怪しい宿泊客

仏谷山飛鳥

 

 昔、少しおかしな客が来たことがあった。その客は、小さく低い声で、背も大して高くはない。何年も着まわしてぼろぼろになった川のコートをきた三○代くらいの男だった。男は下を向いて顔もろくに見せないまま一泊の手続きを取ると、足早に、二階の、この宿で一番小さな部屋へと一人で入っていった。玄関の時計の鐘が、午後三時を告げる。来週で八○になるとは思えないほど元気な親父は、変な客が来たものだと呟きながら、受付のソファにもたれかかった。こんな寒い日にわざわざ何もない村にくるなんて、かわいそうなもんだ、と続ける。私は夕飯の支度をしに台所へと向かった。

 

 

 

 午後六時、例の男の部屋に電話を掛けた。しかし、一五秒ほど経ったが電話には出ない。その様子を見た親父が、風呂にでも入ってるんじゃないか、とソファで夕刊を眺めながら言う。私はゆっくりと受話器を置いた。その時不意に、かすかな胸騒ぎがした。が、雑念を振り払うかのように私は頭をぶるっと振った。

 

 一時間ほど経ち、夕食の案内のために、もう一度部屋に電話を掛けた。今度は三秒も立たないうちに男は応答した。

 

「はい」

 

「夕食の支度が整いました。お部屋で召し上がられますか? それとも――――」

 

「いや、食堂の方に伺います」

 

 電話越しの声は、なんだか焦りの表情を隠しきれずにいるようだった。その実態というものを私は知る由もなかったのだが。

 

 数分後、はじめと同じく足早に、次は階段を降りてきた。やはり、なにかが変だったのだ。ちゃんと服は着替えてあるのに、少し汚い感じがした。失礼だとは思ったが、思わずこんな言葉が口を突いて出た。

 

「あの……お風呂は……?」

 

 男はびっくりした様子でこちらを見た。その時私は、初めて男の目を見てぎょっとした。一瞬にして、鳥肌が全身に広がった。まるで夜明けを告げる二ホンオオカミの咆哮のごとく、彼の眼から放たれる違和感が私の心臓を飲み込んだ。とまで言うと大げさになるかもしれないが、その目は私に、一種の恐怖を植え付けた、とともにその恐怖の実が一瞬にして成ってしまったのだ。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

「えぇ……入りましたよ、もちろん。見て頂ければわかると思いますが……」

 

「あぁ、そうですね……。失礼いたしました」

 

 男はそのまますたすたと食堂のなかに入っていくのを、私はただ呆然と眺めていた。

 

 はっと気が付いて、男の膳拵えをするために男についていった。私の足取りは、きっと重かったに違いない。

 

 厨房に用意していたお膳を男の前に供え、料理の紹介をする、ただそれだけの動作に私の緊張は溢れ出ていた。恐る恐る調味料を並べていた、その時だった。ちょうど今日仕入れた新鮮なポン酢をお膳の傍に置いたその時。男はおっかないお化けでもみた少年のように驚いた様子で、

 

!? ……何だ、ただのポン酢か」

 

 そう呟いた。

 

「どうかしましたか?」

 

 私がそう訊くと、男は小さく首を振って、またいつもの調子でいいえ、と答えた。男の給仕を終え、少し退屈という名の安堵を迎えた私は、男のあの不審な驚きに対する疑念を抱いたまま、食堂のテレビをつけた。テレビには、ちょうど夕刻のニュースで連続殺人犯が逃走している、とかいう、大方そんな内容の報道がされていた。近ごろ東京の方で頻繁に起こった殺人事件のことだろう。都市ではこんなむごい事が起きてしまうのだと、人間の営みの愚かさに物思いにふけてしまう。何気なく男の方に目を向けると、男は例のごとく下を向いたまま、まずそうに食事を続けていた。少なくとも私にはそう見えた。他の仕事が入っていた私は、厨房にいるバイトの娘に後片付けを任せて、食堂を出た。

 

 

 

 午後八時、男がもうそろそろ食べ終わると思われる頃、私は受付で今月の収益計算を、一人でしていた。親父はもうすでに自分の部屋で眠りについていたので、宿で聞こえる音は私の動かす鉛筆と、食堂で娘が皿を洗う音くらいだった。すると、ガラッという音とともに男が食堂から出てきた。男はまた足早に階段を駆け上り自分の部屋に入ると、すぐさま出てきて一階へ降りてきた。男は片手に、あのぼろい革のコートを持って外へ出ようとした。この時間の外出は基本的に確認が必要だったので、どこへ行くのか男に尋ねた。男は、ちょっとそこまで、すぐ帰って来ますから、といって出て行った。外は随分暗くなり、雪が降ってもおかしくないくらいには寒かった。こんなに寒い中出て行くあの男は一体何者なのか、気がかりで仕方がなかった。「すぐ帰ってきますから」という言葉が無ければ、宿泊施設で働く人間として、いや、社会人として越えてはいけない一線を越えてしまっていただろう。そんなことを考えながら自分で自分を慰めようとした。さらに言えば、自分で自らを見下すように宥めようとした。しかし、男の存在に対する‘怖いもの見たさ’が私の理性よりも勝っていた。私はついに、あの部屋へと向かった。

 

 そっと部屋の襖を数センチ開けた。ゆっくりとその隙間に顔を近づける。胸は高鳴り、ニュースの報道が脳裏を過った。その時の私は、きっとどんな犯罪者よりも背徳感におぼれ、どんなに優秀な刑事よりも正義感に満ち溢れていたであろう。薄暗い部屋の中に目を凝らした。全ての感覚をただ部屋の中に注ぎ込んだ。と、その刹那、玄関から扉のあく音が聞こえた。しまった、と思う隙もなかった。少し開いた襖を慎重かつ乱暴に閉め、何も起こっていないという事実を自分の頭に刷り込むことで自らの過ちから逃れようとした。半ば速足で階段を下りる。そこには、靴箱に自分の靴を入れながら私に背を向けて立つ男の姿があった。安堵を心の底にしまい込んだ私は、途中だった収支計算の仕事にとりかかろうとした。この時初めて男の方からこちらに声をかけてきた。

 

「あの、見ました?」背筋が凍った。もしもこの時私が我に返って冷静に自分自身を俯瞰することができていたなら、真実を知ることはなく、あんな思いをせずに済んだだろう。

 

「いえ……あ……いや、何がです?」

 

「何がって、そりゃあないでしょう」

 

 淡々と私に話しかける男の声は、つい先ほどと同じ人間が発するものとは思えないほどの豹変ぶりだった。犯人の悪事を暴いて追い詰める刑事の如く、男はゆっくりとこちらへ向かって来た。私はもう動くことができなかった。男が続けた。

 

「見ましたよね?」

 

 とうとう終わりを迎えた。夕べ感じた恐怖は男の目を前にして何倍にも増し、疑いが強くなるにつれ、確信に変わりつつあった。私は半分無意識に、こう呟いた。

 

「れ……連続殺人……」

 

 男はコクリと頷いた。私はそこで意識を失った。

 

 

 

お題

 

!? ……何だ、ただのポン酢か」