人生最後の日に見た夕日は、ただの赤くて眩しい光だった。

 

 人生最後の夕日を見た後、人間ともそれ以外とも言えない、何者でもない単なる『僕』が最初に見た光景は朝日だった。言うなればその朝日以降の時間は、『死後の世界』とも呼べるだろう。しかし僕はその世界で、確かに他の存在から独立した一つの生命として時間を過ごしている。一度迷い込めば二度と出られないであろう、深い、深い、森の中で。誰にも見つからないように、ひっそりと。

 

 木々の間から漏れてくる光が、うっすらと赤みを帯び出した。そろそろ寝床を探さなければならない。余計な体力を消費しないのは、自然に身を任せる上で最も重要な戒律である。

 

 だが今すぐ眠るのは些か空腹感が心許ないので、もう一匹ぐらい虫でも鼠でも探しておきたいところだ。かつての我が身だった人間に今の食生活を知らせたら発狂するだろう。

 

「すいません。そこの烏さん、言葉は分かりますか?」

 

 声がする方を向くと、珍しいことに、そこには一頭の狼がいた。僕は小さく頷いた。

 

「あなたは人間ですね?」

 

 僕のことを最初に烏と呼んでおきながら、この質問は矛盾しているようにも思える。確かに精神は人間だった頃と変わらない。しかし、あなたは人間か? と問われれば、例え人の姿を保っていたとしても自信を持ってそうだとは答えられないだろう。人間でありながら、僕は人間の世界から逸れてしまった身だ。狼の質問には、「分からない」と答えた。

 

「なるほど。あなたは、迷っておられるのですね。烏のまま生を終えるか、人としてやり直すか」烏の発言に違和感を覚え、問いただす。

 

「……なぜ、人としてやり直せることが前提に?」

 

「それはもちろん、機会が与えられるからですよ。もし自分と一緒にその機会をものにすれば、烏さんも人に戻る選択肢が得られます。よろしければ、手伝ってはくれませんか?」

 

「仮に、機会を手にしたとして、絶対に人に戻るのですか?」

 

「そういう訳ではありません。ただ選択肢が与えられるだけです」

 

 数十秒もの間沈黙が続いた。沈黙を破ったのは、僕の、「よろしくおねがいします」という一言だった。思わず自分の口から出た言葉に心底驚いた。人に戻るということは、過去を縛める苦悩に自ら身を投げ出すことを意味する。迷うも何もない、人間に戻る選択肢など、最初から要らない。僕は何がしたいんだ?

 

 分からない、不可解だ、と頭に言い聞かせる一方で、心は既に僕がとった行動の意味を理解していた。本当は恐れていただけだった。自分の存在を考えることで、内臓を握られるような、肺に煙幕を詰められるような、そんな感情の荒波に飲まれたくなかっただけなのだ。その荒波を泳いで渡らなければ、自分という名を冠する島には辿り着かない。かつて僕はその島を目指した。もう一度挑みたいという希望はあったのだ。僕はずっと、もう一度挑む機会を待ち望んでいた。過去の因縁と、後悔を晴らす為に。きっとそれだけだ。

 

 

 

「自分には仲間がいるんです。カラスさんにも紹介します」

 

 狼は後に付いて来いと言った。特に反抗する理由もないので承諾した。狼が走り出すと同時に羽ばたいて宙に浮き、上空から彼を見下ろしながら追跡する。走る狼と空を飛ぶ僕は、全く変わらない速度で目的地に向かっていく。

 

 森を抜けた頃にはすっかり日が暮れていた。月と星々の光に朧気に照らされる草原が、遍く視界を覆った。狼は僕とは反対の方向を向いているようだったので、一瞬だけ首を上向けてみると、暗い海の底を無数のプランクトンが各々に光を放ちながら漂っていた。周囲の光に気圧されて、満月が主役の座を占めることに遠慮しているようにも見える。あまり見惚れていると逸れてしまいそうだったので、僕は直ぐに狼の方を向いた。狼はきっと何度もこの光景を見ているのだろう、こちらの感動が覚めやらぬ内に星空に興味を失ったらしく、前方に向き直ってひたすら走っている。四方を草原に囲まれるぐらいの位置に来た辺りで、狼は移動をやめた。彼の目の前には、森の木に比べれば幾分可愛らしい小振りの木があった。

 

「ここで仲間と待ち合わせをしています。もうすぐ来るので、しばらく待ちましょう」

 

 狼の言葉に従い、手頃な太さの木の幹に着陸して、狼と同じ方向を向き仲間とやらを待った。ちょうど月が見えている方だった。程なくして月の下から、大きな影が這い寄ってきた。背中に一つ、隣に一つ、小さな影を伴って。影はゆったりと形を露わにしていく。人間の頃に蓄えた記憶は、近づいてくる三つの影に名前を与える。

 

 巨大な影は象、その背に乗っているのは兎、象の右側を歩くのは猿だ。

 

「オオカミ君、仲間は見つかったかい?」

 

 象は容姿に似合わない雛鳥の囀りのような声で狼に尋ねた。

 

「見つかりましたよ。木の上にとまっている、カラスさんです」

 

 狼が僕を紹介したので、軽く頭を下げながら。「初めまして」

 

「やった! 念願の鳥だぜ」象の無骨な足先を軽く叩きながら、猿が歓喜する。

 

「でもカラスだよ?」猿とは対照的に、象の背に乗った兎は烏への不信感を示す。

 

「烏さん、今からが本題なんですが、まだ起きていられますか?」狼が尋ねる。

 

「構いませんよ。徹夜の経験はありますから」

 

「はは、徹夜する必要はありませんよ。少し説明をしてから睡眠をとって、明日の朝、目的地へ移動しますので」狼が苦笑まじりに告げた。狼の苦笑を聞くとは、中々稀有な体験だ。

 

「説明、というのは?」

 

「我々が集まる目的について、だね」象が答えた。続けて彼が言う。

 

「烏、君は――もし人間に戻れるなら、戻りたいと思うかい?」

 

「分からない」言語化の困難な葛藤を、最も平易な言葉で伝えた。

 

「そうか、君はまだ迷っているのか」

 

 象は徐々に熱量を込めながら語った。象は言った。

 

「我々は、人間として再出発するか、獣のまま生を終えるか、試されているんだ。ここは、かつて我々が放棄したはずの、『明日以降の世界』は……未練を残した自殺者達を人間としての生活から隔離して、最後の選択を迫る場所なんだよ」

 

 

 

 昨日の話の内容は、眠気のせいもあってか、象の台詞を除いてあまりよく覚えていない。あの発言は単なる前置きに過ぎなかったらしいが、彼らの本意を汲み取れなかった僕は、冒頭の衝撃に心を奪われて本編を聞きそびれていた。だから今把握しているのは、これから僕達が『楽園』という目的地に向かうということだけだ。

 

「道のりは長いですから、水を飲む場所などを見つけたら教えて下さい」

 

 穏やかな口調で狼の忠告を受けてから、出発した。この狼の穏やかな態度は、粗暴で冷酷な一般的な狼のイメージとはかけ離れている。まぁ、所詮一般的なイメージというのは、ただ狼が大型の肉食動物、つまりは人間の脅威であるという理由だけで恐怖や憎悪の対象として形成されてきただけのものなのだ。案外動物も、人間に形作られたイメージを仮面として被って踊り続けている奉仕上手な道化に過ぎないのかもしれない。人間も同じだ。だから時に自分の素顔を見失って、全てを投げ出したくなるのかもしれない。仮面を脱ぎ捨てる。たったそれだけで解決するとも知らずに。

 

 草原を抜け、一行は森の中へ入っていく。昨日まで僕が暮らしていた森ではなく、別の方角にある、背の高い木が鬱蒼と生い茂る森である。一行は雑談も挟まず、順調なペースで前へと歩みを進める。空を飛ぶ身分である僕は、常に上空から一行を先導しつつ、距離が離れる旅に手頃な木を見つけて休息を取った。森の中に小さな川を見つけて、一行はそこでしばしの休息を挟む。

 

「ところでさ、あんたはなんで烏になったんだ? 烏よ」

 

 水面に映った烏と対面した瞬間、随分と哲学的な質問を猿がぶつけてきた。

 

「……なんでって、そんなの、理由なんかあるんですかね?」

 

「あるよ。前世の生き方の戒めとして、それに見合った姿に変えられるんだ」

 

 兎の言葉を心臓が理解した瞬間、全身に薄くモザイクがかかった一人の人間が脳内に現れた。その人間は、嫌われ者だった。話し下手で、周囲から空気を読まないと評判で、誰からも疎まれていた。霧が薄れていく。徐々に色や輪郭線がはっきりしてくる。霧が晴れる。人間は、黒い翼と、黒い嘴と、黒い羽根を持っている。烏だった。

 

「兎さんは、どうして、兎に?」

 

 烏の癖におうむ返しをした。質問には答えられたのに、なぜか言葉にならなかった。

 

「自分の質問に先に答えて欲しいところだけど……まぁいいや。俺はね、ただの兎じゃなくて、兎と亀の逸話に出てくる兎なんだよ。何をやっても上手くいったから、驕ってゴールの前で昼寝してたらさ、いつの間にか大勢の亀に抜かされてた大馬鹿者さ」

 

 抽象的ではあったものの、兎の話は僕の脳内に具体的な人物像を描き出した。何をやっても上手くやれるが故に驕り、才覚に溺れた哀れな兎。

 

「因みに俺はことわざに出てくる猿、木から落ちる猿だぜ。昔陸上競技の選手やってたんだけど、ある時頭から転倒して、大怪我しちまってね。死にはしなかったけど、体の右半分が動かなくなった。全くよー、事故の時死なせてくれれば楽だったのになぁ」

 

 冗談めかして猿は自身の過去を詳細に語るが、兎より、そして僕より遥かに悲惨な目に遭っている。大怪我を負う危険性は、誰しもが等しく持ち合わせている。きっと注意を怠っていた訳ではないだろう、彼には抗いようもなかったのだ。自身が積み上げた希望を、一瞬にして奪い去る、気まぐれな神の悪戯に。

 

 一行は移動を再開した。薄暗い空間を、俯き気味に進む。翼が重い。いつしか森の中の鬱蒼とした部分は過ぎ去り、釈迦の垂らす蜘蛛の糸のように、白い光の筋が差し込んだ。僕の心は垂らされた糸に縋って地獄から這い上がり、余裕が出来たようで、苦悩以外の目的に使える脳の容量を確保した。その結果、潤滑な機能を取り戻した僕の思考は、ある疑問に至った。――なぜ彼らは散々な目に遭っておきながら、再び前世に還りたいと願う?

 

「みなさん、着きましたよ。『楽園』です」

 

 狼が楽園と呼ぶその場所に、僕の持つ前世の知識は遺跡に改名したいと訴えてきた。苔の生えた乳白色の石を何十、何百段にも積み上げた荘厳たる石壁と、城の門を彷彿とさせる巨大な木製の扉がその威容を目下に晒した。

 

「門は私が開けるよ」

 

 象が扉に両前足を乗せ、体重をかけた。地面と擦れ合い、重厚な音を響かせながら、ゆっくりと扉は押し開かれていく。扉の中は、霧のようなものがかかってよく見えない。ただ、向こう側に常識の介在しない奇妙な存在があるのは本能的に知覚可能な範囲にあった。得体の知れない異界との境界線を、真っ先に象が跨いだ。続いて狼、猿、兎……柄にもなく躊躇した僕は、入るのに数秒の時間を要した。

 

 扉の奥は案の定、奇妙を体現する場所と呼ぶに相応しかった。幻想的と言ってもいい。点々とまばらに生える低木は、葉が桃色だったり青かったりと色彩豊かで、丸や四角、五芒星だったりと、幼稚園生の落書きのような有様だ。池は宙に浮き、花に至っては空気中に浮くだけでは飽き足らず、酷いものでは魚のように跳ねたりする。

 

 そして何より奇妙なのは――鏡があるわけでもないのに姿を現した、自分と瓜二つの烏だ。象も兎も猿も狼も、皆、それぞれ精巧に作られた等身大人形と対面している。

 

「何なんですか、あなたは」

 

 生じて当然の疑問のはずだが、意外にも僕以外に同じ質問をしている者はいなかった。おそらく同じ経験があるのだろう、予め想定済みの対応をしている。瓜二つの烏は何も答えずに飛び去った。まるで僕の存在など、微塵も興味がないとでも言いたげに。

 

「競う相手は自分自身とさ。中々に燃えるシチュエーションだろ?」猿が言う。

 

「自分自身と、競う?」試練があるとは予測していたものの、競技性があるとは想定外だ。

 

「あぁ。簡単に説明するなら、ただの宝探しだ。鍵四本、箱一つを先に見つけたら勝ち、それだけの単純なルール。どれか一つでも欠けたら負け。その瞬間鍵も箱も消滅して、この試練は不合格となる。今走り去っていった彼らは、もう宝を探しに行ってる。四人揃った前回はあと一つ鍵を探し切れなくて終わった。狼と私だけだった頃はもっと散々な結果だった。そう言う訳だから、申し訳ないが、質問を受け付けている暇はない」

 

 ゲームの内容に腑に落ちない点はあるが、象に言い分に従って消化不良のまま飲み下す。

 

「兎と狼と烏、私と猿。一先ずはこの組分けで探索する。こちら何かあったら私が叫んで知らせる。そちらに何かあったら、狼が遠吠えでもして欲しい」

 

 兎と狼は無言で頷き、走り出した。置いて行かれないように急いで羽ばたく。

 

「烏さんは他の者に構わず、楽園内を飛び回って鍵と箱を探して下さい。そして回収出来そうなら回収して、無理そうなら他の者を呼んで下さい」

 

 確かに、折角空を飛べるんだからその方が効率的だ。昨日、猿が僕を見て喜んでいたのはこのことだったのか。翼をはためかせて飛び上がり、細部まで見渡せるぐらいの高度を維持して巡航する。一時間もしない内に、きらきらと日光を反射する小さな鍵を地面に咲く顔付きの花の中に見つけた。花はよく分からない独り言を呟いている。すぐさま鍵目掛けて降下し、足先で掴み取る。「やめて、やめて」と花が抗議するが、無視する。ほとんど何の苦労もなく一つ目が手に入ってしまった。近くにいた象へ見せに行くと、探している鍵で間違いないとお墨付きを貰えた。猿から絶賛された。こんなに簡単にことが運んでいいものかと疑問に思いながらも、捜索を続けていると、またしても一時間弱ほどの時間で二つ目を見つけた。ところが二つ目は厄介なことに、顔付きで、魚のように動き回る花の中に鍵が入っている。動き回るとは言えど、よく見ればそこまで素早くはない。この体で本気で捕まえに行けば問題はない。そう高を括った状態で地面に接触する寸前まで降り、狙いを定める。接近に気付いたのか、急に花の動作が機敏になった。「こわい、こわい」片言で花がそう言うと、忽然と姿を消した。透明にでもなったのだろうか、これは手に負えない。そう悟り、一旦着地して仲間を呼ぶ為に全力で叫んだ。烏らしい鳴き声を発したのは、これが初めてだった。

 

「烏さん、どうかされましたか?」俊足を誇る狼が真っ先に駆け付けた。遅れて兎が現れた。

 

「透明になる花が鍵を持っていました。僕ではどうにもなりません」

 

「なるほど……そう言うことなら、自分に任せて下さい」」

 

 狼には珍しく、やけに得意げな様子で、ふんふんと周囲に聞こえる音量で鼻を鳴らす。すぐに目付きが鋭くなり、獲物の姿など一切見えない空間を睨みつけ始める。そして間も無くして、躊躇いなく猛烈な勢いで駆け出し、何かを両前足で捕獲した。

 

「やりましたよ、烏さん!」狼の前足の先には、先程発見した喋る花が握られていた。

 

「どうやって見つけたのかは知りませんが、とにかく助かりました」

 

「臭いで見つけたんですよ、狼は鼻だけが取り柄の動物ですから。こちらこそ、烏さんのおかげで大助かりです。あの時、あなたを見つけておいて本当に良かった」

 

 今の所は上手く行っている、この分なら、問題なくことが済む――なんて、一瞬でも思いかけた自分が恥ずかしい。この楽園の中にいる鳥は自分だけではない。もう一匹、瓜二つの奴がいる。事の重大性と脅威を認知したが故に、陰鬱な懸念が血液に乗って全身を巡り始める。筋肉が硬直し、脳が萎縮する。そんな心情を悟ったかのような間で兎が僕に話しかけた。

 

「俺にも出来ることはないか? 何かあれば手伝うぞ」

 

 兎に出来ること――数十秒、脳細胞に過酷な労働を強いた結果、一つの案が捻り出された。

 

「喋る花の声は聞こえますか? 二回とも喋る花が鍵を持っていたので、おそらく三つ目も同じです。声が聞こえたら、すぐに見つけられるかもしれません」

 

「なるほど、やってみる」兎が耳をピンと立てる。兎の聴覚がどれほどのものかはよく知らないが、聴覚を武器にしている動物である以上、少なくともこの場の誰よりもいいはずだ。

 

「あの青い葉っぱの木だ。あの木から、甲高い話し声が聞こえる」

 

「ありがとう」僕は急いで飛び去った。

 

 瓜二つの動物達が連携行動を取らないのは、不幸中の幸いだろう。単体で挑めば困難な試練も、助け合えばこれほどにも簡単に達成出来てしまう。皮肉屋のこの世界の神様は、前世で孤独になりがちだった僕らに、助け合うことの大切さとやらを教え込もうとしているのだろう。痛いほどに分かってしまったのが、なんだか悔しい。

 

 この時、もしも上空にいる生き鏡に配慮していれば、敢えて迂回して分かりにくい順路で青い木に近付いただろう。しかし、焦り半分、期待と興奮半分で埋められて思考のスペースを脳内に確保出来ていなかった僕は、致命的な失敗を犯した。上空から様子を伺っていた生き鏡に、後をつけられてしまっていた。二匹の烏は、同時に目的地に到着した。否、僅か一瞬、生き鏡が鍵を手にするのが早かった。

 

「残念だったね、烏くん。コピーの方に追いつかれてしまった。本来なら君に鍵はあげられないし、ここで不合格確定なんだけど……どうしようか?」

 

 顔の付いた青い木は、片言ではなく、流暢に言葉を操っている。

 

「折角だから、理由を聞こうかな。この鍵が欲しい理由。試練を乗り越えたいから! とかは採点対象外だからね。面白いやつを頼むよ」

 

 理由と聞かれて、何も言葉が思い浮かばなかった。きっと、まだどちらになると決めた訳ではないからだろう。代わりに浮かんだのは、なぜか二匹と二頭の動物だった。一体彼らは僕に何を語れと言っているのか、分からない。都合の良い妄想も甚だしいが、僕には心なしか、彼らが微笑を浮かべているようにも見えた。もし鍵を貰えなかったら、許して貰えるまで謝ろう。そう考えると少し肩の荷がおりたようで、口も自然に開いた。

 

「……僕、未だ迷っています。烏としてあるべきか、人としてあるべきか。しかし、例えどちらになったとしても、悲観的に未来を捉えてはいません。僕の在り方を無理に探す必要などなくて、誰かが思う僕のままでいい。本当に大事なのは、自分を認めようとしてくれる誰かと出会うことなんじゃないかって、今はそんな風に思います。そう思わせてくれた動物達との出会いに、感謝しています。強いて言うなら、彼らの為です。その鍵を下さい」

 

「うーん……ぎりぎり合格」青い木は、満面の笑みがこぼしながら僕にそう告げた。

 

 木の葉の間から、銀色に光る小さな鍵が落とされた。鍵を奪い合う相手は、もう側にはいなかった。地面に落ちた鍵を回収し、再び空を飛んだ。狼達のところへ戻ろうとすると、もう既に象と猿も合流していた。どうやら箱も見つかったらしい。聞けば、象と猿が見つけてくれていたようだ。手先の器用な猿が率先して解錠した。箱の中には、一枚の古地図が入っていた。古地図が示す先は――教会だった。

 

 試練を終えてから日が暮れて、また朝が来て太陽が頭上に登るまで歩き続けた。長い旅路の中で、各々の過去の話など、大半は愚痴のようになってしまったが、暗い気分になることもなく気楽に話した。そのやり取りの中で、こんな一幕が印象に残っている。

 

「あーあ、前世に帰ったら怪我人かよ。なんか帰りたくねぇな。よく考えたら、イカした人生送れねぇじゃねえか!」

 

 大袈裟な動作で猿は頭を抱えた。その様子が時折テレビに出てくる芸達者な猿みたいで、猿以外の全員が笑った。話題は決して明るくないのに、誰も哀しげな雰囲気を流さない。

 

「そんなこと言いだしたら俺もデブのニートだぞ。挽回すんの難しいぞ」と、兎。

 

「痩せて働けば済む問題じゃない」象の冷徹な返答に、またも笑いに包まれた。

 

「何はともあれ、自分達は、変わればいいだけですよ。自分のことが嫌いなら、嫌いな自分を追い出してしまえばいい。それが前を向くということですよ」

 

 急に真面目くさって狼が言った。僕を除いて、一頭と二匹は深く頷いた。しかし僕だけは、『変わる』という言葉にどうしても引っかかる部分があった。果たして本当にそうするべきなのだろうか。前世はまだ、自分を認めてくれる誰かに出会えていなかっただけなのではないだろうか。或いは、もう出会っていて、ただ気付いていなかっただけなのでは――?

 

 答えが見つからないまま、草原の中に佇む小さな教会に辿り着いた。教会の周辺は雑草もきちんと刈り取られていて、人の手が行き届いていることを感じさせる。逸る気持ちを抑えられないのか、先走る猿が教会の扉を叩くと、白い髭を蓄えた相応な雰囲気のある老人が現れた。この世界に来て初めて目の当たりにする人間だ。格好から判断するに、いわゆる神父だ。

 

「長旅ご苦労様です。さぁ皆さん、疲れたでしょう? 中にお入り下さい」

 

「私はどうすれば?」誰の目からも明らかに、教会の扉では象の巨体が入れる余裕はない。

 

「心配要りません。扉をくぐる頃には、人の姿に戻っておられますから」

 

 ここでもいの一番に猿が扉をくぐった。すると不思議にも、扉を開けた瞬間、猿は痩せ型の車椅子に乗った若者に姿を変貌させた。それを見た兎が、後に続いた。兎は猿と対照的に、小太りの中年男性になった。意外にも、狼は高校生の物と思わしき制服を着た少年で、さらに衝撃だったのは、象がかなり小柄な女性だったことだ。

 

 問題はその後に起こった。烏だけ、扉を越えても烏のままだった。

 

「烏さん、あなたとはまた後で話をするとしましょう。しばしお待ちを」

 

 神父はそれだけ言って、扉をばたりと閉めた。だが不思議と、一人になった気も仲間外れにされた気もあまりしない。どうせ人間に戻れば別れるのに変わりはないのだと割り切っているのもあるが、純粋に、彼らが人間に戻るのが嬉しかった。そう思うのはやはり、彼らといた時間が楽しかったからなのだろう。彼らと過ごした時間が。

 

「すみませんね、烏さん、少々時間をとりました」神父が扉から出て来た。

 

「いえ、気にしてませんよ」飾らず、素直な感情を伝えた。

 

「ええ、そのようですね」なぜか神父に知ったような口を聞かれた。

 

「あなたにも、あの試練の意味について先に話しておきましょう。烏さん、なぜあの試練の中で、挑戦者は自分と瓜二つの動物と競うのだと思いますか?」

 

「……超えなければならない、壁だから?」確認するように尋ねる。

 

「概ね正解。しかし、百点満点なら九十点です」「残り十点は?」間髪おかずに問いただす。

 

「自殺というのはね、どんな境遇に晒されていたとしても、結局最後に手を下すのは自分であって、他の誰かに強いられる訳ではない。それは、自分自身に負けたことを意味するんですよ。だからあの試練は、自分との闘いを体現して、あなた達に勝利を要求した。程度に差はあれど、誰しもにとって最大の敵は自分自身です。それが生きるということです。烏さん、なぜあなたが人に戻らなかったか、理由は分かりますか?」

 

「なぜって……まだ人と烏の間で、迷っているからなんじゃないですか?」

 

「いいえ、違いますよ。あなたはもう、烏として生きることを受け入れたんです」

 

 烏として生きること。僕という人間はずっと、現実から目を背けるという形で抗い続けてきた。烏の姿になってからもそうだ。動く、食う、眠る……生きることを順序が一定の単純作業の連続だと位置づけて、それ以上の価値を認めようとしなかった。しかしこの三日間、僕が烏である時間は苦痛ではなかった。恥ずかしいとも、虚しいともかけ離れていた。烏でいる時間が、楽しいとさえ思った。

 

「先に教会に入った彼らは、もう以前の自分と決別する意志を固めておられた。彼らももう迷わないでしょう。きっと来世は、前世とは比にならないほど良いものになるはずだ」

 

「彼らはもう、前世には……」

 

「ええ。自ら命を絶って、過去の自分を完全に捨てると決意したのですから、前世に戻すのは相応しくありません。決別とは、向き合わなければならない過去からの逃避でもあります。仮に前世に還ることを望んでいたとしても、その選択をする資格はないでしょう」

 

 自殺者である僕達は、罪人を犯したことに変わりない。それは言い逃れも、申しびらきも不可能な事実だ。世の中に生きる全ての人が当然のように向き合い、挑み続けている試練から、誰の許可もなく逃げ出したのだから。

 

「じゃあ僕は、あのままあの森で?」

 

「それを望むなら、それでも構いませんが。あなたにはもう一つ、選択肢がありますよ」

 

「どんな、選択肢でしょう?」

 

「もし、もう一度、あなたの現実と向き合う覚悟があるなら……教会の中に入り、目を閉じて祈りを捧げて下さい。あなたの人生を、好きな時間からやり直す権利を与えましょう」

 

「……少し、考えさせて下さい」

 

 僕が結論を出す頃には、もう太陽は西の空に沈みかかっていた。鳥として見る最後の夕日もやはり、ただの赤くて眩しい光だった。どうせこれからも何度も、同じ光を見る。

 

「烏さんの人生に、幸多からんことを。心よりお祈りしております」

 

 餞別の言葉と共に、神父は教会の扉を開けた。何度か羽ばたいて、僕はその中に入った。

 

 もう迷わない。僕は烏だ。――烏のような、人間だ。