一人

雪村

 

 目を開けても一人。

 

 今日も、目が覚めてしまった。目を覚まして、一番に壁の予定表を確認する癖は消えない。今日も紙は綺麗なままだった。閉じたカーテンの隙間から差し込む光が眩しい。きっと、もうお昼時だろう。

 

 掛け布団が、枕元に置かれていたはずの目覚まし時計と共にベットから転がり落ちていた。落ち方が悪かったのか、時計の電池は辺りに転がっている。あれでは、たとえ目覚まし時計をセットしていても意味がなかっただろう。針は日付が変わる直前で止まっていた。あの時間、自分は何をしていただろうか。考えかけて、やめた。考えるまでもない。どうせ、何も考えずにダラダラと過ごしていただけなのだ。

 

 ぬっと身体を起こす。眠くはないが、怠い。そのままゾンビのようにふらふらと動いた。怠さはすぐにでも眠気に変換できそうではあったが、今はそれ以上に空腹だった。どうせ同じ部屋の中だ。ほんの数秒で冷蔵庫の前に行き着く。

 

 水のペットボトルを取り出して、一気に飲む。気分が変わるわけではないが、少し怠さが引っ込んだ気がした。それでもまだボウっとした頭で、今日は何を食べようかと考える。カップ麺はそろそろ食べ飽きたし、賞味期限にはまだまだ余裕があったはずだ。冷凍室のご飯は先週食べ切った。あぁ、そういえば。一昨日食パンを買ったのだった。値引き商品なので、そろそろ食べたほうがいいのかもしれない。

 

 袋から取り出したパンを、オーブントースターの中に突っ込む。時間は3分に設定した。最近火力が弱いので、これでも焦げ目が付くかどうか。そろそろ買い換えるべきなのかもしれない。とは言っても、新しいものを買えるほどの手持ちもないのだが。そろそろお前も積み立て始めとけよ、と言った黒縁メガネのスーツの声が聞こえた気がした。流石本職。しかし入ってくるものもないのに、どうやって貯めろと言うのだろう。

 

 チン、と言う音を合図に、少し硬く温かくなっただけのパンをトースターから取り出した。冷蔵庫から、マヨネーズも取り出す。あぁ、あと二本しか残っていない。明日にでも買いに行かなくては。

 

 マヨネーズの赤いキャップごと蓋を外して、パンにかけた。一口。美味い。マヨネーズをこんなにも美味しく感じるようになったのは、いつからだろうか。数年前までは、むしろ嫌いだった気がする。食にうるさいデブにでも影響されていたのだろう。そんなもんかけたら体に悪いし太るだろ、と声が聞こえた。そんな体型をしていて、よく言う。むしろ、そんな身体だからこそなのか。今ではさらに味にもうるさくなったであろう彼には申し訳ないが、僕は今となってはマヨネーズを作り出した人は神様だと思っているマヨネーズ信者だ。いや、マヨネーズ創造主信者か。マヨネーズはさしずめ神の使いといったところだと思っている。

 

 むしゃむしゃとパンを食べながら、狭い部屋をなんの気もなしに見渡す。家具の上にうっすらと埃が積もっているのを見て、掃除はこまめにやらないから大変になるのよ、と初恋の声が聞こえた。そう言う彼女の周りは、いつ見ても嘘のように綺麗だった。食べ終わったら久しぶりに掃除でもするか、と考えた。

 

 突然、電子音がなった。何処から音がするのか分からなくて、キョロキョロと首を回す。漏れて見える光で、見つけた。電子音はスマホから聞こえてきていた。着信音は久しぶりに聞いたな、と思いつつスマホを手に取ると、充電が残り六%だった。しまった。昨日の夜充電をせずに寝落ちたのだったか。

 

 電話は母からだった。いつになくテンションの高い声が、端末から飛び出してくる。

 

「今暇やろ、今すぐテレビつけて! 早よ早よ! 始まっちゃう!」

 

 急かされるままにリモコンでテレビの電源を入れようとしたが、反応しない。決して新しくはないが、お亡くなりになるほど古くなっているはずもないのだが。不思議に思って食べかけのパンを皿に置く。テレビの裏を覗くと、白い綿のなかでプラグが抜け落ちていた。思い返せば、自分で引っこ抜いていた気もする。あの記憶は、一週間前だったか一ヶ月前だったか。とにもかくにも、プラグを差し込んで、テレビの電源を入れる。その間にも、耳元の声はこちらを急かし続けていた。

 

 若干のタイムラグの後、テレビは息を吹き返した。番組はちょうど、一つのコーナーが終わろうとしているところだった。声が、一段大きくなった。

 

「なぁ、つけた? もうついたよな」

 

「つけたけど、何? もうコーナー終わったぞ」

 

「違う。それじゃなくて、次よ、次。次のコーナー」

 

 コーナーが変わって始まったのは、最近人気が出てきたというある新生バンドの特集だった。名前も知らないバンドだが、これを見せたかったのだろうか。それとも、自分への当てつけか。自然と目は横に立てかけてある、歪な形の黒いケースに移る。いいよな、成功者は。そう思ったときに、懐かしい声が聞こえた気がした。

 

 ──こんにちは。ボーカルの松本綾です。好きなことは、整理整頓。犬より猫派です。よろしくお願いしまーす。

 

「な、見て見て! 綾ちゃんやろ! すごいよなぁ。頑張ってんねんなぁ」

 

 耳元から聞こえる声が邪魔だった。久しぶりに見た彼女は、僕が知っている姿よりも格段に大人びて見えた。バンドのメンバーは4人で、女性は彼女は一人であった。彼らは、画面の中でひどく楽しそうに笑いあっていた。

 

 足元で、コンっと音がした。見ると、手に持っていたはずのスマホが床に寝ている。画面はもう暗くなっていて、ボタンを押してもうんともすんとも言わなかった。暗い画面に映った自分の姿を見て、泣きたいような笑いたいような気分になったので、大声で笑っておいた。腹の底から笑った。涙が出るまで笑って、笑い疲れて、それでもまだ少し笑いながら、伏せてあった二つの写真たてのうち古い片方だけを立てた。どうでも良い特集を始めたテレビは、プラグから引っこ抜いた。

 

 写真を覗き込む。まだ幼い顔をした4人と目があった。デブは日に焼けた手をメガネと僕の肩にかけて、笑っている。僕は嬉しそうに同じく焼けた腕でデブと肩を組み、メガネは暑そうな顔をしながらも誰よりも白い手でピースをしている。その中心で、彼女は満面の笑みで両手を前に伸ばしていた。そっと写真に触れて、願う。

 

 そっと写真の前から離れて、僕は何事も無かったかのように、残っていたパンを口の中に押し込んだ。

 

 あぁ、僕は酷いやつだ。酷い、裏切り者だ。

 

 楽しかったあの頃に戻りたいと、マヨネーズのパッケージに描かれた天使に祈った。

 

 

 

お題

 

「楽しかったあの頃に戻りたいと、マヨネーズのパッケージに描かれた天使に祈った」