の栖

 

 

 第二防衛指定都市は、政府に放棄され、遂に決壊への道を辿る。

 

 時計の針が午後四時を指したばかりだというのに、暖かな斜陽に照らされる都市全体は、不気味な静けさに包まれていて。ビルとビルの間を、一二月の冷たい風だけが音を立てて吹き抜けていった。

 

「なぁ、そら。自分でも何言っているのかわからないけどさ、俺今、幸せなんだ」

 

 と、小さな白い賃貸マンションの十余畳のリビングで、ソファに深々と体を沈める西條歩夢は、独り言のように呟いた。その隣に小さく座り、西條に肩を抱き寄せられる柏木そらは、六日間深沈として秒読みのみを続けているテレビを一点に見つめながら彼の言葉を拾った。

 

「私も。よく分からないけど、幸せって多分こんなのかなって、そう思う」

 

 一週間前、機械軍は、第二防衛指定都市への進攻を表明した。都市を囲う防壁の外に鼠一匹通さないように並ぶ機械の数は、一つの都市を落とすのには明らかに過ぎた兵力である一〇万強。それに対する第二防衛指定都市の兵士数は三万、有人戦闘機は一〇〇〇機と少し。ハッキングを恐れて無人機の一切は使えず、相手は、原動力を破壊しない限り止まらない不死の兵士。戦力差は歴然で、抵抗を試みても万が一にも勝利はあり得ない。第二防衛指定都市は、即座に中央都市と第一防衛指定都市からの援軍と武器の補填を要請。だが、翌日、届いた返事は、無慈悲にも要請の不承知を伝えるものだった。第二防衛指定都市の放棄の決定は、人間と機械の戦争において追々不利にはたらくことを中央都市の政府の人間たちも重々理解していることだろう。しかし、敵兵を数割は削れる爆弾を投下するボタン一つ押すことせずこの判断を下したのは、戦力の無駄な損減を無くすためか、それとも御上の保身か。

 

 テレビの画面上に表示される赤い数字は、残り二四時間を切った。明日の今頃には、第二防衛指定都市に占住する約八〇万の人間の命は、ほぼ消えてなくなくなっていっているのであろう。それはあまりに現実味を帯びておらず、歴史の教科書に載っていた、数百年前に騒がれたと言われるノストラダムスの大予言とかそんな風に、嘘や夢、はたまたドッキリといった結末を迎えると信じ込んでやまない者もいれば、機械に殺されるくらいなら、と自ら命を絶つ選択を採る者すらもいた。多くの人々は働くことをやめ、都市は食糧難に呑まれた。

 

 そんな荒廃した世界で、まるで二人だけが取り残されたような何も無い空間で、柏木は何度目かもわからない質問を繰り返す。

 

「ねぇ、歩夢……。本当に行かなきゃダメなの?」

 

 柏木は、西條の顔を見上げる。ベランダに通じる窓の奥。壁に阻まれて見えない機械軍を望むように目を細める西條から、返事はない。それでも柏木は、彼の服を掴んで何度も希う。

 

「歩夢が、有人機の数少ないパイロットだってことは私も分かってる。いつか、歩夢が死んじゃうかもしれないってことは覚悟してた。でも……。今回は違うじゃない。初めから死んじゃうって分かってて、私は恋人を戦場に送り出したくない。どうせ死ぬなら、最後まで一緒にいたいって! ……そう、思うこともいけないの……?」

 

 声が震える。眦は潤み、鼻頭が赤らむ。きっと、加勢が着到するならば、または兵の数が現実よりもずっと多いのならば、柏木も自分の本心を胸中にしまい込むことができただろう。だが、現実は違う。大事な人が、必ずと言っていいほどの確率で死ぬとわかっている戦場に赴くことを、容易に肯んずることはできない。それは間違いなく当たり前のことで、生来積極性に欠けるはずの柏木が振り絞ったなけなしの勇気を、誰も責めることなど出来はしない。

 

 西條は、柏木の肩に掛けていた手を頭の上にポンと乗せ、彼女の目を見詰めて笑った。

 

「……我が儘、言わないでくれよ」

 

 苦笑するような、懇願するような、そんな寂しい微笑だった。柏木の肩まで伸びた柔らかい黒髪を梳りつつ、西條は震えた声で続ける。

 

「俺だって……死ぬのは怖いよ。今に限った話じゃない。今まで行ってきた、兵棋演習を何度も重ねて殆ど安全の確保された戦闘でも、いざ機械と真正面から向き合うと死の恐怖が胸の全域に巣喰って、幾度となく逃げ出したくなったことがある」

 

「……、」

 

「それでもな、やっぱり俺は逃げ出すわけにはいかないんだ。一人逃亡すれば、臆病風に吹かれて後に続くやつが一人二人と必ず現れる。確かに今回の戦いは、万が一にも勝てる戦いではないのかもしれない。けど、もしかしたら、億が一には勝てるかもしれない。でも、戦いが始まった時に人間側の兵士が何割も少なくなっていたら、勝てるものも勝てなくなる。だから俺は、逃げるわけにはいかない」

 

 言って、西條は、柏木の耳元で呟く。

 

 ──だから、ごめんな、と。

 

 夕日の傾きは徐々に小さくなり、あと少しでビルと壁の向こうへと沈んでしまう。発電所では無人で電気を生産しているため、電気の供給は止まっていないが、それでも節電は欠かせないため、リビングの暖房は点いていない。そのような指先の悴む部屋で、柏木は西條の熱を受け取るように、または自分の熱を伝えるように寄り添う。

 

 柏木は悄然とした表情で、彼女のジーンズのポケットを弄りながら微かな息を漏らした。

 

「歩夢は……強いね」

 

 そっと柏木は、机上に小さな二つの白い分包紙を取り出した。西條は、訝しげに目を細めながらそれらを手に取り、窓の光の透かして見る。中では、袋の五分の一ほどの量の粉末がさらさらと流れて一定の形を取っていない。西條は、驚いて咄嗟に顔を上げて柏木を見た。

 

「これ……おま……!」

 

「私は歩夢みたいに強くないから……こんな恐ろしい世界から目を背けたくなっちゃった。早く楽になりたくなっちゃったんだ。すごいよね、これだけで今の事態の異常さがよくわかる。こんなに危険な物を一般人が簡単に手にすることができるの。もし歩夢が最後まで一緒にいてくれるって言ったら、明日、思い出がいっぱいに詰まったこの部屋で一緒にこれを呷ってもいいかもしれないなって思って、用意してたの」

 

 西條は、唇を噛み、拳を固く握る。彼はその握り拳を高く振り翳して、けれど弱々しく、縋るように柏木の胸を叩いた。その拳に額を押し付ける。悲憤の感情を何とか抑え込む。

 

「でも大丈夫、今はもうこれを使う気はないよ。もし使う気があるんだったら、こうやって歩夢に見せることなんてせずにポケットの中に押し込んだままにしてる。……歩夢と抱き合って死ねないのなら、こんな物に意味はないんだよ」

 

 愛おしい物を愛でるように、柏木は自分の胸に寄りかかる西條の頭を優しく抱きしめた。

 

 肩を震わせるのは、西條だけではない。劇薬を保有していることを打ち明ければ、彼に失望されるかもしれない。そう憂惧しながらも、柏木が勇気の限りを尽くして分包紙を見せつけ述懐したのは、自分がいかに本気であるかを知って欲しかったからだ。致死量の毒を用意して、私はこんなにも本気です、だから一緒に死んでください、という一世一代のプロポーズなのである。

 

 それを受けて、西條は言葉を返し倦ね、顔を顰めた。長い間、二人の間に穏やかでない沈黙が部屋を支配する。時計の秒を刻む音だけが大きく木霊していた。柏木が西條を抱く力は徐々に強くなり、彼の服の背に大きな皺が寄る。

 

 考えに考え、先に口を開いたのは西條だった。柏木の肩に手を置き、引き剥がした西條は、彼女の瞳を見据える。

 

「俺だって、どうせなら最後までそらと一緒にいたいよ。死ぬのならそらを胸の中に抱いて死にたい。こうやって、そらに抱きしめられながら死にたいさ。でも……、俺はそれよりも生きたいよ。生き残られる可能性が限りなくゼロに近くたって、それが完全にゼロじゃないのなら、俺はどうしても死の運命に抗いたい。死の許容は、その人間最後の意向だから」

 

「……、」

 

「昔も言ったことがあると思うけど、軍人になるのが小さい頃から夢だった。人間が生み出した機械によって世界の美しさが崩れたのなら、機械を排除し元に戻すのは人間であるべきだと、そう信じていた。だから、軍人になって、この生きた空もない硝煙臭い世界をどうにかしたかった。人も世界も、何もかもを守りたかった。でも、その夢をしっかりと覚えていて尚、この心臓が動いている今守り切りたいのはまずお前なんだ、そら」

 

 西條は、一旦そこで呼吸を置いた。柏木の頬をそっと撫でる。

 

 機械軍が人間に対して反旗を翻したのは西條がこの世に生を受けた十数年も前であり、彼はその当時を文献でしか知らない。だが、彼の言うことは、決して綺麗事や戯言だと馬鹿にされていいものではない。

 

 空には一切の煙も無く、豊かで大きな家で一つの家族が手を取り合って幸せそうに笑っている。幼い頃、初めて開戦よりも前の世界の一枚の写真を見た時、彼は心打たれた。次にその写真の中の家族が全員空爆に飲まれたと言う事実で、空漠とした悲しみにポッカリと胸を開けられた。その時西條は決意したのだ。自分が、この色を失ったかのような世界に、写真の家族と同じ溢れんばかりの笑顔を取り戻してみせるのだと。そのために強くなければならないと訓練と実践のみを糧に生きていたような彼にとって、柏木との出会いは鮮烈だった。所謂一目惚れと言うものだった。叶うのなら、彼女のことを守りたいと、初めて特定の個人に対してそう言った感情を抱いた。いつか彼女と結婚して、子供をもうけ、写真のように、家族全員で晴れた空の下、満面の笑みの写真を撮ることが、いつの間にか彼の夢の一つになっていた。実はもう指輪だって買ってある。西條の消極的な性格のために、プロポーズはまだできておらず、寝室の机の引き出しに隠されているのだが。

 

 西條は瞬きをすることすら忘れて、柏木の瞳から目を逸らさない。ただ、彼のひたすらにまっすぐな思いを、限りなく近くて果てしなく遠い彼女の胸の中へと投げ掛ける。

 

「……だから、……だからそんな顔して死にたいとか言わないでくれよ、頼むよ……」

 

 ふにゃっと、西條は不安そうに崩れた笑みを浮かべた。柏木の頬を一筋の涙が伝って零れ落ちた。涙腺が、決壊する。西條の服の襟元を掴み、胸元に顔を埋めた。彼女の肩は、不規則に揺れている。「だって……、だって……!」と柏木は嗚咽を漏らしながら口から零す。西條は、彼女の小さな背中を優しく叩き、宥めた。

 

「昔から、人間は支配する側なんだ。人間は機械を作れるけど、機械は人間を作ることができない。この状況が変わらない限り、人間は機械に支配されない。尊厳は脅かされずに必ず守られているんだ」

 

「そんな……、慰めにも何にもならない言葉はいらない……」

 

 途切れ途切れの柏木の言葉は続く。

 

「その代わり、お願い歩夢、約束して。この都市を守ってくれるって。どれだけ難しくても、私が待ってるこの部屋に戻ってきてくれるって、約束して」

 

 少しだけ、西條は呆気に取られたような顔をした。しかしすぐに、柏木を抱く力をより一層強めて言った。

 

「……あぁ、戻ってくるよ。必ずな」

 

 柏木は、黙ったまま小さく頷いた。その動きを感じて西條の頬は緩んだ。

 

 生まれて二〇と五年も経たない彼らは、まだセンシティブな年頃を抜けていない。そんな未熟な彼らは、互いを近くに感じ、互いに慰め合うことでようやく前を向くことができる。

 

「こんなこと言っているけど、案外簡単に勝てるものかもしれないんだぜ?」と西條は鼻を啜りながら強がってみせる。

 

「うん……」と胸の中の柏木はしおらしく頷いた。

 

 二人がそのまま抱き合っているうちに、日は壁の向こうへと完全に沈んでしまった。

 

 

 

 一筆認め終え、西條は首を回して伸びをする。彼はすでに大きさにゆとりのある軍服を着込んでいるが、まだ日は顔を出していない。

 

 柏木はまだ、生まれた姿のままベッドの上でスヤスヤと寝息を立てている。戦争の前夜、眠ることはできるのだろうか、と言った不安もあったが、貪るように身体を求めあった二人は、泥沼に意識を沈ませるように深く眠った。西條は、未明のうちから湾曲した月を見つつ、基地に向かわなければならない。音を立てないように椅子を引き、引き出しの鍵を開ける。その中に擱筆したばかりの一枚の紙を滑り込ませると、再び引き出しを閉めた。

 

 立ち上がった彼は、忍び足で柏木の眠るベッドまで歩き、腰を下ろす。机上の小さなスタンドライトの幽けき光だけが灯る薄暗い部屋は、昨晩の気配が若干まだ残っている。西條の肌には、まだ新しい柏木の感覚が残っている。それすらも上書きするように彼は柏木の前髪を持ち上げ、額に軽く口付けした。唇同士ではないためそこまで長くはなく、それでいて同様なほど愛の深い接吻である。唇を離す。その後、彼女の柔らかく透明な頬を手で触れ、壊れ物を触るかのように愛おしげに撫でる。それを恥じらうかのように柏木は「んん……」と長い睫毛を揺らしながら息を漏らし、ゆっくりと目を開けた。西條の方に首を向けながら、二、三度屡叩く。

 

「起こしちゃったな」

 

 謝罪の意味合いを込めてそういうと、柏木は首を横に振った。

 

「歩夢は、私にもう何も言わずに出て行くつもりだったの?」

 

「いや、ただまだ家を出るまで一〇分くらいあるからな。もうちょっとゆっくりさせてあげようと思ってた。あまりに気持ちよさそうに眠ってたから」と西條は微笑んだ。

 

「私は嬉しいよ、歩夢を感じられる時間が一〇分増えたってことだから」と柏木も笑った。

 

 彼女は、頬に置かれた歩夢の軍人らしい大きな手の上に自分の手を重ねた。そして、目を細めて頬ずりする。

 

「今までの歩夢じゃないみたいだった」と柏木は、上目遣いで梅の花が開花したように頬を赤らめた。

 

 確かに、西條は昨夜、どこか吹っ切れていたのかもしれない。普段なら、あまり家に帰れないことに対する自責の念や、初めて恋慕した女性に対して奥手になってしまう彼の内気な性格が相まって、西條が柏木に情熱的になり過ぎることはなかった。柏木の寝ぼけ眼の本音を聞いて彼は、後悔した。たったそれだけで、彼女を喜ばせることができたのなら、心の内に隠した烈々たる思いを遠回しにせず直接的にぶつければよかったと今更になって自分の性格の弱さを悔いた。

 

「もし子どもが出来たら、父親の顔を見せてやらないといけないな」

 

 柏木は、目尻を下げて頷いた。彼女は、その言葉だけで満足だった。

 

「ねぇ、歩夢、私ともう一度キスして。今度は額にじゃなくて、唇に」

 

「起きていたのか」と西條は、恥ずかしさを隠せない様子で咎めるように言った

 

「何かを恐れてるみたいに唇を震わせておでこにキスをしてくるんだから、可愛くて」

 

 これ程までに顔を手で覆いたくなった時はこれまでなかっただろう。昨日、あれだけ柏木に死にたいなどと言わないでくれと熱弁しておきながら、いっそ殺してくれと西條は切望した。乾いた笑い声だけが、彼の心情を露呈するように歯と歯の間を抜けた。

 

 ところで西條は、これまでキスを求められたことなどなかった。それもそうである。色恋沙汰など介入する余地もない軍隊に身を置き、初めて運命を感じた恋人は、自分と同じように積極性の少ない人間であった。それ故に対処の方法がわからない。そっと唇同士を触れさせれば良いのか、それとも直情的なフレンチ・キスが良いのか。雰囲気というものもある。キスを求められてすぐにそれに応じるといううのもムードに欠けるというものだ。

 

 そのような初々しさの過ぎることを考えながら西條は、柏木の吸い込まれるように柔らかそうな唇を凝視していた。息が詰まるように感じた。平常を忘れた心を落ち着けるようにゆっくりと息を吸って、吐く。そろそろいいだろうか、そう思い、動き始めようとしたその時、柏木はベッドから起き上がった。胸元を隠すために厚い毛布を片手で押さえ、彼女も西條の唇を正視している。その出来事に西條は、咄嗟に対応することはできなかった。「遅い」と言って柏木は、髪を置き去りにする速度で彼の唇を奪った。

 

 柏木の唇は、少しだけ湿っていた。あまりに一瞬の出来事で、西條には何が起きているかすら理解に難しかった。ただ無造作に、何の抵抗もしないうちに唇を塞がれた。

 

 数秒、柏木が声を漏らして西條の口唇を堪能すると、ゆっくりと名残惜しそうに、彼女は西條から唇を離した。荒く甘い吐息が、西條の顔に掛かる。そこでようやく西條は、自分を取り戻した。彼は、柏木の腰に手を回す。彼女が息を整え終えた頃を見計らい、今度は自分から柏木の唇に自分のそれを重ねた。柏木は勿論、それを拒まない。

 

 ぱさりと毛布の落ちる音が、部屋の中大きく響いた。

 

 そのようにして、二人は少しの間、周りの時間が止まってしまったような甘美なひとときを過ごした。

 

 

 

 

 

「結局俺は、お前に振り回されてばかりだったわけだ」と西條は笑ってみせた。

 

 互いの興奮を落ちつかせるために幾許かの時間を要した後、西條は立ち上がってベッドから出た。柏木に背を向けたまま乱れた服を正す。その間二人は、言葉を交わすことはなかった。部屋を衣擦れの音だけが支配していた。双方言葉が見つからなかったのではない。考えた上で、何も口にしないことを選択していた。そしてそれは、西條にとっては良かったのかもしれないが、柏木にとっては胸の内を寂寥感に掻き乱されるようななんとも耐え難いものであった。

 

 西條の動きが止まると、柏木は手を伸ばして縋るかのように尋ねた。

 

「……もう、行っちゃうの?」

 

 西條は、振り向いて答えた。「あぁ、戦争の前夜を家で家族と過ごせるように便宜を計らってもらっただけでもありがたい。朝早く基地に向かうことに文句は言えないよ」

 

 西條は目を伏せて、玄関の方へと歩いて行く。柏木もベッドから出て、毛布で前を隠しながらそれについて行った。ベッドから出ると、空気は唐突に冷却されたように彼女は感じた。冷えた床に奪われて霧散する体温に、どうしても消化しきれない悲しみや胸の痛みを訴えることの出来ないフラストレーションを重ねた。何度も抗議し聞き入れられることのなかった願いをもう一度ここで口にするほど、彼女は聞き分けが悪くない。だが、最後にもう一度だけ、自分の今の思いを伝えてもいいだろうか。そう思って、彼女は、座って半長靴の紐を強く結んでいる西條のことを後ろから抱擁した。

 

「私ね、昨日歩夢が家に帰ってきてすごく安心したんだ。機械の進軍の宣告があって、六日も経った後だったから、すごく不安だった。でも久し振りに会った歩夢は、いつもと変わらずにただいまって、言って家に帰ってきてくれて、本当に安心したの」

 

 西條は、靴紐を結ぶ手を緩めず言葉も発しないまま、けれどしっかりと耳を傾ける。

 

「だから……もう一度安心させてね」

 

 きっと柏木は、約束と称して西條の口から自分の望む言葉を引き出すことでしか、己の平静を保つことができないのだろう。彼女の脳裏にふと、忠犬ハチ公という単語が浮かび、首を激しく横に振ってそれを頭から排除した。

 

 靴紐を結び終えた西條は、立ち上がる。柏木の手は、力なくするりと解けた。彼は、俯いて目の見えない彼女の頭に手を乗せた。

 

「言ったろ? きっと戻ってくるから、不安に思わず待ってろ」

 

 柏木が顔を上げると、そこにはニッと白い歯を見せる西條がいた。

 

「……うん」喉の奥から一人でに出たような声と共に、彼女は肯いた。

 

 その消え入ってしまいそうな声を聞いて西條は、頬を緩めて、ドアノブに手を掛けた。

 

「あぁ、そうだ、そら。俺が家を出てしばらくの時間を置いてから──そうだな、機械軍が侵攻を始める少し前くらいがいい。その時間になったら、寝室の机の一番上を開けてほしい。いいか、四時になる少し前だ。それまでは絶対にそこには触れないでくれ。これは俺からのお願いだ」

 

 後ろから、了解する返事が聞こえた。振り返ると、柏木はすでに立ち上がっていた。西條より十数センチメートルは低い──けれど、女性としては高い彼女は、凛として美しい。足は冷え切っているのに、震える素振りすら見せず、西條に微笑み掛けている。

 

「それじゃあ、行ってくるよ」と西條は言った。

 

「うん、行ってらっしゃい」と柏木は返した。

 

 開いたドアの先は、まだ早すぎる朝の暗さに覆われている。

 

 ドアの閉まってしまう摩擦の音が、いつまでも柏木の耳から離れなかった。

 

 

 

 

 

 柏木は、西條の指示通りにした。時刻は三時五〇分を回り、テレビのカウントダウンは、残り一〇分を切った。昨日二人が抱きしめ合った頃と陽光が殆ど同じ角度になってようやく、彼女は引き出しを開けた。

 

 平野にある第二防衛指定都市は、堅固な建物の中に立て篭もるのとそう深くないシェルターの中に逃げ込むのとでは、対して危険性は変わらない。可能な限りこの部屋から離れたくなかったため、柏木が採択したのは後者だった。

 

 窓の向こう側からは、発砲や、爆弾の爆発する音がいくつも重なって部屋を振動させている。四時になって機械軍が進軍を始める前に、戦力を減らしてしまうという作戦なのだろう、と柏木は解釈する。

 

 木製の引き出しの中には、小さな白い箱と、それに添えるように置かれた一枚の紙が、寄り添い合う柏木と西條のように置かれてあった。

 

 柏木は、決して落とさないようにと手に力を込めながら、しかし、手の震えを抑えられないまま小箱を手に取る。そして、その蓋を開こうとする。箱は貝のように上に開く形で、案外力が必要だった。開け方が違うのか、と持ち替えたりしながら、やっと箱の中と対面する。そこには、精巧なダイヤの装飾の施された、輝く女性用のサイズの指輪が収められていた。

 

「……!」柏木の口から声にならない声が出た。

 

 癖で口元を押さえそうになった。恐る恐るその指輪を手に取り、自分の薬指に嵌める。計ったようにサイズは丁度だった。表現し難い塊が彼女の胸の奥から込み上げる。しかし、鼻を啜り、涙を飲みながら彼女は、箱の横にあった紙に手を伸ばした。

 

 二つに折りたたまれた紙を広げ、その表面を目でなぞる。紙に書かれた文字は、確かにお世辞にも綺麗とは言い難い、西條の細い文字である。しかしその文字は、柏木もよく知るそれではなく、丁寧に書くことを最大限心がけたような努力が見受けられた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   そらへ。

 

 

 

 まずこんな形になってごめんな。

 

 でも、気持ちだけでも伝えないと俺の気持ちが済まないから、この手紙を書く。

 

 そらと出会ったのは、俺が軍に入る少し前だったから、もう四年になるな。あの時アプローチをかけて本当によかったと今でも思っている。

 

 そらも人の前に立つのが得意じゃないのに、俺がこう積極的な性格じゃないから、いつもリードしてもらうような形になっていたのは、ごめんな。一回デートした時に、そらをリードしようとして色々ミスをしたことがあったのは、今ではいい思い出だと思っている。

 

 俺は軍人だから、家に戻ることは半年に一回くらいしかないし、帰ってきても長い間居られるわけじゃない。だからそらには沢山の迷惑をかけたと思う。それでも俺が家に帰った時、嫌な顔なんて一つもせず、暖かく迎えてくれた。

 

 どれだけで兵役に疲れ切った心を芯から癒してくれていた。

 

 口で言えていれば、もっとよかったんだけど、恥ずかしくて言えなかったんだ。

 

 今まで、影から支えてくれてありがとう。

 

 本当に、ありがとう。

 

 

 

 俺、西條歩夢は、柏木そらのことを一生愛しています。

 

                               歩夢

 

 

 

 

 

 紙の上に一滴の雫が落ちた。柏木の視界がぼやける。

 

「あれ……?」

 

 彼女は、手の根元で目元を拭う。そこには、透明な液体が付着していた。自分自身も気づかぬ内に彼女は、涙を流していた。すぐにまた目がぼやけて文字が見えなくなってしまう。何度拭っても、意に反して涙は生産され続け、遂には、彼女の下瞼からダムが決壊するように大量に溢れ出した。もはや、彼女の意思でそれを止めることはできない。

 

 柏木は、何度も手で涙を拭いながら、西條からの手紙を読んだ。そして、彼が柏木に、この時刻になってから読むよう指図した意図を理解した。確かに、彼が家を出たばかり──いや、そうでなくても戦いが始まる前であったのなら、いてもたってもいられなくなった柏木は、西條の勤務する基地に駆けて行ってしまっていたかもしれない。

 

「ずるいよ……、歩夢……」

 

 柏木の足の力は抜け、とうとう彼女は座り込んでしまった。今となってはもう、彼のことを追いかけることはできない。この手紙の返事をしたくとも、それはもう叶わない。

 

 窓の中に、壁の向こうから、土煙が上がったのが見えた。遅れて、揺れるような爆発音が柏木の耳の中を揺らした。時計を見ると、時刻は、もう四時を回っており、テレビの中には、赤いゼロが六つ横一列に並んでいた。機械軍はすでにこの都市に向かって動き出しているのであろう。火薬の爆発する音は、秒を追うに連れて激しさを増していく。

 

 気づけば、体が強張っていた。手の中の西條からの手紙は、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。

 

 部屋の中の柏木は、無力で、ただその爆発が西條に向けて放たれたものでないことを涙で顔を汚しながら祈ることしかできなかった。