三択

うすらい

 

 それはとある日の学級会が切っ掛けだった。その日の司会が鷹取静でなければ、その日に彼が黒板にその議題を書きさえしなければ。こんなことにはならなかった。

 

 教壇に立つ彼の姿は、それこそ教室の隅から俺たちを観ている担任教師よりも教師らしい。彼は目尻を下げ、頬をゆるめ、いかにも善人風な笑顔を作って、小首を傾いだ。最前列に座っていた俺は、その細められた切れ長な瞼から覗く瞳が、全く笑っていなかったのを覚えている。

 

「皆さん、今日の議題はこれです」

 

 後ろの議題。ちょうど、彼の長身に隠れていた縦書きの議題を、鷹取は指し示す。黒板には、教科書体というのだろうか――何かのフォントのように整った字が、大きすぎず、小さすぎず、堂々と並んでいる。

 

「みんなは」

 

 鷹取は丸眼鏡のつるを持ち上げた。銀縁が鈍く光る。

 

「鶏か卵、どちらが先だと思う?」

 

 音読教材のCDのような声で議題が読み上げられた。よくある話だ。俺は頬杖をついた。どうせ班で話し合って考えをまとめるやつだ。俺の班には学級会のときだけやたらといきいきしているザッキーと風紀委員の真面目一辺倒な吉田とかいう女子がいるから適当に相槌だけ打っときゃ大丈夫だろう。

 

 六限目。眠い。あくびをしようとして、口をふわと開ける。しかし、鷹取の次の一言で目がすっかり冴えてしまう。

 

「僕は、ポン酢だと思うな」

 

 は?

 

 ポン酢。その言葉が俺の脳髄を捕らえ、自我のくびきをどったんばったんと壊して立ち入り、揺すぶり、目の奥でちらちらと爆発した。目の前に黒いシミがちらつく。ポン酢。ポン酢。鶏か卵。ポン酢。僕は、ポン酢だと思うな。

 

「みんなもそう思うだろう?」

 

 鷹取が手のひらを上に右手をやや高く差し上げて、返事を請う。

 

 いやいや何を言ってるんだ。いくら県内でトップの男子校を狙ってるからって、受験勉強のしすぎで頭がおかしくなったんじゃないかアイツ。

 

 あほらし。俺は組み合わせた腕に頭をうずめて、本格的に寝に入る体勢を作る。

 

 その刹那、床の震えがむずむずと足から伝わってきた。椅子を引く音。ひとつやふたつじゃない。これは、授業前と授業後の号令と同じ感じ。――全員分の椅子の音。

 

「ポン酢です! 鷹取くん」

 

 声だって、「お願いします」だったらどんなによかったことか。

 

 俺は頭を上げて、隣を見た。スカートから伸びたなまっ白い、静脈の透き通る太腿が目に入り、咄嗟に目を伏せる。真新しい吉田の白靴の爪先は、きっかり四十五度に開かれている。

 

「そうだろうそうだろう」

 

 満足げに頷く鷹取に対し、皆は微動だにしない。

 

「先生はどうです?」

 

 教室の隅にいた担任は即座に立ち上がった。脂肪の重みを憂うような、普段の緩慢な動きからは考えられないキレの良さだ。

 

「ポン酢です! 鷹取くん」

 

 腹の底から出したような声。鷹取は満足げに、ぱぁんと一度手を打ち合わせる。

 

「ありがとうございます」

 

 その眼が、笑っていない真っ黒な瞳が、ぎるり、とこちらを見た。目が合った。鷹取の瞳の中には俺がいる。鷹取は、教壇から身を乗り出した。鷹取の瞳の中の俺の瞳の中には、鷹取がいる。

 

「穂谷くんは?」

 

 笑みを形作っていた薄い唇が、早口に急き立てる。

 

「え、ああ」

 

 俺は思わず立ち上がった。椅子を押し込む。その音に掻き消されそうなくらい、ほとんど返事ともいえないような声が出る。

 

「穂谷くんはどうですか」

 

 俺の声に被せるようにして、それこそ唾が飛んで来そうな勢いで鷹取はなおも問い詰める。

 

「は、いや、あのこれ」

 

 どうといわれたってわからない。そもそも何を聞かれていた?

 

「何のドッキリ?」

 

「ドッキリとは、滅相もない」

 

 鷹取は身を起こす。やれやれ、とわざとらしくためいきを吐く。けれど目は依然として俺を見据えたままだ。

 

「もっと人の質問に真面目に答えるべきだよ」

 

 眼鏡の銀縁が、午後の陽を反射してキラリと光った。

 

「もう一度問おうか」

 

 そう言って鷹取が息を吸うのと時を同じくして、プツン、とノイズ。黒板の上のスピーカーからだ。

 

「……いや、僕が問うまでもないな?」

 

 にぃっと唇を歪めて、鷹取はスピーカーを仰ぎ見る。スピーカーはぶつ、ぶつ、とノイズを二、三度垂れ流したのちに、くぐもった音声を発し始めた。

 

「鷹取くんから皆様にご質問です。『鶏か卵、どちらが先だと思いますか?』、繰り返します。『鶏か卵、どちらが先だと思います……」

 

 最後までは聞こえなかった。

 

 あちらこちらの教室で、椅子の音がしたせいだ。上からも、下からも。空気がふるえる。ポン酢です! ポン酢です! ポン酢です! ――――。

 

 俺は絶叫した。

 

 逃げなきゃ。まずい。普通じゃない! 教室の前の扉から出ようとして、鷹取に先回りされる。Uターンする。

 

「まぁ逃げたところで無駄だがね」

 

 うるせぇ、知るか!

 

 どけ、どけ、どけ! そう叫びながら机と棒立ちの同級生を押しのける。膝を机の脚で打った。痛い。どうにか後ろのドアからまろび出る。

 

「今にきみは、ポン酢と言わざるを得なくなるだろう!」

 

 鷹取の声が、背中に投げつけられる。

 

 スピーカーは未だに質問を繰り返している。上からも下からも「ポン酢です!」の大合唱だ。廊下を走る。声を聞くたびに目の奥で星がはじける。自分の靴音に意識を向ける。階段を一気に駆け下りて、手すりを掴んでターンして勢いをそのままに外へ飛び出した。校門まで駆け抜ける。

 

 とにかく家に帰ろう。施錠された校門を飛び越えて、すぐそこの坂道を駆けあがった。

 

 やがて声は遠のき、小さくなり、自分の靴音の方が大きくなり、家の近くまで来て完全に消えた。住宅地はいつもと変わらない。ポン酢騒動が別世界の出来事みたいな顔で、どの家もつんとすましたいでたちだ。いわゆる、「閑静な住宅街」。

 

 俺は走るのをやめて、歩き出していた。とにかくこれで、明日までは安心だ。明日も学校がああだったら困るけれど。

 

 家の玄関扉を開けようとして、気づく。鍵が入っているはずの鞄がない。置いてきてしまった。でも、取りに帰る気になんてなれない。

 

 インターホンを押す。しばらくして、プツンっとノイズが入って、母さんの声がした。

 

「あらぁ、どうしたの」

 

「ごめん、ちょっといろいろ」

 

「まってて」

 

 またもプツンっと切れる。びくり、と肩が跳ねる。なんとなくそわそわして、インターホンの前から玄関扉の前に移動した。

 

 ぱたぱたと足音がこちらに近づいてくる。玄関扉にはめこんだすりガラスの向こうに、母さんの脚が見えた。開錠の音がした。玄関扉が開いて、母さんの顔が見えたとき、本当にほっとした。

 

「鞄は?」

 

「わすれちゃった」

 

 そんなことあるのかなぁ、などと言いながらも、母さんは中に入れてくれた。

 

「そうそう、ニュースよニュース。続き見ないと」

 

 ぱたぱたとスリッパで居間に急ぐ母さんに続く。居間に入って、とりあえずテレビの前のソファに腰を下ろした。母さんはソファの後ろからじっとテレビを見ている。俺もテレビに目を向けた。

 

「皆さんに問いたい」

 

 白い背景。シャッター音。突きつけられるマイク。見出しには、「世紀の大問題二択の問いに三択目か」。背筋に氷水が流されたような心地がした。画面を注視する母さん。マイクとフラッシュの中心には、糊の効いた学ラン。折り目正しく穏やかな笑み。目尻を下げ、頬をゆるめ、いかにも善人風の笑顔。

 

「鶏か卵、どちらが先だと思いますか」

 

 銀縁の眼鏡越しに、笑っていない眼がぎらついた。まただ。頭の奥で星がはじけた。

 

「ポン酢です!」

 

 ひゅう、と喉から情けない音がした。今のは、テレビの音じゃない。今の声は、後ろからだ。

 

 俺は振り向けなかった。外からも聞こえてくる。閑静な住宅街は死んだ。ぐらぐらする。黒いシミがちらちら目の前に広がっていく。消えない。塗りつぶされていく。

 

 ポン酢です! ポン酢です! ポン酢です! ――――。フラッシュ音。ポン酢です! ポン酢です! ポン酢です! 僕はポン酢だと思うな。鶏か卵。鶏か卵。ポン酢。

 

 ポン酢です!

 

 ポン酢です!

 

 ポン酢です!

 

「穂谷くんはどうですか?」

 

「ポン酢です!」

 

 

 

お題

 

「鶏か卵、どっちが先だと思う? 僕はポン酢だと思うな」