たとえ千の君が生まれたとしても

 

 

 マーカーで真っ赤に塗った爪。
にぱっと得意気に指を広げて見せてくれた千早の笑顔が眩しい。華奢なつくりの指を、でたらめな鮮やかさで彩る赤は、どういうわけかこっちが恥ずかしくなるくらい艶っぽい。
「きれいでしょ」
学ランの黒い袖から覗く、ささめ雪みたいに真っ白できめの細かい手指をひらひらさせて、にっと片頬をつり上げる。
「うん」
本当にきれいだった。千佳子はゆっくりまばたきをする。
おふざけのつもりでふと思い付いてやったのだろうけれど、彼がその赤い爪に憧れを抱いていることが、千佳子にはわかる。そうでなければどうしてこんなにもその爪が匂やかに映ることがあるだろう。
陶然と彼のことを見つめていると、不意にその当惑げな視線が向けられた。
「いつ塗ったの?」
どうしたの、と彼が口を開くより早く、快活な声を出す。これはきっと千佳子が見ないうちに身につけた声だ。
「国語の授業中」
「ばか」
「それでノート取れてないから見せて」
「やだよ」
意地悪、と口許に手を寄せてちいさく笑ってみせるさまは、昔のまま。
これならきっと空いてしまった時間の分もすぐに取り戻せる。いろんな人のために、いろんな彼が増えたとして、きっと自分はおだやかに見ていられる。どんな千早も、千佳子の知っている千早から生まれたものだから。

 

 

 

 東千早を初めて見たのは、幼稚園だった。
よく動く薄茶色の大きな瞳に、上向きにぴんとそった長い睫毛。幼さの顕著な体型にすら現れる手足の長さ。何よりも目をひいたのは、肩にかかっても余る長い髪だった。
まわりに溶け込めず、ふさぎがちだったきりん組の千佳子に、同じくきりん組だった千早はその小さな桜の花びらを並べたようなかわいい口を開いて声をかけてきた。「ねぇ、ちかちゃん! ちかちゃんのち、ちはやのちといっしょなんだって、ねぇ」その声は子どもの無邪気さを含みこそすれ、がちゃがちゃとやかましい印象は持たない声だった。
それから千佳子は、千早と遊ぶ女の子たちに入れてもらって遊ぶことが多くなった。遊びの内容は大体ままごと。いつも千早はお母さん役か、お姉さん役だ。幼稚園の遊び場のジャングルジムや鉄棒、男児たちの「戦いごっこ」にも千早はまるで興味を示さなかった。彼はその頃からテレビか何かで見たのか、口許に手を寄せて笑う癖があった。長く濃い睫毛に縁取られた目を細めて、ニコニコ笑う彼は、園内のどの女児よりも「女の子」だった。東千早は、完璧な「女の子」だった。現に、千佳子が、彼が男であると気づいたのは夏のプールの時間が始まってからだ。
母か、それとも誰からだったか、既に手繰り寄せるには遠すぎる記憶だが、東千早の母親は、本当は女の子を欲しがっていたのだとひそひそ話す下世話な噂を耳にした覚えがある。それなのに男の子が生まれてきてしまったのだから、中性的な名前をつけ、女の子のようにして育てているのだと。かわいそうね、と湿っぽくささやく声に、幼稚園児の千佳子は得体の知れない気持ち悪さを覚えた。不必要で、本人の気持ちを一切無視した同情。ゴシップにも似た扱いで、人の口にのぼる友達の名前。
千佳子は、別に構わないと思った。千早は何も嫌な思いをしていないし、千早がそうあることで、誰も迷惑を被っていない。千早は自分を受け入れていて、皆も千早と仲良しだ。どこに問題があるのかわからなくて、母に尋ねたこともある。そのたびに母は黙って首を振り、曖昧な笑顔を浮かべながら「千早くんとはあまり関わらないようにしなさい」と言うばかりだった。
最低だ。大人が彼のことをどう言っても、自分はそばにいる。彼が誰にも迷惑をかけていないし、なんの問題もないことを証明してやる。半ばむきになって、千佳子は千早と以前にも増して遊ぶようになった。他の女の子たちと集まってするままごとの他にも、ふたりで折り紙を折ったり、絵本を読んだり、お絵描きをしたりすることが増えた。その頃から千早は器用だった。千佳子は、彼がツルのくちばしをぴんと尖らせるために、細く長い指で折り紙をなぜるところを見るのがすきだった。絵本を読むのも上手で、漢字だって、ルビがふってあるならすらすらとつまらずに読んでみせた。絵はきまってうさぎやねこ、女の子もののキャラクターなど、女児の好むモチーフをもとにして描いた。これも上手で、千早が絵を描いていると女の子たちが集まってきてあれ描いて、これ描いて、とせがんだものだった。
千佳子は思った。ほら、何も問題ないじゃん。ちぃちゃんは何でもできて、とてもいい子で、みんなにも人気で、千佳子の自慢の友達だ。
千佳子はそう信じて疑わなかった。
それは、幼稚園の卒園式からしばらくたった日のことだった。千早が「どうしても遊びたいから」といって家に来たのだ。いま思えば、千佳子の母は良い顔をしなかっただろうが、千佳子が喜びできゃあきゃあ跳び跳ねたか、駄々をこねるか何かしたからか、理由の説明できない母は家に上げるしかなかったと見える。いずれにせよ、彼は家に上がったのだ。だって、彼が戸口に立っていたときの記憶は今でも、千佳子の中に鮮烈に残っている。
千佳子の目をまず惹いたのは、短い髪だった。
肩まであった髪はバッサリと切られて、細い肩越しに、向こう側の空の青がよく見えた。それは他の男児らと変わらないくらいの長さだった。しかし、それでも千佳子には、彼が髪の短い少女のように映った。結ばれた唇は依然としてやわやわと繊細で、そこに笑みは浮かべども決して歯は覗かせない。
「こんにちは。これ、おかしだけどよかったら……」
泡を食むような調子の言葉も、千佳子の母にお菓子の入った手提げ袋を差し出す手の動きも、きちんと揃えた足先も、すべてが痛々しいくらい少女めいていた。その短髪が何かの傷痕のようにすら思われた。
千佳子が上がろう、と言った。千早は黙ってこくり、とうなずく。ふたりはいつかもそうしたように、連れだって二階の千佳子の部屋に入った。
四月からは小学生になる千佳子の部屋には、既に真新しく大きな勉強机と、真っ赤なランドセルがあった。側面にはピンクの刺繍糸で花模様が刺繍されたそれを見るなり、千早はぼそりと口にした。
「ちかちゃんの?」
千早はランドセルの傍らに、ぺたんと座り込む。
「そうだよ」
「いいなぁ」
千早は、赤いランドセルに手を伸ばしかけて、やめた。

 

 千佳子は彼に尋ねる。
「ちぃちゃんもランドセル、買ってもらったんでしょ?」
「うん」
「どんなの?」
千早は一呼吸ほどおいて、背を向けたまま返事をする。
「黒」
声は不満げとまではいかないが、不本意であることを知らせるには十分な、暗い色を含んでいた。
千佳子は、さして距離もないけれど、駆け寄って彼の隣に座った。
「赤、背負う?」
うなだれた千早の大きな瞳が、ふ、と震えた。こちらをおずおずと見上げてくる。
「鏡あるよ」
千佳子は悲しそうにしている彼を見ていられなくて、せかすように言った。立ちあがり、彼の顔を見下ろす。
千早は、千佳子の顔と、彼女のランドセルとをちらちらと見比べた。やがて、ぺたりと床につけていた膝をひきよせて、立ち上がりながらぼそりと口にした。
「背負う」
それを聞いた千佳子は急いでクローゼットから姿見を抱えてきた。がちゃがちゃと、危うく倒しそうになりながらも姿見の脚を立て、未だにもじもじとしている千早の手を取って鏡の前に立たせた。
「ほら、背負って!」
千佳子は、自分の背丈の三分の一はあろうという赤いランドセルを持ち上げて千早の背中に押し付けた。彼の腕を通して、肩に引き上げる。
「どう?」
彼の肩に手をおいて、頭越しに鏡を覗き込む。背はまだ千佳子の方が高い。千佳子は彼の肩から、ちょうどはじめて補助輪を取って自転車に乗ったときに父がそうしてくれたような感じで、そうっと手を離した。
千早はくるん、と鏡の前で一回転して、背中のランドセルを確かめた。
そうしてもう一度回る。千佳子は、軸でない片足をちょんと上げて回る千早のズボンの腰に、スカートの裾が広がるのを見た気がした。
「いいなぁ……」
ほとんどため息混じりに呟く千早のあらわなうなじの白が、千佳子の目を刺した。
千早は鏡の中の自分としばらくにらめっこを続けていた。にらめっこにしてはあまりにも、その表情は寂しかったが。
「ありがとう」
鏡から目をそらさずに、ほとんど独りごちるような調子で彼は口にした。
「どういたしまして!」
千佳子は彼のいつになく重いトーンの声を引き上げようと、明るい声を出した。
それなのに、千早はまたも暗い声で話し始めた。
「ちかちゃん、あのね」
姿見からぱっと離れて、赤いランドセルを下ろす。いいの? と千佳子が聞けば、千早はいいの、とうなだれた。
「ちはやね」
千早は、自分のことを「ちはや」と呼ぶ。声はそう舌ったらずではないので、不釣り合いな感じがした。彼はその場に腰を下ろして、膝を抱き込むようにする。
「ちかちゃんとおなじ学校、いけないんだって」
最後の方はほとんど泣きそうな調子で、千早は言った。膝をつかんでいた手で、わっと顔をおおう。
「だめね」
ぐずぐずと鼻をすするおとがする。千佳子は呆然として、行き場のない両手を握りしめた。
ママは呼べない。ちかがどうにかしてあげなきゃ。
真新しい勉強机にくっついているハート型の窓つきの戸棚から、ティッシュを取り出す。
「だめって、いったのに」
嗚咽混じりに、肩を大きく上下させながら千早は呻く。
「男の子だからって、いったのに」
千佳子は、顔を覆っている彼の手にティッシュを押しつけようとして、やめた。
「だれが?」
「ママ、ちはやのママ」
しゃくりあげながら、千早はティッシュを受け取った。目は真っ赤に潤んで、じくじくしている。
「そんなの……」
あんまりだ。男の子だからって、泣けないなんてことはないはずだ。ちぃちゃんが誰だったとしても、泣いていいはずだ。
何を言ってあげればいいか、千佳子はわからなかった。次から次へとぼろぼろ流れてくる涙を黙って見ているしかなかった。
千早はしばらく、鼻をすんすん言わせながらしゃくりあげていたが、しばらくして、やや落ち着いたのか口を開いた。
「ちはやは今日これを言いに来たの、お別れしにきたの」
その声は、普段より少しだけ聞き苦しかった。
「ごめんね、ありがとう、かえるね」
千早は立ち上がった。震える瞳は千佳子を見ない。
「まって、ねぇ、もうちょっと遊ぼうよ、ね?」
千早の家は、ここから十分とかからない。それでも、こんな千早がひとりで家まで帰るのかと思うと千佳子の胸は痛んだ。
「だめだよ」
千早はきっぱりと言った。ぶんぶん、首を横に振る。
「だめだもん」
二回目のそれは誰かの言葉をなぞって確かめるような調子だった。
そこで千早は初めて目を上げた。揺れる瞳が、千佳子の不安げな顔を映した。
千早は目線をちらちらと彷徨わせて、やっとのことで口にした。
「おうちまで一緒にきてほしい」
千佳子は首が取れそうなくらいの勢いで、首を縦に振った。
「いーよ!」
それから二人は一階へ降りた。千早は千佳子の母に丁寧な挨拶をした。玄関まで来て、のろのろと靴を履く。黙って家を出て、黙って歩き続けた。道には誰もいなかった。コンクリートが春の日差しを照り返してぽかぽかとしていた。ふたりは何も喋らなかった。つんとすました千早の横顔で、泣いた跡といえるものは目尻のほのかな赤だけだった。
やがて、千早の家の前に着いた。赤い屋根の、れんがのおうち。少女趣味な家。ふたりは二、三秒ほど立ち尽くして、千佳子の方が口を開いた。
「じゃあ、ちか、帰るね」
千早は黙ってこくり、と頷く。ばいばい、と背を向けて千佳子は歩きだす。
彼の家の前から遠ざかろうとして、ふと足を止めた。
「まって」
小さく、しかし確かにそう聞こえた。振り向く。
そこには、千早が立っていた。家の門の前に数段、申し訳程度に据えたれんがの階段の上。シャツの胸と、門柱を手で握りしめて、じっとうつむいている。
千佳子は思わず駆け戻ろうとした。彼の小さなからだが、どこかへ吸い込まれてしまいそうな気がした。
千佳子があっ、と口を開こうとした、そのときだった。千早は庭の奥へ、木々の陰に姿を消してしまい、れんがの小道をいってしまった。
後にはなにも残らない。彼がぴったりと身にまとった年に似合わぬ悲しみの気流は、ドールハウスのものかと思われるほど、少女趣味なステンドグラスのドアの向こうに、消えてしまった。
その後、本当に千早は、千佳子の上がった小学校にはいなかった。後悔した。あのとき、確かになにかが吸い込まれたような気がしてならなかった。声をかければよかった。新しい家から手紙を送ってと、約束すればよかった。

次に東千早を見たのは、中学校に上がってからだった。
入学式。校門の前のボードに貼り出されたクラス分けをきゃあきゃあ言いながら囲んでいる、ぶかぶかの制服の群れを掻き分けて、やっとのことで前に出て気がついた。気がつかないはずがなかった。一年一組一番。東千早。
「あっ、あった! 千佳子ぉ、あったで、私と一緒、二組、にくみ」
興奮で頬を上気させながら、美里がボードの真ん中を指差している。その胸でセーラー服の真っ赤なリボンが跳ねていた。千佳子は振り向いたが、曖昧な笑みを返しただけだった。
「よかった」
「なんや、いやに落ち着いて」
「そうかな?」
落ち着いてなどいられるわけがなかった。千佳子はぐうっと背伸びして、辺りを見回した。
あの子がいるならすぐに気づくはず。
いた。まだ花冷えの頃の冷気に上気した、ばら色の頬。弓なりの眉、よく動く薄茶色の瞳。
それらをにちゃあっと歪めて、滅多に見えなかったはずの白い前歯をむき出しにして、「それ」は笑っているのだった。
「おまえなぁ、俺ハゲてねーしぃ!」
細い学ランの胸に、真新しい通学鞄が投げつけられる。それを細い腕いっぱいに受け止め、さもおかしいといった様子で友達と思しき学ランに投げ返した。厭わしく思われるほど快活な笑い声のなかに「彼」がいる。そんな状況に千佳子は一瞬、批判にも似た思いにとらわれた。
おかしい。赤いランドセルが欲しくて泣いた千早が、美しい悲しい気配を持っていた「女の子」の千早が、あんな下卑た笑いかたをするものか。
むくむくと裏切られたような気持ちが沸き上がり、いけない、と直感的に思った。そりゃそうだ、もう何年も経っている。小さい頃と違って当然だ。
そうは思っても、声はかけられなかった。足が動かなかった。あそこにいる千早には、もう千佳子は必要ないのだ。
「千佳子、なにしとん」
「いや」
何を否定したかったのか、自分でもよくわからなかった。
「入学式の前に一回教室入るんやって。いこ」
「うん」
千佳子が返事をすると、美里はツインテールをぶぅんと揺らして身体を横に曲げ、おおげさに下からこちらを覗き込んできた。
「…………お腹いたいんか?」
「幼稚園の頃の知り合いがいた気がして」
心配してくれているのに、いつまでも黙っているのは悪い。隠している理由もないし、はっきりと告げた。
美里は腰を曲げたまま、神妙な顔つきで黙りこくっている。なにかを考えているのか、と思えば、ぱっと口が開かれた。
「なんや、下に黒パン履いとんか」
は? 思わず声が出る。
「なっ、なにみて」
「いこ。遅れるで」
いつの間にか、クラス分けを貼り出したボードの前の人垣はまばらになっていて、皆、校門の向こうの長く緩やかなコンクリートの坂道をのぼっている。…………かなり上の方を。
と、その最後尾に美里が走り寄り、追い付いて、ぱん、ぱぁん、とコンクリの地面に真新しい運動靴を叩きつけて止まるのが見えた。
「はやっ」
思わず声が出た。これはいけない、と駆け出す。
美里がこちらを振り向く。ツインテールの片方が隣を歩いていた男子の後頭部を打ち据えた。わにゃわにゃと何か叫んでいる。はようきぃ、とでも言っているのか。
聞き取りづらい声でなにかをいい終えた彼女は満足げに坂を駆け上る。一番上まで来て、校舎の中へと駆け込んだ。
千佳子は彼女の後を追って、息を切らせながら走った。

 

 それからもしばらくは、千佳子と千早が再会をはたすことはなかった。廊下ですれ違っても、けたたましい笑い声と、喧騒の中にいる彼を見て、千佳子はゆっくり目を伏せてしまう。
その日も美里と廊下を歩いていて、手洗い場の前を通りかかったときに彼を見つけた。数人の仲間と水道の水を出しっぱにして泡をたててふざけているみたいだ。げらげらとけたたましい笑い声が嫌でも耳を刺した。廊下の灰色の床に叩きつけられて、にじみ広がる滴。それは、模範的な馬鹿な男の子の姿だった。
千佳子はふ、とまばたきをして、彼の姿から目をそらした。手洗い場の前を通りすぎる。美里の話が、宿題をしている横で流れるテレビ番組のように、耳から耳へと抜けて行く。
「この前言ってた幼稚園の子、あの子らの中におるんか?」
この言葉は、右耳に引っ掛かって止まったみたいだ。
「へ、ああ、うん」
突然のことにめんくらって、口ごもりながら返す。
「どの子? ゴリラ、茶髪、ほっそいの?」
「……多分細いの」
ハッキリとは見ていないが、体格はよくないし、髪も染めていなかったはずだ。
「はぇぇ、かわいい顔しとんね」
美里の一言に、意地悪い考えが一瞬ちらついた。
「ホントに?」
問いかけた。搾りだした重い批判だった。そしてすぐに気づく。なんてことを言ってしまったんだろう。どうしてこんなことが言える? これじゃまるで。
「ホントよ」
千佳子が口をおおうより早く、美里の軽い調子の声が応えた。
「まぁ、やっぱりって感じはしたけどな」
どうして、そう聞くより早く、こともなげに彼女は続けた。
「あの子、いっつもあんたのことちらちら見よるで」
「嘘だぁ」
吐き出してみて初めて、自分の言葉から悪意がほのかにかおるのを感じた。嫌になる。彼と話したいのに話したくない。
「ほんまやって。いたたまれんくらい。話したりぃよ」
このっ、この、と肘でつついてくる美里。なんと返していいかわからないうちに、チャイムが鳴る。美里が駆け出す。後を追う。手洗い場から何かをひきずってきたような心地がした。

 

 鍵は開いているだろうか。
昼休みに図書室で課題をしていて、その拍子にプリントを挟み込んだファイルを置いてきてしまった。家で気づいて夕方、それもかなりの暮れがたに家を飛び出した。走る。校門に駆け込む。坂をかけあがり、校舎に飛び込む前にちらっと時計を見上げた。六時。図書室の閉館時間だ。間に合うだろうか。
二階に上がって、一番突き当たり。階段を一気にかけあがり、長い廊下を走って、着いたときには肩で息をしていた。
誰かがこちらに背を向け、図書室の鍵を閉めようとしている。きっと図書委員だ。まって、と声をあげようとしたら上ずった。
図書委員が振り返る。薄茶色の大きな瞳が、千佳子を捉えた。
「あっ、ちかちゃん」
卵型の顔をぱっと輝かす笑みに、千佳子は記憶の中の彼を見た。

 

「俺だったら諦めるなぁ、家で寝ちゃう」
そう言いながら、にこにこする千早。指先でくるくるいじっている短い髪の毛は、今の彼にはよく似合っているように見えた。
「あった?」
「あった」
机の下からファイルを取り出して、ひらひら振ってみせた。
「そう、よかった」
「図書委員だったんだね」
久しく話していないので、言葉がどことなく他人行儀になってしまう。加えてずっと見かけても気づいていないをしてきたので気まずい。まさか気づいていないなんてことはないだろう。
「うん、火、金はここにいるからね」
そうして向けられた優美な微笑みはあの頃よりもずっと洗練されたものに映る。静脈を透かした寂しげなばら色の頬。彼の変化に関する理解がまるっきり間違っていたことを知る。彼の変化は段階的でなく、重層的だ。なにも捨ててなどいない。新しいものは降り積もり、一見変わったように見えても。
その無垢な笑顔が眩しく、後ろめたく、目をふっとそらしてしまう。千佳子は彼のカウンターに、きらきらした装丁の大きめの本が広げられているのを見つけた。おそらく、千早が図書委員の仕事中に読んでいたものと見える。
「それ、何の本?」
「画集。まぁ見てみてよ」
カウンターの中に入って画集を覗きこんだ。
薔薇のティーセット、レースのコースター、ぬいぐるみ、砂糖細工、お茶会をする、フリルとリボンにまみれた少女趣味な服装の少女たち。
「かわいいでしょ」
いつの間にかカウンターの中に入ってきていた千早が、後ろから言う。目線はいつの間にか、千佳子よりも高い。
「ぼくね、そういうかわいいものが今でもすき」
ぽつり、ぽつり、と大事に言葉をつむぐ。いい終えて、一世一代の大仕事でも終えたように、うーん、と大きくのびをする。
「久々に話せた」
その顔は本当に嬉しそうで。千佳子はつくづく自分が間違っていたことを思い知らされる。
「『俺』っていうにはちょっと苦労した、でも、皆と話すのは楽しい」
あの千早も、そしてこの千早も。すべて千早だ。千早じゃないやつなんていない。
「そう、だね」
何に対して同意したのか、文脈からは自分でもわからなかった。ただ、彼の気持ちに同意したかった。どんな千早も千早だ。周りのために自分を変えようと頑張った千早も、少女趣味な千早も。
察してくれたか、千早は小さく笑って見せる。口許に手を寄せて。
「ふふ、ありがとう」
今度は真っ向から、その笑みを受け止められた。

図書室を施錠して千早が鍵を返すのについていき、校舎を出る。半分沈んだ夕日に目を刺される。
そのとき、千早の手元がきらめいた。ぱっと見れば、カバンの紐に添えた手の先。細長い爪のうちひとつが、真っ赤に塗られている。千佳子はまるで、毎日そうしてしゃべっていたような調子で尋ねた。
「ねぇそれさぁ、どしたの?」