したことは、感情的になりすぎてあまりよく覚えていない。ほてりが冷めるまで、私の中で渦巻くもの吐き出しただけ。

 

『また今度、見舞いに来てくれよ。近い内に』

 

別れ際に彼が何気なく言った言葉に、私は心を囚われた。普通の生活に戻り、学校で忙しくしていてもずっと。

 

 

 

 《7》

 

 

 

 病院の応接室で一人、一通の手紙を握り締め、床に塩辛い水溜りを作っている。この紙切れはさっき看護士に渡された、名前も知らない貴女宛てに、なんでもない僕からの手紙。

 

 妙に気障ったらしい言い回しは確かに、私が知る彼のもので間違いない。そもそもなんで手紙かと言えば、この病院に彼はいないからだ。彼はもうどこにも、強いて言うなら今彼がいる住所はこの世のものではない。

 

 そう、彼は死んでいたのだ。私がくる二ヶ月前にはとっくに。きっとあの時、早く見舞いに来て欲しいと言われて、直感的に裏に隠した言葉を聞き取っていたんだ。僕はもう長くない。一度でいいから生きて会いたい。という言葉に。

 

 震える手で書いたのだろう、書かれた文字はまるで小学校に入りたての子のそれに似ている。字汚くてごめんと、表紙に整った字で記されている。おそらくここだけ、看護士あたりに書かせたのだろう。そんなセンスのないユーモアも、今となっては笑うことすら出来ない。涙が落ち着いてきたのを見計らって、少しずつ文面に目を通していく。

 

『お元気してました? 僕はもうすっかり元気ですよ。うっかり体が風になっちゃうくらいにね。きっと貴女は今頃号泣してくれていると信じて、この手紙を書きます。

 

最近学校はどうですか? 絶対テストで赤点取ってますよね? 友達とは上手くやれてますか? 少ない友達は大切にね。彼氏はできましたか? まあ無理でしょうね。

 

不器用な貴女のことですから、きっと願いごとはたくさんあると思います。でも全部叶えられる人なんて、この世界にはいません。その内の一つでも叶えば、その瞬間日々は華々しくなっていきます。いずれはその願いも価値を失って日常に取り込まれ、また別の願いができる。煩悩を捨て去れなんて、人間には無理な話です。

 

貴女には叶えられる小さな願いをたくさん叶えて、やがて巨大な野望を現実のものとして欲しい。けれど天の国か地の牢獄にいる僕には、それを手伝うことも、聞いてあげることすら叶いません。僕が人生に残した、唯一の心残りです。ですから僕は祈ります』

 

性懲りも無くふざけた内容なのに、それなのに、言葉が出てこなくて、その代わりに。

 

文末に書かれてあった文言が脳内で木霊して、木霊する度に涙が溢れる。

 

明日を見る君へせめてもの華を。