鈍色の肌

 

 

「私は宇宙人だ」と、教壇の上の少女はそう言った。

 

 人間離れした美しさを持つ少女の転入にざわついていた教室内は、空気が失われたかのようにしんとしたしじまに包まれる。水無月の空模様はいつも怪しく、風が窓の傍を通り過ぎる音だけが耳の中を木霊していた。カーテンが風になびく。目の前にちらつくそれが邪魔で手で窓側へと押しやり、立ち上がって紐で止めてやる。粛然とした教室内で一人だけ行動を起こしたのが何か極まりが悪く、俯いたまま席に戻った。そのまま数秒待つが、自分が宇宙人だと明言した転校生から言葉が続くことはない。この変な空気をどうにかしろよ、と願いと恨みを視線に込めて顔を上げる。すると、不気味なほどにクラス全員の首がこちらを向いている。その奥ではあたふたと慌てる担任の隣で、少女が、すらっと伸びた白い人差し指で僕のことを指していた。

 

「ちなみに彼も宇宙人」鈴のような声がクラスの最後尾まで通る。

 

「いや、ちょっと待て。人のことを勝手に宇宙人扱いするな。目は大き過ぎない。髪も生えている。俺は一七年前にこの町で地球人の母親から生まれたれっきとした地球人だ」

 

 手をついて立ち上がって反論した。

 

 少女と目が合う。真っ直ぐで、自分の言うことに何の疑いも持たないような無邪気な目。

 

 たった一言で初対面の人間しかいない集団を氷付かせるような女のお仲間にされてたまるものか。それにそもそも、一クラスに二人もいるなんて多すぎるだろう。そんなに安売りしていていいのか、宇宙人。

 

「それなら君は突然変異種の宇宙人だ」

 

「地球人が突然変異で宇宙人になるのなら、オカルト雑誌は宇宙人の目撃情報のおかげでもう少しはメディアとしてそれなりの地位を築けたんじゃないだろうか」

 

 うっ、と転校生は嘘を見破られた子どものように身動く。しかしすぐに、何かを思いついたように供託に手をついて前屈みになって熱弁を振るってきた。

 

「君は記憶を失っている! 地球に適応するために。この町の若い夫婦の記憶を操作し、出征記録を偽造して、そして! 自分の記憶すら消したんだ。君が地球に来た目的は、人間の生態の観察か何かだろうか。暫くの時間が経った後、仲間の宇宙人が宇宙船で君のことを迎えに来て、記憶を取り戻すんだ! きっとそうに違いない」

 

「ただの極悪非道じゃないか」

 

 一体どこまで俺を宇宙人に仕立て上げたいのだろうか、この女は。目が顔の半分近くを占めていたり、肌が明らかに人間の色をしていないやつにお前は宇宙人だと言われたのならまだしも、こんな顔が整っているだけの女の子にそう言われたのなら、電波ちゃんに何かしらのシンパシーを感じられたのだろうとしか考えられない。

 

「俺が宇宙人かどうかの言明は置いておいて、自称宇宙人さんが自分の正体を公言した理由は何なんだ。流石に仲間の宇宙船に置いて行かれたとか、そんな理由じゃないだろ?」

 

「何故私の秘密を

 

 大袈裟に驚く転校生。オリジナルの設定を考えることもできないのか、こいつは。いや案外、宇宙人が地球に来る理由なんて、偵察、侵略、遭難、強いて付け足すなら観光くらいしかないのかもしれない。観光気分で宇宙船を持ってこられたら堪ったものではないが。

 

「それだとしたら、さぞかし住む場所には困っていることだろうな」

 

「私程の宇宙人ともなれば、地球にバディを作って衣食住を確保することなど容易いのだ」

 

「好待遇すぎるだろ、そのバディ」

 

 そんな面倒見のいい人間を見つけることができるなんて相当運がいいんだな、と毒づきたくなるが、返答としてはまるでこの質問が来ることを予期していたかのように鮮やか。橋の下に住んでいるなどと言われるよりは信憑性が高い。いくら自称宇宙人でも毎日綺麗な制服で登校してくるだろうからな。

 

 話の区切りで教室が落ち着きを取り戻す。どこからか発生した周囲との私語は、瞬く間に波のようにクラス中に広がり、全てを埋め尽くす。それを遮るように担任が、パンッパンッと、二度掌を打った。

 

「は、はい。凄く個性的な自己紹介でしたね、ありがとうございました。えーっと、姿月さんの席は……」

 

「ちょっと待ってください、先生」

 

 と、転校生が、担任の話を遮る。もうどうしたらいいのか分からない、といった狼狽えた表情の担任のことなど気にもかけず、彼女は、転校生紹介のために先生が名前を書いた黒板を強く叩いた。視線だけは俺のことを真っ直ぐに捕らえている。

 

「私の名前は、姿月舞だ! お前の名前は何と言う!」

 

 俺は隣の机を指で叩きながら、「おい、佐藤くんご指名だぞ、自己紹介をしてやれ」

 

「君だ、君! 誤魔化すな! 今誤魔化しても同じクラスだ、名前くらいどうせすぐに分かる。その場しのぎをする必要もないだろう」

 

 脅すくらいなら勝手に調べればいいではないか。どうして自称宇宙人などには絡まれたくないという俺の心情すら察することもできないのだろうか。シンパシーよりも電波よりもそれを意の一番に感じ取ってほしいものだ。

 

「俺は、遠見望だよ。決してよろしくしてくれるな、『自称』宇宙人」と挑発的に笑う。

 

「それは無理な話だな、『他称』宇宙人。君には、私が宇宙に帰るための手伝いをしてもらわないといけない」

 

 そう言った姿月の屈託のない笑顔は外の空模様とは対照的に明るく、俺の心の中は恐らく空模様よりはずっと暗かったことだろう。

 

 

 

 期末テストが終わると、梅雨の絡みつくような湿気は嘘のように消え去り、それと代わるように夏が一気にやってくる。文月もすでに二週目に突入しているというのに、年式の古い学校のクーラーは未だに仕事を全うしようという気概の片鱗すら見せず、制服の中は水攻めにでもあったかのようである。

 

 クラスの至る所から聞こえてくる話題はテストの結果と夏休み何をするかが、一対九といったところ。やはり現実逃避でもしなければやっていけないのだろう。仕事をした人間にはその分報酬が与えられるべきで、その報酬を受け取るかどうかはその人たちの権利だ。ただこの機関の皮肉なのは、仕事をした人間もしなかった人間も与えられる報酬は同じであり、仕事をした人間は周囲からの期待という名の圧迫のせいで報酬である時間を行使して新たな仕事をしなければならないことだ。栄光か逸楽か。まぁ、勿論俺は夏休みを満喫するつもりであるが。

 

 テスト明けの疲れから来る心地の良い眠気に苛まれて一つ大きな欠伸をすると、

 

「今回のテストも全部、お得意の一夜漬けか?」

 

 倉井竜生が、呆れたような態度で話しかけてきた。こいつとは所謂腐れ縁というやつだ。小学生のときから同じ学校に通い続け、中学では三年間クラスも同じだった。

 

「知っているくせに白々しい。俺が今まで事前にテスト勉強をしてきたことがあったか?」

 

「それなら勉強していない者らしく学年一○番以内なんて食い込んで来ないでくれ……。一生懸命必死になって勉強をしているこっちの身にもなってくれよ、全く……」

 

「お前も睡眠学習も普段から取り入れれば、もっと点を取れるかもしれないじゃないか」

 

「授業も殆ど寝ててそんな点数を取れるのは、お前だけなんだよ……」

 

 嘲笑と諦めが入り混じったような笑いを浮かべる竜星。俺は、立ち上がって言った。

 

「もうそんなことどうだっていいじゃないか。それより竜星、お腹が空いた、学食に行こう」

 

「はいはい、欲望に忠実なことで」

 

 悪態吐きながらも、竜星は俺の後ろをついてくる。二人して教室を出ようとしたとき、後ろから大きな声で呼び止められた。

 

「望!」

 

 嗚呼、面倒くさい奴に捕まった。話しかけられる前に早く学食に行こうとしていたのに。

 

「なんだ、姿月」

 

「望、天体観測に行くぞ!」と言って姿月は、隣町の天文台のポスターを見せつけてくる。ほら、もう面倒臭い。

 

「断る」

 

 どうしてと面食らったように驚く姿月。

 

 姿月からポスターを奪い取って、文面に目を滑らせる。

 

「この観測所で天体観測をするとなると、泊まることは確実になる。近くに宿泊施設はないから、天文台の周りの草原にテントを貼ることになるのだろう。俺は二人じゃそんなこと出来る気がしないがな」

 

 ずい、と竜星が、俺と姿月の間に割って入ってくる。

 

「だったら、三人いたらできるのか?」

 

「おい待て、竜星。お前は俺の味方だよな。天体観測なんかに行って何になる。時間と体力が消費されるだけだろ」

 

「顔に出やすいんだから、せめて苛立ちを隠す努力くらいしろよ……。楽しそうでいいじゃないか。舞ちゃんが断っても受け入れるような子じゃないってことくらいわかってるんだろう、望も」

 

 それだからこそ断りたいのだ。一度誘いを受けてしまえば、付け上がって要求が増えることくらい目に見えている。そうなれば、俺の夏休みの安寧秩序は乱れて二度と平和を手にすることはなくなってしまう。そんなものはもはや休みとは言えない。過重労働である。

 

「わかった、一度だけだ。この夏で私が君に関わるのはこの一度だけ、そう約束する」

 

 顎を引き、真剣な表情でそういう姿月。一度だけ、とそう口にしたからには、彼女がこの天体観測以外で夏休みに関わってくることは本当にないのだろう。姿月舞は、そういう人間だ。愚直なまでに素直。自分が宇宙人であると嘘偽りなく本心から思っているかのように、彼女の言葉に嘘の雰囲気を纏った言葉は一切見つからない。たった一か月見ていただけでそう断言出来てしまうような、そんな不思議な人間性を持っているのである。

 

 姿月が考える「宇宙に帰るための方法」というものを全てやってしまいさえすれば、あいつが俺に関わってくる口実はなくなる。姿月がここまで執着するということは、自称宇宙人にとって天体観測を行うというのは何か次のステージに行くためのターニングポイントなのだろう。もしここで断りきれたとしても、冬休みや春休みのタイミングで再び声をかけてくることは想像に難くない。そう考えるならば、今ここで天体観測に付き合っておくというのは、案外悪くないのかもしれない。

 

「……わかった、付き合ってやるよ。だがこの夏に関わるのは本当に一度だけだからな」

 

 そういうと満面に喜色を湛えて俺の両手を掴んできた。そしてすごい速さで上下に振る。

 

「ありがとう、望! こうしちゃいられない、私は計画を立ててくる! 望、竜星、待っててくれ、またすぐに連絡する!」

 

 俺から手を放すや否や、姿月は俺たちの間を通り抜けて、教室の方へと走り去っていった。忙しい奴だ。正直、あの旺盛さには呆れるを通り越して感服する。

 

「さてと竜星、俺たちは食堂に行くか」

 

「そうだな」

 

 ぼそりと、「案外、望って流されやすいよな」と呟いた竜星の脇腹を手で刺してから、横腹を抑える竜生と共に、食堂へと向かった。

 

 

 

「驚いた、隣街に来るだけでこんな星が綺麗なんだな。こんなにくっきりとした天の川なんか、久し振りに見た」

 

 と、少し離れたところにいる竜星の声が弾んでいるのも無理はない。俺たちが住んでいる場所で顔を上げても決して見ることの出来ない、銀砂を鏤めたような満点の星空が頭上から地平線の彼方まで広がっていた。

 

 八月半ば。五時を少し回った程でこの高原に着いた俺たちは、姿月の用意してきたテントを男二人で組み、何もしていないくせに腹が減ったと言い出した、姿月を宥めるために天文台の一階で夕食を済ませ、七時半を回った現在、少し大きい岩の上でようやく天体観測に乗り出していた。

 

「これだけ星が多いと、星座を探すのも中々難しいものだな、まぁ、夏の星座なんて、さそり座くらいしか知らないが」

 

「さそり座は、ほらあそこだ。南の空の地平線の近くに、独特な形をしているものがあるだろう」

 

 隣に座る姿月のすらりと伸ばした指の先には、確かにそれらしき形の星座が鮮やかに煌めいている。

 

「ちなみにこれはくだらない情報だが、私は地球の暦でいう所の一一月生まれ、つまるところのさそり座の女だ」

 

「……この上なくどうでもいいが、宇宙人だとか言って本当に地獄の果てまで付いてきそうだから、俺はこれから星座占いを信じることにしよう」

 

 本当にそうかもしれない、と姿月は高らかに笑う。いや否定してくれよ、そんなに付き纏われたら堪ったものじゃない。

 

「姿月は自称宇宙人なんだろ。それなのに地球の星座に詳しいんだな。違う星から見れば星の位置も変わって見えるだろう?」と鎌をかけてみる。

 

「君も、旅行に行くとき、目的地から家に帰る方法を調べてから出かけるだろう。行先の星から見える星座を覚えることは、私たち宇宙人にとって同じことだ」

 

 成程、もっともらしい。この女は、宇宙人を名乗っていればされるであろう質問を、全てシュミレーションして受け答えを考えているとでも言うのだろうか。

 

「私の星は、東の空。はくちょう座の少し下の方向にある。それはわかっているのに帰ることができないのだから、もどかしくて仕方がない」

 

 姿月が懐かしむように東の空に手を伸ばす。何かを掴もうとするように拳を作る。俺が、姿月を横目に見ていると、竜星がスマホを片手にゆっくりと歩いてきた。

 

「スマホじゃうまく取れないもんだな、空がぼやけて星なんか写りゃしない」

 

「星空はカメラのレンズを最大まで広げて、時間をかけて撮影するものだ。スマホなんかで簡単に美しい星を撮影されてたまるものか」

 

「違いない」

 

 そう言いながらも残念そうにスマホをしまう竜星。この落ち込み様、まさかこいつ自分が天体観測をしたいだけがために俺をここに同伴させたんじゃないだろうな。

 

「ところで、望。二月前、私が転入してきた日に、私が言っていたことを覚えているか?」

 

 夜空を見上げ、好きになれそうな星を探していると、横から姿月から脈絡もなく新たな話題を投げ掛けられた。

 

「ああ、勿論覚えている。ここ最近であれほどまでに衝撃的な体験はしていないからな」

 

「あの時は、私は言っただろう。望は宇宙人だと。君は記憶を失っているだけで、仲間が迎えに来ると記憶を取り戻すのだ、と」

 

「確かに言っていたな」

 

「すまない、あれは間違いだった」

 

 …………………………………………は?

 

「どういうことだ、姿月。あれだけ人のことを宇宙人呼ばわりしておいて、学校中に噂されて、冗談でした、じゃ済まされないぞ?」

 

 自分で、怒気が漏れていることがわかる。胸の奥から何か黒いものが込み上げてきている。竜星の言っていた通り、感情が顔に出ているのだろう。二人の顔が引き攣っている。

 

「お、落ち着け、望。冗談ではない。君が宇宙人なのは本当だ」

 

「……それで?」自分でも驚くほど声が低い。

 

「私の知っている、他の星に行った宇宙人の記録を全て思い返してみたんだ。その殆どのものが何かしらの方法で記憶を戻し、合言葉を空に向かって叫ぶことでようやく宇宙船が迎えに来るということが分かった。だから、どうにかして記憶を思い出して、私もその宇宙船に乗せ……」「馬鹿々々しい……」

 

 姿月の言葉を遮って、率直な心情が口から零れ出た。

 

「馬鹿々々しくて仕方がない。そんな後から付け足したような設定で、俺が、はいそうですか助力します、とでも言うと思ったのか? 姿月、もういいよ、お前。お前は宇宙人でもなんでもない。ただの地球人だ」

 

 ちが……と姿月が反射的に否定しようとするが、それよりも先に俺の口が言葉を紡ぐ。

 

「違わない。お前は自分のことを本当に宇宙人だと思い込んでいるのかもしれないが、お前が自分を宇宙人だ、と言う度に、周りは皆、何とも言えない苦笑を浮かべてるんだよ」

 

 姿月は、下を向いて黙り込んでしまった。竜星が視線だけで言いすぎだ、と訴えてくるが、そんなことは知ったことではない。これほどまでに神経を逆なでされて黙っていられるほど、俺は温厚な人間ではない。

 

「悪いがもう帰らせてもらう。せっかく来たのだから、二人は一泊くらいしていくといい。俺のことは気にしないでくれ」

 

 と言って、腰を上げる。

 

「お、おい、望、本当に帰るのか」

 

 束の間の逡巡を挟み、

 

「ああ、悪いな、竜星、姿月のことは頼んだ」

 

 それだけ伝えると、振り返ることなく俺はその場を去った。

 

 

 

 今日は珍しく、朝から、雨が降り続いていた。

 

 天体観測の日から一○日が経ったが、姿月からの連絡は一度もない。竜星からの情報によると、俺と別れた後、姿月は竜星に気を遣ったように天体観測を再開し、帰宅したのは翌日の昼回りだったそうだ。殆ど会話もなく、帰りの電車の中、お通夜のように陰鬱な空気の中、最後に一言だけ漏らした言葉が「望は許してくれるだろうか」だったのだとか。まぁ、俺には関係ない話だが。

 

 だが、流石の俺にもどこか姿月に悪く思うところもあるのだろう、あの夜から今日まで俺は自堕落に耽り、何の意味もない日々を過ごしていた。時刻はあと少しで正午になる。外が薄暗いこともあって寝過ごした。寝ぐせでくしゃくしゃになった頭を掻きながら、ベッドから起き上がる。枕元のスマホを手に取って開くと、一件の着信が目に留まった。

 

「竜星からか……」

 

 昨日の真夜中、一二時を過ぎたころに、竜星から一本の電話が来ていた。雨が振っているとはいえ、まだ八月。じめじめとした熱気が逃げ場を失った部屋に冷房を入れ、寝ぼけ眼には眩しすぎる画面をタップして、竜星に電話をかけ直した。

 

『今起きたのか、望。そう夜更かしをしたわけでもなくこの時間に起きるのは、夏休みだからといって生活の乱れが過ぎるだろう。一向に折り返してこないから、今からお前に着信の嵐でも浴びせようかと思っていたところだったぜ』

 

 と、開口一番に竜星が捲し立てる。起床後すぐに耳元でこうも騒がれると、眉間に皺が寄ってしまうのは仕方のないことだろう。

 

「寝るときは音を切っているから、何をされても起きないんだがな。ところで、あんな夜にかけてくるなんて何の用があったんだ?」

 

『あぁ、そのことだが、舞ちゃんが家に来ていないか?』

 

「姿月? いや、来ていないと思うが……」

 

 あんなことがあったのだ、姿月がうちにやってくる理由がないだろう。

 

 耳を澄ますが、家の中はすっきりとしたもので物音一つ聞こえない。家族は全員本堂の方に出かけているのだろう。

 

「姿月がうちに来ることなんてそうそうないだろう。そもそもあいつは俺の家の場所を知らないはずだ」

 

『どうやら姿月が家出? をしたらしいんだ。バディに拒絶されたとかどうとか。昨夜あいつから電話があって、今日はホテルに泊まるがそう何日も持たないだろうから家に泊めてくれないかと消え入りそうな声で言われた。だが、お前も知っていると思うがうちの親は度を越えて厳しいから、家出した女の子を家に泊めるなんてことをしてくれないだろう。それでどうしようかと悩んで、悪いとは思ったが、お前の家の場所を彼女に教えさせてもらった』

 

「そうか……、まぁそれくらいは別に構わない。結果としてあいつは来ていないようだしな」

 

 連絡の一つもなければ、流石の俺でも怒っただろうが。

 

 電話の向こうから、ギシッと椅子の軋む音が聞こえる。

 

『まぁ、もし姿月が本当に困ってお前の家を訪ねてくるようなことがあれば、快くは思わなくとも、助けてやってくれないか?』

 

「俺は家出少女を追い返すほど鬼じゃないよ」

 

 柔らかな口調でサンキュな、と竜星から礼をされ、お前からされるようなことではないと思いながら等閑に返事をして、通話を切る。

 

 ぐう、と腹が鳴った。起きたばかりだが腹が空いた。下に降りれば、昼食は用意されているだろう。今日は特にどこかへ出かける予定はないがクローゼットから手元にあった適当な服を身繕い、それに着替える。部屋を出て階段を下り、母屋からのびる渡り廊下を通って本堂の前を横切る。傘を取って俺は一度外に出た。大きな雨雫が強く傘を打ち付ける。境内を通り、石畳の古風な階段を降りていく。

 

 姿月が転校してきた日のことを思い出す。あの日も、午後からこんな雨だった。雨降りの日は、嫌いだ。何もいいことがない。

 

 滑りやすくなった階段を慎重な足取りで降り切り、山門を潜る。私道に出て、左右を少し見渡すと、いた。姿月である。道路に沿った塀のすぐ下にしゃがみこんでいた。姿月が顔を上げ、こちらに気付く。そして、やや目を逸らしながら、

 

「……望」

 

 今にも雨音に掻き消されてしまいそうなほどに、弱弱しい声で俺のことを呼ぶ彼女は、傘も持たず荷物も一つも持たず、完全に水を吸い切った服を身に着けていた。髪は幽霊のように濡れ、目の下にはその間ほど黒い大きな隈が出来ている。竜星に一日ホテルに泊まると言っていたのは嘘だったのだろう。いつからここにいたのかはわからないが、もしかすると朝から、雨の中ずっと……。

 

 これだから、雨の日は嫌いなんだ。妙にセンシティブになってしまう。あの日、溢れかえるほどの憤りを感じた姿月に対して、今は、憐憫の情が何よりも先に出てくる。

 

 俺は姿月に近づき、傘の中に入れてやると、寺の方を顎でしゃくった。

 

「ついてこい、姿月。取り敢えず上がれ」

 

 

 

 雨樋を滴る雫が、より大粒担って落ちていく。縁側の内と外では、もはや別の世界である。

 

 姿月は、渡したタオルで体を拭きながら、無言で俺の後ろをついてきている。まず風呂にでも入れた方が良いのだろうか。おそらく昨日の夜から何も食べていないのだろうから、何か食べるものも用意してやらなければいけないか。と、思考に耽りながら歩いていると、ふと、姿月の足音が消えたことに気付いた。

 

 振り返ると、姿月は、少し離れた本堂の扉の前で、何かに取り憑かれたように本堂内を凝望していた。

 

 近付いて、姿月の凝視する方向を見ると、鈍色の肌の観音菩薩像が、いつもと同じ姿勢で微笑を浮かべながら鎮座している。

 

「仏像が珍しいのか?」

 

 そう尋ねると、姿月は、観音像から目を離さないまま、首を縦に振って見せた。

 

「望……。あれは宇宙人の剥製か何かか?」

 

「そんな罰当たりな」

 

 心配をして損した。本当に、こいつの頭の中にはそれしかないのか。

 

「あんな肌の色をした人型の生き物なんて、私はグレイ型の宇宙人くらいしか知らない。それにこの星の人間は、あんなに沢山の手が生えていないじゃないか」

 

「面白いことを言う娘さんだね」

 

 窓の少ない薄暗い本堂の暗闇から、ふいと一人の男が現れた。住職の恰好をした、俺の父親である。

 

「この娘さんは、お前のお友達かな、望」

 

「……あぁ、まぁ、そんなところだ」

 

 と不明瞭な返事をする。友達かと聞かれてはっきりと肯定できる関係かどうかは俺にはわからない。

 

「姿月舞と言います」

 

「姿月舞さん。……望もね、昔同じ事言っていたんですよ」

 

 と父さんが、手と手を合わせて、懐かしいことを思い出すように目を細める。

 

SF映画の小さな鼠色の宇宙人を見て、あれはまるで仏様のようだね、と言ったんです。先程、仏様を宇宙人のようだといったあなたの瞳は、あの時の望のように純粋無垢で穢れがなかった」

 

 相当昔の話なのだろう。全く記憶の片鱗にもない、父さんの口を押さえたくなるほど慚愧に堪えないお話である。

 

「そ、それは本当ですか

 

「えぇ、本当ですとも。是非、望と仲良くしてやってください。知っての通り気難しいやつですが、あなたなら、うまくやってくれそうです」

 

「はい、勿論です!」と元気よく返事する姿月。

 

 あぁ、何故か交友関係が親公認のものになってしまった。父さんが、嬉しそうに頬の皴を大きくして笑っている。ここに口を挟むのは、野暮というものだろう。

 

 姿月が、俺の方に顔を向ける。先程までの酷く落ち込んだ表情とは打って変わって、何か吹っ切れたように明るい。

 

「望! 全てわかったぞ! 今日の夜、もう一度、広い星空の見える場所に行こう!」

 

「わかった? あの夜言っていた、合言葉とかいうやつか?」

 

「そうだ、今日だけは頼む、怒らないで私の話を聞いてほしい」

 

 俺の目だけをただ真っすぐに見詰めてくる姿月の目は、あいつが転校してきた日に見たものと同じ目。自分の言うことに確信しかもっていない強い目である。

 

「あぁ、いいぞ、話だけは聞いてやる。だが、外に行くのは難しいだろう。残念だが、今日は一日中雨だ」

 

 外を見ても、先ほどより雨は強くなっており、当分の間は止みそうにない。

 

 だが、それを聞いて尚、姿月は豪語した。

 

「大丈夫だ。今夜は晴れる。私が星を望んでいるんだ」

 

 

 

「本当に止んだよ。お前は宇宙人を名乗るより、超能力者を名乗ったほうが良いんじゃないか?」

 

 時計は丁度八時を示す。雨上がりの外気は、若干肌寒い。ジーとなくコオロギが訪れつつある夏の終わりを感じさせる。

 

 姿月が星を見るのに選んだ場所は、学校裏の秋桜畑だった。十分な広さがあり、周りには空を遮るようなものはない。天体を見るのに、中々適した場所だろう。

 

「それもいいな、これからは両方を名乗るとするか」と、予想外の返事。朧月の柔らかい光を背に、姿月が振り向く。

 

 姿月が不敵に笑う。一歩たじろいで、水を含んだ柔らかい土を踏みしめた。

 

「それでは望、答え合わせを始めよう」そう言って、空に手を掲げる。星に手を伸ばす。

 

 俺たちの間を風が通った。緊張が走る。俺は固唾を飲んで次の言葉を待った。

 

「仮に私があの夜言った案が正しかったとすると、私は君が宇宙船を呼び寄せるための合言葉を探さなければならない。だけど、君は記憶を失くしている。となると、この地球、それも君の暮らしている身近なところに、その記憶を呼び起こすトリガーが隠されているはずだ」

 

 と、姿月は左手を脇に挟み、右人差し指を立てて理路整然と持論を唱える。

 

「そう、そのトリガーこそあの観音菩薩像、そして君が幼いころに見たというSF映画だ。宇宙人に仏像を連想するなんてことは、そう多くあることではないだろう」

 

「成程、仮定が正しいのであれば、それは面白い推論なのだろう。だが、トリガーがわかっても合言葉を見つけなければ意味がないんだろう?」

 

「その通りだ。だから合言葉もすでに見つかっている。君の家の観音菩薩像は全て東向きだった。これは宗派の問題なのだろう。だが、トリガーの一つが、鼠色宇宙人を連想させるだけしか仕事がないなんてことはないだろう。東向き。宇宙人。映画。君はあの映画を見たのが相当昔だったらしいから、覚えていないかもしれないが、あの映画にはグレイ型宇宙人が叫ぶシーンがあるんだ。上り始めたばかりの月……東側を向いてな」

 

 いいや、よく覚えている。有名なシーンだ。帰ることの出来なくなった宇宙人が月に向かって叫ぶのだ。確か、セリフは、

 

「『私は宇宙人だ。帰りたい。ただそれだけだ』、そして私はこれが合言葉だと踏んでいる」

 

「ということは俺がそれを言えば、仲間の宇宙船が迎えに来るとお前は主張するのか?」

 

「そういうことだ。ちゃんと映画に準えるのなら、東の空に向かって叫ぶんだぞ」

 

 姿月が一歩後退する。舞台ができた。これは、俺と姿月の決戦の場である。合言葉とやらを俺が言って、何もなければ俺の勝ち。俺が宇宙人でないことが証明され、間接的にあいつが宇宙人であることが否定される。もし何かがあれば、……それは大事件である。

 

 東の方向を向く。目を閉じる。そして、胸いっぱいに空気を吸い込み、出せうる最大の声で叫んだ。

 

「『私は宇宙人だ。帰りたい。ただそれだけだ』‼‼‼

 

 声が、反響する。虫たちも鳴くことをやめ、まるでこちらに注目しているかのように辺り一帯が完全に音を失った。

 

 何も起こらないまま、一○秒が経ち、二○秒が経ち、三○秒が経った。俺にも姿月にも何の変化もなく、空に変な明かりが浮いたりもしない。

 

「……ほら見ろ、姿月。迎えは来ない。俺が宇宙人じゃなく、お前が宇宙人じゃないからだ。宇宙船なんて存在しないからだ。お前が盲目に受け入れなくても、これが現実だ」

 

 静かに空を見ていた姿月は、俺のことを見ると、うっすらと笑った。

 

「どうして、望はそんなに自分が宇宙人であることを否定するんだ?」

 

「自分が宇宙人ではないことを自認しているからだ」

 

「私だって、お前が宇宙人であることを知っている。お前は知ろうとしていないんだ。知りたくないことから目を背けているだけ。他人の言葉を受け入れないんだ。もしかしたらそうかもしれないじゃない。お前は何も知らないんだ。私から見れば、お前が宇宙人であることは、こんなにも明確なのに」

 

 と、早口に捲し立てられるが、それも負け犬の遠吠えにしか聞こえない。

 

「……望、今まで付き合ってくれてありがとう。私は帰ることにするよ」

 

「あぁ、もう宇宙人などと自称するのはやめて、普通に生きるんだな」

 

「うん……、さようなら」

 

 姿月は、俺の返事を聞くと、寂しそうに微笑を浮かべて頷いた。

 

 姿月は、ゆっくりと俺に近づいて来ると、右手を挙げた。東の空を指さす。指の先の月の近くには、一際強い光が一つ。その光点は、あっちへふらふら、こっちへふらふら。踊るように移動して定まらない。星でも流星でもない。飛行機でもISSでもない。だとしたらあれは一体。まさか。いや、でも、それはあり得ない! しかし、パッと強い光とともに夜の暗さに溶け込まれてしまっては、一抹の不安を覚えてしまう。

 

 急いで姿月の方を振り替えるが、そこには誰もいない。ただ、伸びた秋桜が夜風に揺れていた。驚いてもう一度空を見ても、銀砂のような星々が草原を覆っているだけだった。

 

 この日から、姿月舞を見た者はいない。

 

 

 

 結局、大人になっても。姿月が何者だったかは、分からない。俺が何者なのかも未だに想像がつかないままである。

 

 姿月舞と過ごした数か月、本当に盲目だったのはどちらか。それすらも俺は知らないままである。