初恋の面影

 

 私はふと、上のベッドで寝ていた相部屋の男が、ぎしぎしと音を立てながら――それでも音を立てないよう気を付けてはいるのだろうが――降りる音で目を覚ました。

 

「申し訳ない、起こしてしまいましたか?」

 

 男は私が起きたことに気付いたらしく、申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「いえ、私も慣れないベッドのせいか、眠るか眠らないか中途半端なところでした。あなたのせいばかりではありませんよ」

 

 男は安心した様子で「そうですか」と答えた。

 

 この男というのは、二十代後半か三十代前半くらいの、中肉中背と言うには少し痩せた男だった。痩せ型の体型が若く見せるだけで、本当はもう少し年上かもしれない。最初に会ったときはスーツを着ていたので――今は備え付けの浴衣を着ている――この寝台列車に乗っているのは仕事のためなのだろう。

 

「お互い寝付けないようですし、いっそ二人で語り明かしますか?」

 

 私がそう提案すると、男は同意して部屋の明かりを点けた。月のない夜は、語り合うだけにしても少々暗かったのだ。私は下のベッドに座り、男はライティングデスクの椅子に腰掛けた。

 

 

 

 互いに会社勤めと分かると、当然仕事の話になり、次いで家族の話になって、仕舞いには思い出話になった。特に盛り上がるのは恋愛の話である。男は自身の初恋について語った。

 

「今になって思えば、あれは恋心ではなかったのかもしれません。ですが、当時はこの感情こそが恋なのだと信じていましたし――なによりあれが恋でなければ、私は未だに恋をしたことがないことになります。

 

 彼女と出会ったのは、中学一年生の頃でした。私の中学校は二つの小学校から子供が来ていて、彼女は私とは違う方の小学校に通っていました。それで、中学に上がったときに初めて同じクラスになったのです。第一印象は、賢そうな人だ、という程度のもので、まだただの同級生に過ぎませんでした。唯一の恋の始まりがそんなですから、私は一目惚れというものが信じられません。初めの何ヶ月かは、特に彼女のことを意識することなく過ぎました。

 

 私が初めて彼女を意識したのは六月の末、テスト中のことでした。確か雨の日だった気がするのですが……ああ、もうそんなことも思い出せないとは。勉強が得意とは言えなかった私は、問題を解く手が止まってしまいました。そのとき、ふと教室を見回したのです。後になって考えれば、カンニングを疑われても仕方がなかったのですが、幸い試験監督の先生は気付かなかったのでしょう。私の目は、ペンを走らせ続ける彼女を見て止まりました。そして『ああ、この人だ』、と。その『この人だ』が何を意味するかは明確ではありません。腑に落ちたというか、しっくり来たというか。恋に落ちたのとは何か違う気も、しないではありません。

 

 人が誰かを好きになるとき、必ずその人のどこかを好きになるのです。その人の何気ない優しさであるとか、頬杖を突く姿であるとか。そうしてこの人のここが好きであるというのを積み重ねた結果、いつの間にかその人全体を好きになっているのです。ですから、その日までに、私の中に彼女への好きは積み重ねられていて、テスト中の発見は最後の一押しでしかなかったのでしょう。

 

 それから私は、ことある毎に彼女を目で追うようになりました。よくある話です。席替えで丁度良い位置関係になった月は、授業中ずっと彼女のことを見ていました。彼女を見るために学校に通っていたと言っても、何ら過言ではありません。

 

 彼女は私と違って頭も良く、運動ができ、音楽や美術といった芸術科目もそつなくこなしました。その上優しくて、誰にでも分け隔てなく接していました。少なくとも私にとって、彼女は完璧な人間でした。私の色眼鏡越しでの認識ですが、私は彼女以上の人間を見たことがありません」

 

 いつの間にか、東の低い空に半月が見えていた。男が黙れば、車輪が線路の継ぎ目を越える音だけが耳に入る。しばらくの静寂の後、男は再び語り始めた。

 

 

 

「彼女が夢に出たことが二回だけ有りました。どちらの彼女も制服を着ていました。私は制服の彼女しか知りませんから。夢に出た回数は憶えていても、どんな夢だったかはもう思い出せません。夢はただでさえ忘れてしまいやすいのに、過ぎた歳月が余りにも長い。もう彼女にまつわることもずいぶん忘れてしまいました。あの頃の日記には毎日のように彼女の名前を書いていたのに。

 

 彼女のことを忘れたと言うことは、彼女を好きだった私が死んだということであり、彼女を好きだった私を裏切ったということです。私は人殺しです。裏切り者です。私は自分が人殺しで裏切り者であることさえ忘れて生きてきたのです。……私がこの列車に乗っているのも、その罪を思い出したからなのです。駅の広告の女子高生が、不意に彼女に見えて、それで、家族には急な出張が入ったと嘘をついて、この旅に出たのです。

 

 しかし、私の罪もある意味でいわゆる原罪のようなものなのだと、高校生の頃に気付いていました。人は久しく会っていない人に恋をし続けることができません。大抵の人は、頻繁に相手に会って、自分はその人のことが好きなのだと確認しなければ、みるみるうちにその人の像が薄れてゆくものです。像が薄れないとすれば、それは新たに像を作り続けているからです。現実を見ずに作り上げた像は現実からずれていき、現実の相手が偶然にも像と一致しない限り、再会したときに像と現実との差に愕然とするでしょう。それでもなお好きでいられるはずがありません。これは、友情だけでなく恋愛にも言えることです」

 

 

 

 

 

 列車は長いトンネルに入った。列車の発する音が反響して、轟々とうるさい。男は感情の昂ぶりからか、トンネルの中がうるさいから聞こえやすいようにとの配慮からか、少しばかり声を大きくして続ける。

 

「私と彼女の間に、遂に進展はありませんでした。彼女と付き合いたいとは思いましたが、当時の私の『付き合う』という言葉には、具体的な意味が伴っていませんでした。つまり、想い合っている男女がするもの、という程度の認識だったわけです。当時の願望を正確に述べるなら、彼女も私のことを想ってくれているなら嬉しい、といったところでしょうか。

 

 告白しようと思ったことは何度かあります。でも、振られるのを確信していました。こんな何の取り柄もない男が彼女と付き合うなんておこがましいし、彼女が頷くなんて有り得ない。断り方を考えるのに時間をとらせては申し訳ない。万が一彼女に告白されても、あなたと私は釣り合わないからと、断るつもりでさえいました。私は、彼女には好きな人がいないと、人づてに聞いただけで満足でした。彼女は誰にも汚されていないのだと思えたからです。卒業以来、彼女には会っていませんから、私の中の彼女は今でも十五歳で、綺麗なままです。

 

 一度だけ、彼女が男子に告白されているのを見たことがあります。夏のある日の昼休みに、私は図書室に行きました。人が少ないのに冷房が効いている図書室は、夏のお気に入りの場所でした。私は何の気なしに、読んでいた本を置き、普段から閉まっている遮光カーテンをめくって外を見ました。暖かい夏の日差しとともに私の目に飛び込んできたのは、外付け階段の下で誰かを待っている彼女でした。しばらくすると、一人の男子がやってきました。私の同級生で、人格者として私も認めていた男です。彼なら彼女とも釣り合うだろうなどと、勝手に考えていました。彼女は深々と頭を下げました。何を言っているかは聞こえませんでしたが、彼の表情を見るに、告白して断られたのは明らかでした。そのとき私は一人で失恋したのです。顔を背けて本を読み直そうにも、内容はさっぱり頭に入ってきませんでした。涙は出ませんでした。私に泣く資格などないと思ったからです。ただ瞑目して、チャイムが鳴るまでその席に座っていました」

 

 それまでずっと足の上で手を組み、自身の足下を見るようにして話していた男は、顔を上げ、そこに遠い昔の彼女を見るかのように宙を見つめた。

 

「今になって思えば、私は彼女のことを好きだったのではなく、彼女になりたかったのではないかと思うのです。私にとっての彼女は、自分もかくありたいという憧れであり、目標だったのです。彼女はそういう意味で、私の理想でした。言うなれば少年漫画の主人公でした。そう考えれば、片思いの辛さを微塵も感じなかったことも説明ができます。

 

 きっと私は、未だに恋をしたことがないのです。ああ、人生に一度で良いから、身を焦がすような、悶え苦しむような、胸を締め付けられるような、枕を一人濡らすような、そんな恋をしてみたい。私は本当の恋心というものを知りたい……」

 

 気付けば私は眠っていて、目が覚めたときには男の姿はなかった。ふと気になって上のベッドに上がると、未使用の浴衣が丁寧に畳まれて置いてあるだけだった。昨晩、男の初恋以外に何を話したか思い出せなかった私は、いきなりのことで二人部屋しか空いていないからと、二倍の寝台料金を払って切符を買ったことを思い出した。