存在証明

 

「自分が存在していた」ということを世に残していたいのは、当然のことだと思う。承認欲求の一種なのだろうか。図書館でよく見かける偉人の伝記のように、誰かに自らを知ってもらいたいと思うのは当然なことでもあるはずだ。だから今、私の目の前にこのような黒い石版たちがあるのだろう。

 

 この石版は人々が「存在した」という事実、それだけを表すもの。偉人たちのように経歴が皆に知れ渡ることはないものの、自分を知るものが次々と亡くなって、無くなって、石版だけがその人物が確かに生きていたことを表すのだ。月の光が照らす石版に目を凝らすと、小さな文字で人名が書かれている。日本語だったり英語だったり、どこの国のものかすらわからない文字で。

 

 石版も、初めはどこかの微妙に金持ちな男の「自分の名を後世まで伝えたい!」という意思のもと置かれていた、と聞いた。男の死後、広大な土地にぽつんと置かれる石版に哀れみでも感じたのだろうか。親族らが石版を大量に設置し、「あなたも名前を後世まで残しませんか?」と呼びかけたのだ。SNSで誰かが発信したのがきっかけで爆発的に流行し、あれよあれよと名前が刻みつけられ今に至る、というわけである。

 

 そして私も、今日からは名を刻んだ一員。私の名を刻んだ石版がようやく設置された、と知らせを受けて足を運んだのだ。広くて迷いやすいから、と入り口で受け取った地図を見る。区画番号はたしか……

 

「Aの……2」

 

 夢でないのだと確かめるように呟き、たまたま歩いて目の前にあった石版の区画番号を確認する。ここはBの2……どうやらこの石版の向こう側に私の名が刻まれてあるらしい。求めるものはもう、目の前にある。そう思うと足取りが軽くなる。新しいおもちゃをもらった幼子のように、無意識に口元をほころばせながら夜闇へと駆けていった。

 

 

 

    ◆

 

 

 

 目的の石版を見つけたはいいものの、そこに刻まれた名前は想像以上に多く、小学生の頃から見慣れたはずの自分の名を見つけるのにも時間がかかってしまった。きっと今が夜遅く、暗いことが原因でもあるのだろうけど。どこか近くでカツンカツンと金属音もしており、斧を持った幽霊でも出てきそうな展開で、少し怖い。

 

 「入野 愛華 15」という、刻まれた名前と年齢を見つけると、目的を達成した満足感で胸が満たされた。一見墓場のような暗いところからはおさらばしてしまおう、という思いで後ろを振り返ると、誰もいないと思っていた背後の空間に同い年ぐらいの青ジャージ姿の少年が歩いていた。

 

「わっ!」と思わず声を出してしまったのは本当に申し訳ないが、不可抗力だと思っていただきたい。暗い夜に、背後から幽霊の襲撃……なんてホラー映画でありきたりなのだから。

 

 「すみません! 人がいるなんて気づかなかったものですから……」

 

 素早く頭を下げて謝罪し、何か言われる前に背中を向けて立ち去ろうとした私を「あ、ちょっと待って!」と少年が呼び止める。こわごわと後ろを振り返ると、少年はフードを外して軽く手を上げていた。どこかで見覚えのある顔だ、という印象を持つ。私が覚えていない知り合いだろうか。慌てて脳内の知人一覧アルバムを高速でめくり、該当する人物を探し当てた。

 

「高谷くん……で合ってる? 間違ってたらごめんね、記憶力良くなくってさ」

 

「そーそー、合ってる! 中学以来だよね、やあ久しぶり、入野。転校先の高校ではうまくやってる?」

 

 痛いところを突かれた言葉にうっとなるものの、「まあそれなりに」と笑顔で誤魔化せたはずだ。

 

 彼は中学時代の同級生、高谷隆。パッと名前が出てこなかったものの、思い出せないわけではないところを見るに、目立つわけでも地味なわけでもない、ごく普通の生徒だったんだろう。なぜこんなところに? と思ったが、来る理由は一つしかないだろう。向こうも同じ考えだったようで、彼が先に口を開いた。

 

「入野も名前を確認しにきたのか?」

 

「うんうん、そうだよ。それにしても、高谷くんがこういうの残しておきたい系の人だなんて、なんだか……」

 

意外だね、と言おうとして私は踏みとどまった。個人的には普段から目立つ人物が、自分をさらにアピールするために刻んでいるイメージがあった。芸能人が何人も名を刻むのをテレビで放送していた。だが、目立つ目立たないの中間にいる「ある意味本当に目立たない」人間だからこそ、コンプレックスか何かで残したいのかもしれない、と思い至ったところで彼が私の言葉の先を続けた。

 

「意外、でしょ?」

 

 イタズラが成功した小さな子供のように、彼はニヤリと笑う。ハハハと笑い飛ばそうとした私の周囲の空気は、「俺としては入野の方が意外なんだけどなあ」という言葉により、一瞬のうちに冷やされた。

 

「地味でもない、だからといって目立つわけでもない。そんな俺と違って、なんだろう、いわゆるリア充グループって言うのかな? スクールカースト上位のグループに属して、ほかの奴らよりはずっと目立ってる人間じゃんか。わざわざ名前なんて残さなくても、色々と認められてるんじゃない?」

 

 確かにその通りで、常に私は何かのグループの中心にいたし、友人のうちの誰かは必ずそばにいた。「わりとなんでもできる人」認定だってされていた、と自負しているのだが。

 

「それがしんどくてね。なんだかな、お前が常に中心に立っていろって言われてるように感じてしまって。誰も知ってる人のいないところで再出発したかった」

 

 だが、誰にも頼られず、頼らずという新しい環境に飛び込んだ結果、精神的に疲労してしまった。以前の自分に戻るのも嫌だし、今のままも嫌。こんなことを考える私は駄々をこねる子供みたい、と自己嫌悪に陥った少し前の自分を思い出してしまった。

 

「まーまー、高校で何があったの? とかは詮索しないよ。人のプライベートに足を突っ込むような真似はしない善良な人間だから、俺!」

 

暗い空気を纏っているのに気がついたのか、おちゃらけた態度で空気を和まそうとしてくれる。あー、とかうー、とか言いながら新たな話題を出そうと、手をウロウロさせながらの困り気な表情にクスッと微笑んでしまう。

 

「あー、そうそう! さっき〝入野も名前を確認しにきたのか?〟って、あたかも俺も確認しにきたみたいに言っちゃったんだけど、俺は名前消しに来ただけなんだよな~」

 

 私の聞き間違いだろうか。名前を、消しに、来た? 信じられないという思いでええっ……という言葉を漏らした。

 

「父さんがさ、〝若いうちから、世に残る功績を挙げようともせず、石版に託すなんてけしからん! 今すぐに消してこい、死ぬ間際にまた刻んでこい〟って言うんだ。ムチャだろ?」

 

 なんてことだ、と思った。ここに名前が刻まれるのは高い高い倍率の抽選をくぐり抜けた、激運持ちの人間だけだというのに、この少年はそれを無駄にしようとしていて、どうも理解できなかった。

 

「もったいない! 名前はそのままで、消したって言って帰ればいいんじゃないかな……」

 

 そうは言ったものの、もう遅かった。彼の後ろにそびえ立つ石版には一箇所だけ、傷をつけられて読めなくなってしまった部分が。そしてよく見ると彼の手には金属製のスコップが握られてある。

 

「いやいや、俺は言われてからいろいろ考えて消しに来たんだ。なぁ入野、俺らまだぴっちぴちの高校生、だろ! これからの人生ですっげー功績残せるかもしれないじゃん。多分、ここで名前刻みっぱなしにしてたら、デメリットを抱えて功績残すか、自分を守って残さないか、決断するところに直面したときに〝残さない〟を選ぶ気がするんだよなあ」

 

いや、まぁそもそもそんな場面に直面するかどうか怪しいんだけど、とふざけたように言うものの、目は真剣だった。

 

 はは、という言葉を合図に、笑っていた顔から真面目な表情に変えると、彼はそっと足元のコンクリートで舗装されている道にスコップを置いた。カツン、と冷たい金属音が夜の空に響く。じゃあね、また会えたらいいね、と言いながら腕時計を確認したかと思うと、タタッと走り去って行ってしまった。唐突すぎるあまり、少しの間夢でも見ていたのか、と感じないこともないが、目の前に残されたスコップだけが先程の夢は現実なのだ、と物語っていた。

 

 迷いに震える手をそっと伸ばし、持ち手にほんのりと熱を残したスコップをぐっと握りしめる。私と顔を合わせるように向き合った石版は、黒く不吉に輝いていた。