或る下校時の長田生

うすらい

 

 今崎ナオキって知っとる?

 

 うん、そうそう、この前集会のときに前で喋らされてた陰キャ。二組やねんあいつ。いや、いっつもつるんでねぇし。今崎がおれに寄ってきてるだけやし。付き合いも浅くて、長田に入ってからやもん。

 

 今崎がどこに住んでるかわかる? わからんよなぁ。……いやいや、わからんで当たり前なんやって。俺、一回あいつの家に呼ばれたことあって、夏やったと思う。うん。音楽部の練習が夕方まであるから行けんって言うたんやけど、夕飯だけでもって食いに来てくれって泣きつくから。そう、泣きだしてん、あいつ。教室でやで。ついつい勢いで、わかったって言ったんや。あいつの家、阪神電車で新開地まで出るやろ? そっから訳わからんクソマイナーなローカル線に小一時間くらい乗って着くねん。

 

 これがまた魔女屋敷みたいな有様でさぁ。軒先に真っ黄色した小さいバラが塀にしなだれかかるみたいな感じで、ぶわぁって咲いてんねんけど、塀の下に茶色の染みが広がってるから、なんやと思って見たらこれが全部バラなんよね。枯れてグズグズになった黄色のバラ。爛熟ってこういうことを言うんやなぁ、とか思って染みを覗き込んでたら、後頭部になんかボトって当たってん。うわって思って手をやったら、青虫やった。でも言うて小指の先程度の小さいやつやったから、気持ち悪いなぁとは思ったけど、弾き飛ばしたんよね。そのとき初めて俺はバラのつるを見たんよ。おんなじのがびっしりついとった。小さい青虫がびっしりついとったんよ。な? もういややろ、ありえんやろ、こっからインターホン押す気にとかならへんやん。でも俺押したんよ。だって一時間近くかけてきたわけやからね。

 

 そしたら今崎がはぁいって出て来るやろ。庭を横切ってこっちにくるわけや。入って入って、って言うけどもう俺は気が気じゃないんよ。庭はなんかよくわからんハーブが植わってて辛いニオイやら甘いニオイやらが入り交じってて気が変になりそうな感じやし。庭でこれなら家とかどうなってんねんって思った。

 

 家の中は案外普通やった。普通やった、けど……なんでかお姉さんしかおらんかった。お姉さんは普通の人やったよ。今崎みたいにいきなり歌い出したりせぇへんし……いや、普通ではないんかな。モノ凄い美人やった。なんかこう、儚げな美人って感じで……正直なんで今崎にあんな美人のお姉さんがおるんかわからん。

 

 後、めちゃくちゃ料理が上手かった。今崎からは度々自慢されてたんよね。「うちのお姉ちゃんは料理が上手いんやで」って週に五回は言われてたかな。どうせまた嘘やろって思ってたんやけど、これはマジやった。小花柄のテーブルクロスの上にさ、料理が無限に出てくるのよ。いくら友だち呼んでるからってやりすぎやろってくらいに。ええっと、何食べたかな……なんか小エビにそら豆のクリームをどうこうしたやつと、白身魚のムニエルやろ、ビーフシチューのパイやろ? あれが一番美味かった。デザートがアップルパイとチーズケーキの小さいやつやった。これも手作りって言うから驚きやで。もう、すごい美味しかったんよ。今崎の自慢もわかるなって思った。

 

 それからまぁ、これは恥ずかしい話なんやけど……。俺は今崎が毎日持ってくる弁当の中身が気になって、新学期になってからはさりげなく一緒に昼飯を食おうとしてたんよね。うん。あっ、別にもらおうとかそういうんじゃないで? やっぱりどんな凄い弁当なんか気になるやん。それでさ、やっぱ凄いのよ。毎日凝りようが尋常じゃないのね。まず入れものが小さいお重みたいな、漆塗りのやつでさ。中が九つに区切られてて、ひとつひとつに手作りのおかずとか、きのこご飯とかが入ってるのよ。お重の内の真っ赤な色にも見劣りせんくらい色とりどりの。幕の内みたいなやつね。もみじの季節だからかな、もみじ型にくり貫いたニンジンとか、散らしてあってさ。デザートには和菓子屋でしかお目にかかれないような萩の花の練り切りまであるわけよ。ぞっとしたわ。最早料理が上手いどうこうの話じゃなくて、執念じみたなんかを感じるやん。

 

 でも俺は、今崎が弁当に箸をつけるとこを見たことがなかったんよ。なんでかな、弁当の蓋を開けても、いっつもあいつは「セートカイに呼ばれた」とか言って、弁当持ってどっかに行ってまうわけ。あいつがそんな毎日生徒会に呼ばれるわけないやん。それでさ、今日、俺、つけてみたんよ。いつもみたいにスマホをわざとらしく確認して、やれセートカイが、とか抜かしよるからそうか、とか返して、あいつが教室を出ていくのを見たわけ。それでちょっと時間をおいて後をつけるやろ。あいつ、生徒会室なんかに向かわんかった。二階の、職員室前のトイレに入りよった。

 

 おいおい、あいつ、俺というものがありながら便所めしか? なんや水臭いな……とか思ってさ。俺はズカズカ歩み寄った。トイレの中まで入った。これが間違いやった。

 

 長田高校のトイレってやっぱり臭いな。中に入っても今崎は見当たらんかった。大便用の個室やろうなぁと思って、歩いて行った。おーい、って声かけようとして、ドアが開けっぱなしなのに気づいた。向こうだって俺に嘘ついてるんやし、別にええやろって思って覗き込んだんや。

 

 便器の中には、もみじが浮かんでた。

 

 オクラと里芋の和え物と栗ご飯が、黒い箸に掻き出されて便器の中に落ちた。オクラが箸に絡みついて銀色の糸を引いてた。箸はくるくるっと動いて、オクラを便器の中に振り落とした。こがねいろをした大粒の栗が、ぽちゃんって便器の水面に落ちていった。筑前煮のレンコンやら、飾り切のコンニャクやらは箸でひとつひとつつまんで。きのこご飯は箸の角度も浅めに掻き出して。焼き鮭は身をほぐしてすこしずつ。

 

 最後に萩の花がポトリ。便器の中には色とりどりの海が出来上がってた。

 

 俺が声をかけようとした、そのときやった。信じられんことに、奴はこっちにはまるで気づかん素振りで、お重と箸をまとめるや否や水を流した。便器の中にごうごうと渦が起こった。何もかもが跡形もなく消えた。あいつのお姉さんが早朝から精魂込めて作ったおかずは下水に流れていった。

 

 俺はあっけにとられとったが、なんか言うてやらんと気が済まんかった。あいつはまだこっちに気が付いてないみたいやった。おい、って怒鳴って見上げた。まだ気が付かん。

 

 それどころか、笑っとった。ひとりでじいっと黙って、硬くなって、顔だけがにこにこしとったんや。お重のつつみを手首に下げて、両手をすり合わせた。乾いた音がした。前かがみになって、モノスゴイ笑顔で、小さく「ありがとう。ご馳走さま」って言いよった。

 

 もう見てられん、これ俺に気が付いたらどうなるんやろ、そう思って、気がついたら自分の教室に駆け戻っとった。気が気じゃなかった。無理。あんな奴とは付き合ってられんわ……。ウン。

 

 ……アッ。こんにちは……。エッ、と。いつから、うしろ、に……。買い出し、ですか……ええ、ええ。お久しぶりです……。この前のお料理は大変美味しくて……ハハ……。

 ……。