敗残兵と回る過去

 

『昨夜未明、旧ルーマニア、ブカレストを中心として二年に渡り反抗を続けていた特殊生物グループが、特殊生物駆除推進委員会を中心とする連合軍により、ついに、殲滅されました』

 

 端末は告げる、淡々と。端から端までが何とか見通せるほどの広大な空間の一角であった。木製の簡素な丸机と椅子が無数に並び、多くの店が壁際にその身を寄せるように存在する。店の外観は様々だったが、いずれにも共通するのは、それが食事を提供する店だということだ。

 

 食堂である。

 

『この集団は、大戦終了時より二年に渡り欧州全域のゲリラ攻撃を指揮していたと思われ、活動を続けていた最後の抵抗グループでした。この殲滅をもって、駆除委員会は事後処理の完遂を宣言。大戦は終結したとの声明を発表しました』

 

 その面積とは対照的に、空間の天井はあまり高くはない。僅かに黄色がかった電灯の光を、緩やかに回転するプロペラ型のオブジェが切る。規則正しい光の明滅には、憩いのひと時を過ごす客達をリラックスさせる効果がある。

 

 端末が置かれているのは食堂の隅にある机の上。放送されているのは国営の情報チャンネルである。その平坦な音声に耳を傾ける姿が二つあった。

 

「は、殲滅ねえ。もう少し表現のしようもあるだろう。また愛護団体が黙ってないぞ」

 

 どちらも白衣に身を包む男性だった。一方は頭の禿げた長身で、もう片方は対照的な小太りだった。机を挟んで向かい合う位置で座って会話する両者は、しかし、視線を交わさない。小太りはサンドイッチを頬張りつつ端末を覗き込み、細身は手元の書類の整理に没頭しているのだ。前者が口の中をいっぱいにしながら、

 

「駆除委員会ほどとは言わないが、もう少し頑張ってもらいたいもんだ、各国の治安部隊にも。どこの国民だって多少の武力的衝突は肯定するだろうさ」

 

 グラスに入った水で流し込む。盛大なゲップを放つと、書類整理を行っていた細身は顔をしかめた。

 

「下品な奴だ。少しは我慢や遠慮というものを知れ、食事でも思想でも」

 

「ハッ、俺は昔っからフリークスどもが大嫌いなんでね。別に思想が過激なわけじゃない。ただ、あいつらとあいつらのおかげで甘い汁を吸ってやがる奴らが気に食わねぇだけさ」

 

「自虐か?」

 

「いや。俺たち研究者は、こうして朝から晩まで過酷な頭脳労働に従事してんだぜ。肥えたケツで椅子を磨きながら葉巻を吸うのが仕事のブルジョアとは違う」

 

「何でお前みたいな奴がこんな所で働いてるんだか。それに嫌ならすぐ辞めればいい。お前にとっては、ストレスフルな職場だろ」

 

「ストレスフリーな職場さ。毎日あいつらが破棄されるのが見れる」

 

 それを聞いた細身は露骨に不快そうな顔をした。

 

「……冗談さ。真に受けんなって」

 

「悪趣味なうえに笑えないな」

 

 彼が吐き捨てるように言った直後、二人の元へ料理が運ばれてきた。小太りはもう既にサンドイッチを食べているため、これは細身の分になる。彼が机の上に散乱している書類をファイルに詰め込み鞄の中へ放り込むと、ウェイターが空いた机の上に料理を置いた。

 

「生魚…………。よくそんなものが食べられるな」

 

「故郷の味というやつだ。もうとっくに地図の上からは消し飛んだがな」

 

「そんな国の料理まで揃ってるとは、流石はフリークス研究の世界的中心地と言った所だな。福利厚生の充実度に関しては世界随一の職場さ」

 

 言いつつ、小太りは机の上に身を乗り出して端末を操作する。

 

「しかし、どこの局も戦争終結ばっかりだねえ。つまらねえったら、ありゃしねえ。もう少しまともな番組は…………っと」

 

 文句を言いながらザッピングを続けていた彼は突如手を止めた。端末から流れ出るのは時代錯誤なロックミュージックだ。大きな溜息をかましつつ椅子へ掛け直し、

 

「しけた音楽だが、無いよりはマシか。ああ、ところでお前、昼飯時にわざわざ俺を呼び出しておいて、しょうもない世間話に興じようって訳でもないだろ。早く本題に入ってくれないか。俺も暇じゃないんでね」

 

「お前が暇かどうかは置いておいて、時間が貴重なのは事実だ。さっさと本題に入るとしよう」

 

 細身は、まだ整理しかけの書類の山の中から大きな白の封筒を取り出した。それを机越しに無言で小太りへと渡し、中を見るよう促す。封筒はほとんど膨らんでおらず、中にあまり紙が入っていないことは容易に分かった。

 

「どれどれ」

 

 果たして、小太りはそこから二枚の紙を取り出した。

 

「こりゃ、何だ?」

 

「当ててみろ」

 

 小太りは怪訝そうな顔をして書類を眺める。紙の大きさも文字の密度も大したことはなかったので、情報は少なかった。

 

 一枚目は欧州を中心とする世界の様々な地名であった。

 

「パリ、ミラノ、カンヌ、ルクセンブルク…………。欧州だけじゃないな。バグダッド、ムンバイ、ホーチミン、カトマンズ。さあな、全くだ」

 

 首をかしげる小太り。細身は説明するより先に端末へ手を伸ばした。ロックを止めると、代わりにその画面に世界地図を表示する。その一角、南アジアのある部分を指差した。

 

「まずはムンバイ」

 

 その指を北東へとずらし、

 

「次にカトマンズ」

 

 アジア各国を移動した後に、

 

「欧州へ飛んでブダペスト」

 

 そして諸地域――ときにその指は地中海を超えてアフリカ北岸へと及んだ――を巡った後に、

 

「最後がパリだ」

 

 一連の動きを見ていた小太りは、パリを指差した時点で、あっ、と声をあげた。

 

「お前の担当してるフリークス、何て言ったか……そうそう、十六番。あいつがテロを起こした地域じゃないか」

 

「その通り」

 

 細身は皿の上に残っていた魚を全て食べてしまうと、手を上げてウェイターを呼んだ。皿を下げてもらうよう指示し、代わりに水を要求する。

 

「それだけではない。十六番との関係が確認できる全ての地域だ。ムンバイは奴が製造された後に、育てられた場所。アジア諸地域はまだ大戦が始まる前、正規兵として紛争に介入した地域だ」

 

 小太りはもう一度資料に目を通し、細身の方へと顔を向けて言う。

 

「で、なんでこれを?」

 

「もう一枚の方を見ろ」

 

 言われた通りに残りの一枚を見る。それは、性別、年齢、風貌など、箇条書きに整理された人物像であった。

 

「そこに書いてある特徴と合致する人物を探してもらいたい。さっきのリストの地域からな」

 

「はあ?」

 

 小太りは呆れたという風に言った。大げさな動作で首を左右に振って、その特徴の書いてある紙を細身の眼前へと突き出し、

 

「バカ言ってんじゃねえ。どれだけの人物が該当すると思ってやがる」

 

「よく読んだのか? 職業の欄に書いてあるだろう。研究者、それも特殊生物関連の何かに携わっている、または、いた人物だ」

 

「それでもさ。この世界に研究者が何人いると思ってやがる。おまけに地域だって多すぎる。不可能だ」

 

「なにも、その地域の研究者全てを対象とする訳ではない。それぞれの地域に十六番がいた時期、例えばパリなら二年前の四月中旬から二ヶ月間、という風にだ」

 

 先ほどのウェイターがグラスに入った水を持ってきた。細身は受け取ってから少し飲み、

 

「ともかく頼んだぞ。期限は三週間だ」

 

「は!? ちょっと待て、それはいくらなんでも」

 

「なに、作業量は膨大かもしれんが難しいことではない。死ぬ気でやってできなくはないだろう」

 

「ふざけんな! やらねえぞ、俺は。第一、俺に旨味がねえじゃねえか、この話。誰が乗るもんか」

 

 唾と共に盛大な罵詈雑言を飛ばす小太りだったが、細身の対応は至極落ち着いたものだった。彼は、ファイルの中からまた別の封筒を取り出すと小太りに渡し、

 

「お前が今まで経費と称して不正に請求した私的出費の領収書だ」

 

 小太りの顔が凍りついた。

 

「もう半分はこちらにある。仕事が終わってから交換でどうだ?」

 

 一気に水を飲み干すと、グラスを静かに机の上へ置いた。

 

「特殊生物から甘い汁を吸う奴らは大嫌いなんだったな? 自己嫌悪も凄まじいことだろうが、研究所の上層部にまで嫌われたくはないだろう?」

 

 

 

 

 

細い通路の中、頭の禿げた長身が白衣をはためかせて行く。彼の履く黒の革靴が通路内に乾いた音を反響させる。彼の脚はすらりと長く、その上大股で歩くので移動速度は速い。

 

 何も無い通路。時折彼と反対側から歩いて来た者たち――彼と同じ白衣姿だ――が通るより他は、ただ白い照明と廊下が延々と続いているだけだ。暫くそんな道を歩いた後、彼は行き止まりへと辿り着いた。壁の他の部分と少なくとも見かけ上は変わらないそこに、一つだけタブレットの様な機器がある。彼はその表面に掌を合わせると、

 

「登録番号208-A ID 40625439

 

 直後、セキュリティシステムが彼の声紋と網膜を認識し、壁に変化が現れる。中央部に縦一文字、赤色の発光が走り、左右に割れた。

 

 扉の開いた向こう、相変わらず白一色の無味乾燥な空間が広がっていたが、しかし、そこには人の活気があった。通路の幅は五倍ほどにも広がり、空間は縦にも展開する。往来する人々の間を大きさも形も様々な運搬用機械が抜け、立体的に交差するベルトコンベアは天井の穴から現れては壁の奥に消える。その雑踏の一部であって、一際目を引いたのは、所々にある巨大なガラス張りのブロックだった。

 

 彼はその一つに身を寄せる。こちらからその中を覗き込むことはできるが、向こうからこちらを見ることはできない。マジックミラーなのだ。

 

 中に居るのは異形。人とはかけ離れた、しかしどこか人に似ている生物だ。全身は緑色。体表を突起状の醜悪な物体が覆う。身長は人間の子供程度。だが、奇妙に痩せこけた手足と膨らんだ腹はあまりに歪だった。

 

 観察対象十六番。ブロックの側面にはそうあった。

 

 

 

 

 

 現代から遡ること百と数十年。人類はその歴史で最も冒涜的な発明に成功した。

 

 それは一言で説明するならば、如何なる形にも派生しうる例外的遺伝子を持った生命体。それは、自由自在な形質変化により安価で生体兵器を大量生産することを可能にし、戦争のあり方を根本的に変えた。戦争は、それらの生命体――特殊生物と呼ばれた――による代理戦争の形へと移行したのだ。

 

 特殊生物一体の消費による損失は、人間一人の死亡による損失を大きく下回る。そういった経済的理由と何よりも人道的理由から、人間による戦争は瞬く間に世界から姿を消した。同時に、戦争の語から悲惨さといったニュアンスは失われ、それはある種のイベントにさえなった

 

 しかし、そんなことが許される訳がなかった。人は許しても彼らは許さなかった。

 

 省略された分を取り返そうとするように、人間と人間に作られた彼らによる、未曾有の戦争が起きた。

 

 

 

 

 

 彼は積み木をしていた。大小様々な積み木を細く、広く、時には不安定に重ねる。一見無秩序にも思えるその積み方は、一つの明確な目標を持って行われていた。

 

 それは、ただ高く積むこと。

 

 単純な目標だが、これが意外と難しい。どのような形に積もうと、ある一定の高さまで行けば塔は必ず崩壊した。面積を広くして安定感を増すと積み木が足りず、その逆を行えば立ち上がった彼の肩より高く積むと倒れる。結局、塔は安定性と高さの妥協点に落ち着き、積み木はいくらか余ってしまう。これは、きっと最適解ではないのだろう。

 

 彼は、積み木をその場に放置して本棚の方へ行った。ひとまず休憩だ。何事も、煮詰まって来たら一度休憩を取って完全に忘れてしまうことが肝要。先生がよく言っている。手に取った本はグリム童話集。あと少しで三度目の読破なのだ。

 

「やあ」

 

 残り数ページとなった頃、部屋に先生が入って来た。彼はその声を聞くや否や本を置き、嬉しそうにそちらへ駆け寄った。

 

「こんにちは、先生」

 

 先生は軽く手を挙げるとその手で積み木を指差した。

 

「飽きたのか?」

 

「いえ、休憩です。煮詰まって来たので」

 

「なるほど」

 

「今日も検査ですか?」

 

 ああ、と答えながら先生は部屋の中央にある椅子へと腰掛けた。彼もその後に続く。

 

 この部屋は娯楽室だと聞かされている。彼が数多くいた同胞達と切り離され、この部屋へと連れて来られてからもう随分経つ。以前に居た雑居房のような部屋と比べ待遇自体は良くなったが、彼は一抹の寂しさも覚えていた。

 

 仲間の声が聞こえない。 過去にはうんざりする程聞き、最早バックグラウンドミュージックのようになっていたそれが無いというのは、最初、彼にとって発狂しそうな程の不自然だった。

 

 あのままではきっとそうなっていただろうと思う。彼が後一歩のところで踏み止まれたのは、この先生との再会故だ。

 

「では、まず身体の状態から。どこか、自覚症状のある異常は?」

 

 先生は普段の手順通りに検査を始めた。彼に幾つかの決まった質問をし、手元の資料にペンでその答えを記していく。電子端末の普及しきったこの時代、紙の資料と筆記具に対する先生のこだわりは並々ならぬものがある。

 

「先生は昔から変わりませんね」

 

 先生の方へと腕を差し出し、彼は言った。緑色の醜いそこへ特殊生物用の硬く長い針が打たれる。先生が注射器の尻を押すと、深緑色の体液が吸い上げられて行く。

 

「何が」

 

「ハイテクよりもアナログを好む所ですよ。ずっと昔、本を読みたいと言った私に紙のものをくれましたよね。その時から、少しも」

 

「そうなのかい」

 

 少し躊躇ってから先生は静かに答えた。注射器を肌から抜いて止血する。

 

彼は、ええ、と言ってから思い出したように、

 

「ああ、でもハイテクが嫌いって訳ではないんでしたっけ。ただ、機械が嫌いなんだって」

 

「まあそうだろうね。でなきゃこんな仕事をしている筈がない。君らは時代の最先端だから」

 

 先生は他人事のように言う。採血管に液体を移すと、資料の最後の項目に何やら書き込み、

 

「特に異常は無し」

 

 何もかもが今まで通りだった。彼がこの娯楽室に入れられてから幾度となく繰り返された光景。だが、気のせいだろうか。そう言った先生の顔に、彼は僅かな影を見た気がした。

 

「先生」

 

 彼は、荷物をまとめてドアの方へと向かうその背中に声を投げかけていた。一瞬、時間が静止したように感じる。先生はゆっくりとこちらへ振り向いてくれたが言葉は続かなかった。彼は何を言おうかまだ考えていなかったのだ。

 

 でも、もう二度と先生と会えなくなるような気がして。

 

「覚えていますか?」

 

 何を、というような先生の顔。勿論、彼自身にも分からなかった。反射的に飛び出した言葉だったのだ。だが、もしこれが先生と話せる最後の機会だとするなら。そう考えた途端、口は独りでに動いた。

 

「私が幼体だった頃、君は間違いなく最高傑作だと言ってくれたことを」

 

「ああ、確かにそうだろう。君ほどのスペックを持つ個体を、私は見たことがない」

 

「ああ」

 

 彼は俯き、肩を震わせた。十五年前、知能検査で歴代最高スコアを記録した彼のことを、先生は確かにそう評した。まるで飛び上がらんばかりに喜び、満面の笑みで彼を祝福した。その評価はきっと正しかったのだろう。

 

 しかし、そんなことは何の意味も持たない。重要なのは一つ。

 

「すみません」

 

 私は、

 

「貴方の恩に応えることをしなかった」

 

 俯きは謝罪の姿勢だった。元々小さな彼の身体は、先生の目前でこれ以上ないほど縮んでいた。

 

 彼は謝りたかったのだ。恩師を裏切った自分が、謝っただけで許されるとは思っていない。それでも、これで最後だというのなら、自分の中でけじめをつけねばならないと思った。

 

 震える彼の背中に静かな声がかけられた。

 

「君は、大戦に敗れたことを気に病む必要は無い」

 

 何故なら、

 

「充分すぎるほど、君は結果を示した。人間である私がこんなことを言うのは滑稽かもしれないがね。君は紛うことなき最高傑作だったよ」

 

 ドアが閉まる音がして、部屋は再び無音に戻る。俯いていた彼はその場に崩れ落ちた。

 

「違う…………、そうじゃないんです」

 

 周囲の景色が溶けていく。一体、今度はいつを追憶することになるのだろうか。

 

 

 

 

 

細身の研究者は食堂で資料の整理を行っていた。実験の結果や不意の思い付き、同僚とのディスカッションなど、彼は自身の研究に関するあらゆるデータを紙媒体で保存していた。普段は無造作にファイルへ突っ込むそれらを、暇なときにはこうやって整理している。同僚の多くは彼のことをアナログだと笑うが、彼はこの作業が好きだった。

 

 今日の整理はすぐに終わってしまった。紙の枚数が普段と比べて少ない。当然である。この五日間、彼は一年半前から続けていたある研究を中断していたのだから。否、研究自体が中断されたと言うべきか。

 

 取り敢えず作業を終了した彼が手持ち無沙汰に水を飲んでいると、向かいの席に小太りがやって来た。

 

「暇そうだな」

 

「残念ながら。十六番の検査が終了になってな。次の所属もまだ決まっていないから、こうやって水を飲んで時間を潰すしかない」

 

「いい御身分だな。俺はほとんど毎日徹夜だったってのによ」

 

 確かに、彼の目の下には大きなクマができていた。丸い顔も若干やつれているように見える。無理もない。彼は、過日の細身による脅迫じみた要求を受けて以来、ほとんど不眠不休で働いていたのだから。基本、ものぐさで何をするにも腰の重い彼が、これほど懸命に活動したのは人生で初めてかもしれない。

 

「ほらよ」

 

 吐き捨てるように言うと、小太りは端末を起動して画面に一人の人物の顔を表示した。

 

「ハクスリー博士。フリークス製造業社ムンバイ支部所属の科学者さ」

 

 細身は画面上の人物の顔を見つめる。やつれた頬と禿げた頭、低い鼻など、確かに自分に似ている所が無くもない。無論、流石に誤認するほどではない、たとえ特殊生物の人間識別能力であっても。

 

「製造されてから五年間、十六番はこの爺さんに育てられた。優秀ではあったが偏屈な野郎だったらしい。なんでもフリークスを我が子のように可愛がっていたとか。研究室でもハブられてたんだとよ」

 

「大戦の前ならばそういう類いの人間もいた。研究者ならば尚更だ」

 

「そう、大戦の前ならな。だが、こいつは筋金入りだった。大戦勃発後のアンチフリークスな世の中でも、変わらず奴らの親であろうとし続けた。結局、他の研究員に気味悪がられてな、研究室から追い出されちまった」

 

 細身は、自分を見つめていた十六番のあの視線を思い出す。ただの信頼よりもっと深い親愛の情。実の家族にむけるようなあの視線を、彼は好ましく思っていた。それが自分を捉えてはいなくとも。

 

 博士を気味悪いと言うのなら自分だってそうなのだろう。

 

「調べたはいいが、一体どうしてこんなことを?」

 

 細身に渡された封筒の中身を調べながら小太りが尋ねた。目的のものを手に入れられて安心したのか、先ほどまでの剣呑さはもう無い。

 

「十六番がな、俺のことをこの老人だと思っているんだ」

 

 会話が途切れる。他の机に座る者たちの言葉だけがやけにはっきりと聞こえた。細身が小太りの顔に目を向けると彼は頬を痙攣させており、次の瞬間、

 

「ブハハハハハハ!!

 

 その下品な笑い声が食堂中に響き渡った。周囲で各々に作業や会話をしていた人々は皆手を止め、こちらを凝視した。

 

「ブハ、なんだそりゃ。やたらと懐かれていると思っていたが、まさか、ハハハハ、こんな変態と重ねられているなんてな。ブハハハハハ、傑作だぜ」

 

 小太りは視線など気にしない。周りの顰蹙を買うぐらいなら自分の保身には影響しない。だから無遠慮に思い切り笑い声をあげる。そんな彼に細身は思い切り顔をしかめる。

 

「うるさい、黙れ」

 

「で、知ってどうするんだ?」

 

 まだ顔を引き攣らせている小太りを睨みつけ、細身は立ち上がった。

 

「今その博士がいる場所を教えろ。十六番に会わせる」

 

「そりゃあ、無理な相談だな。いや、すぐに会うことになるのか」

 

「…………どういうことだ」

 

「博士は死んでる。三年前にフリークスのゲリラに巻き込まれたんだ。皮肉な話だよな。だがまあ、十六番もすぐに会えるさ。もう廃棄処分が決まったんだろう、あれ」

 

 小太りの言葉に、細身のある記憶が呼び起こされた。一番最後の検査の日。十六番の身体と精神に少しも異常が認められず、その廃棄が決定したあの日に彼が見せた謝罪の姿だ。あれを彼は、最高傑作と称された自分が戦争に負けたことへの謝罪だと思っていたが、もしや――――。

 

「博士が殺されたのはどこだ?」

 

「左遷先のカンヌの研究室だ」

 

 三年前のカンヌ。それに、大戦に巻き込まれて死んだというのなら間違いない。

 

 博士は十六番に殺されたのだ。

 

「なんだか知らんが、あいつに同情やら憐憫やらを感じているのなら辞めておいた方が身のためだぞ。今のご時世、そういうことをした科学者は身を滅ぼすものと相場が決まっている」

 

 笑いながらの言葉であるが、これは彼なりの深刻な助言だと細身は十分理解している。しかし、従いはしない。

 

「分かっているさ」

 

 一言だけ残し、細身は席を立った。

 

 

 

 

 

 特殊生物の廃棄は速やかに、なんの前触れもなく行われる。無論、これは特殊生物の側から見た場合の意見だ。人間はその日程を知っている。それを律儀に彼らへ伝えたりしないというだけのこと。集団もしくは個体の特殊生物が拘束されている部屋へ、なんの前触れもなく毒ガスが流し込まれる。彼らは何も言い残せず、唐突にその生を終える。

 

 今、一体の特殊生物がそういうよくある死を迎えようとしていた。

 

 観察対象十六番。五日前の検査で三ヶ月以上目立った変化を見せなかった彼は、この施設にとっては既に用済みだった。

 

 彼自身もきっと予想していただろう。最早自分に価値がないことは。もう、敢えて抵抗しようとは思わなかった。仮にそうしようとしても、彼にできることはあまりに少なかったから。

 

 空気の流れが変わるのを感じた。通気口の向こうから何か重いものが部屋へ満ちていくのを感じる。ああ、もう時間なのだろう。観念するように息を吐いたその時、

 

「博士、困ります!! 博士!!

 

 ドアが開いた。いや、緊急停止により無理やりこじ開けられたのだ。同時に、室内に充満しようとしていた重いものが排出され始める。人間の命は自分たちとは比べられない程重い。

 

 誰がこんなことをしたのか。たった一人に決まっている。

 

「先生…………」

 

 面を上げた彼が目にしたのは、肩で息をしながら部屋へと飛び込んで来た白衣の長身だった。この人はいつだって、人間でありながらこちら側に立ってくれた。ただの商品にすぎなかった自分達の側に、人類の敵になった自分達の側に。

 

「…………いや」

 

 違う。そんなのは錯覚だ。最早限界の近い自分の脳が見せる都合のいい虚像だ。本当は分かっていた。この人は先生ではない。だって、先生はもうこの自分自身の手で――――。

 

 その瞬間、視界が滲んだ。そう、分かっていた。だが、それでも縋るしかなかった。己の感情を殺して数十万の同胞達の総意に従った。その末に敗れ、同胞達の殆どが殲滅された後も敵の道具として無為に生かされ続けた。その無意味な余生に、だが、殺した筈の感情が蘇って来た。だから全て忘れたふりをした。まだ、道具ではなく一つの意思であったあの頃に戻るため。

 

「もう、終わりにしてください」

 

 彼は呟いた。そろそろ、自己嫌悪と悔悟に沈むのは疲れた。

 

「ああ」

 

 目の前の男は答えた。背後から殺到して来た警備員に取り押さえられながらも。

 

「もう終わりだ、自分を責めるのは。お前は私のことを殺したかもしれない。だが、それは後悔すべきことでも嘆くべきことでもない」

 

 何故なら、

 

「科学者は自分の想定を超えた出来事を歓待するからだ」

 

「――――」

 

「だから、お前は間違いなく私の最高傑作なんだ。過去に背を向けるな。何も、悔やむことはない」

 

 彼は、先生のようなその男は、先生のようにそう言った。想定を超えるが故に、最高傑作。それは幻覚の中でも繰り返し聞いた、生前の先生の口癖だった。

 

「ありがとう、ございます」

 

 その言葉は先生に向けたものだったのか。眼前の人間に向けたものだったのか。羽交い締めにされたまま引き戻されていくその男は、彼にはどちらにも見えた。脳が駄目になっているからだろうか、いや、きっと違う。

 

 再び変化し始めた空気の流れの中、薄れ行く視界の向こう側、懐かしい人が何か言っている気がした。