彼岸花

伽藍洞

 

 古本のページをめくると、チョコレートの匂いがした。少し黄ばんだ紙はぱりぱりと音を立てて、僕に撫でられている。

 

『罪と罰』

 

 すうっ、と指を滑らせると、紙はまたぱりぱりと音を立てた。

 

 

 

 彼岸花はお好き?

 

 私と対面で座って福神漬けをつついていた片割れは、なんの脈絡もなくそう言った。私は少し考えて、うん、好きだよ、と笑ってあげた。その笑顔を見て片割れは、そう、とつぶやいた。素っ気ない。でも、私は知っている。福神漬けを運ぶ口元に抑えきれずにこぼれた笑みがあることを。そして私はいつも、その狂気的な笑みに気づかないふりをしてあげている。

 

 いつからか、片割れは私に、彼岸花はお好き、と聞くようになった。毒々しいまでに真っ赤な異様な形をした花びら。すらりと伸びる深緑の茎。その、花として異端ともいえる様相に片割れは傾倒したらしい。私は別に花に興味はないから、好きか嫌いかと聞かれてもなんとも言えない。それでも、好き、と言ったら片割れが喜ぶのだったらそうしてあげよう、と決めているのだった。

 

 しばらくして、片割れはようやく福神漬けをすべて食べ終えた。食堂はもう人もまばらになっている。それでも特段急ぐふうもなく、片割れはグラスにそそいだ水に口をつけた。ゆっくりと水を口に含んで、こくりと嚥下する。そうやって、あまりにもあまくおいしそうに水を飲むものだから、私は少し気になって、一口くれない、とお願いした。すると片割れは優艶に微笑んで私の口にグラスを当てた。舐めてみて、と言うから、言われた通りに水を舐めると、むせ返るようなあまさだった。あまい、あますぎる。まゆをひそめて片割れを見やると、またその水をこくりとやりながら、おいしいでしょ、と笑った。こんな水をおいしいなんていうのはこの片割れくらいだろう、と思いながら、私は笑ってあげた。

 

 その次の日も、私は片割れと対面で座っていた。片割れはうどんを啜っている。おいしい、というわけではないようだった。ふわあ、とどこからともなく漂ってきた金木犀の香りに耳を傾けて、うどんを咀嚼している。私も、秋だなあ、なんて思いながら、片割れがうどんを啜るのを眺めていた。ふと、片割れは思い出したように顔を上げて、そしてやっぱり、彼岸花はお好き? と私に聞いた。私はやっぱり、うん、好きだよ、と答えてあげた。

 

 片割れはゆっくりとうどんの麺を咀嚼して、やっと食べ終えたらしかった。そして、こんっ、とラーメン鉢をトレイに置くと、赤い薩摩切子を二つ取り出した。そして一つを私の方に滑らす。私はそれをどうすれば良いのか、皆目見当もつかなかったので、とりあえず、切子の赤い口にすいーっ、と指を滑らしてみた。ふぁらーん、と薄く響く。なんとなく、悲しくて、懐かしい音だなあ、と思った。まるで哀れんでいるような、そんな音だった。

 

 そうやって私が手すさびしている間に、片割れは自分の切子に水を入れたようだった。そして、私がもてあそんでいた切子をぱっと取って、とぽとぽと水をそそいだ。むせ返るようなあまい匂いが漂っている気がした。八分目くらいまで水がそそがれた赤い切子が私の前にことり、と置かれる。赤い切子はまるで彼岸花のようだった。そう、まるで、彼岸ばな、の、よう――?

 

 ぱっ、と私は顔を上げて、片割れと目を合わせた。片割れはにっこり微笑んで、彼岸花はお好き? と言った。だから、私もにっこり微笑んで、うん、好きだよ、と言った。そして、くいっ、と切子を傾けた。むせ返るようなあまさが口の中に広がった。やっぱりあますぎる。けれども、昨日よりはずっとおいしい気がした。

 

 切子の水を飲み終える頃には、私はもう、息をするのも苦しくなっていた。案外、脆いものだ、と他人事のように思った。息をしない方が楽な気がして、それでも、本能は息をしようとするものだから、余計に苦しくなった。片割れは、喘息の発作だから、と言って、早退けの許可をもらってきたらしい。予鈴も、本鈴も、とっくの昔に鳴っていて、もう五時限目らしかった。しん、と静まり返る中庭を荒い息を響かせながら通り過ぎて、片割れに支えられながら校門を出た。振り返ろうかと考えて、やっぱりいいや、と思った。

 

 私の罪は、片割れを愛したこと。

 

 私の罰は、片割れに愛されたこと。

 

 だからもし、君が自分を責めているのなら、君は自分を責めなくていい。

 

 

 

 ぱり、とページをめくると、そのあとはもう白紙だった。何も書かれていないページがぱらぱらと音を立てて滑り落ちる。

 

 僕は少し――いや、大変に興奮していた。躰の内からふつふつと湧いてくる熱が、内側から皮膚をたたいて、どうしようもないくらいに快感を抱いてしまうくらいには。

 

 僕だって決して、自分を責めていないわけではなかった。君の自由を奪ったという罪の意識に苛まれて、眠れない夜もあった。警察にでもいって僕が悪いんです、と言おうかと考えたこともあった。

 

 それでも、そんな僕でも君は受け入れてくれるんだね。

 

 君を閉じ込めたことを許してくれるんだね。

 

 ありがとう。僕の罪も、僕の罰も、君と同じだよ。

 

 

 

 きっと僕たちのお話の結末は、こうだったんだ。