不変態

賽子

 

 グレーゴル・ザムザ症候群。佳澄がそう診断されてひと月が経とうとしていた。これは思春期の中高生にばかり見られるもので、時折ひどい寂寥感と倦怠感、それに伴う吐き気や目眩に襲われる。そして何より辛いのが、自分の体が醜い虫、それも多足類と思われる巨大な甲虫に変身したという錯覚に陥ることだった。

 

 グレーゴル・ザムザとは、大文豪カフカの代表作「変身」の主人公。この物語はグレーゴルが朝起きると虫になっていたところから始まる。それに因んでの病名だった。

 

 幸い佳澄の症状は抗鬱剤さえ飲めば学校に行ける程度のものである。しかし、奇しくも「変身」は佳澄の愛読書であり、それが一層彼女の精神を虚にさせた。なんとなく苦しい。初めはなんとか登校していたが近頃は動く気力も湧かず、ベッドの上に体を横たえる。そんな日々が十日ほど続いた。

 

「佳澄、起きてる? お客さん」

 

 母親のおどおどした声が扉の向こうから聞こえる。返事をしなければ母は諦めるはずだ。客とやらも帰るに違いない。そう思った。

 

「おっはよー! 佳澄。どうせ起きとるんやろ? 入るでー」

 

 亜樹だ。

 

 香澄は頭まで布団を被った。ドアノブをひねる音がする。

 

「ノート、見せにきた」

 

「……ありがとう」

 

 わざわざ来なくても、写真を送ってくれれば良いのではないか。そんな言葉を飲み込んで、佳澄は布団から顔だけを出して口端を上げた。

 

 ノートを受け取ってパラパラとめくり、最後に文字の書かれた頁より少し前から読み始める。小学生の男の子みたいに汚い字だけど、上手くまとめてあってわかりやすい。授業を聞いているかのようにすいすい内容が入ってくる。そうかと思えばかなり説明不足なところもある。きっと、取るに足らない内容だったのだろう。天才の亜樹にとっては。

 

 佳澄はその頁を食い入るように見た。

 

「……どうしたん、佳澄?」

 

 佳澄は亜樹の方をキッと見た。そうかと思うと、佳澄は自分の体を壁に打ち付けていた。それは自分の体に貼りついている何かを拭い去ろうとしているように見えた。そのうちに、佳澄は床に倒れて、肩を使いながらうつ伏せで這い、亜樹のところまで来た。手足は存在を忘れられたかのように脱力している。喉からピィーピィーと音を出しながら、時々その四肢を椅子やベッドの脚にぶつけた。

 

「……大丈夫やで、佳澄。私がおる」

 

 亜樹は佳澄を抱擁した。辛いだろう、苦しいだろうと言いながら涙を流した。

 

 佳澄はその背中に、手を回さなかった。

 

 

 

「佳澄、体育受けるん? 大丈夫なん?」

 

 翌日、佳澄は登校した。二時限目は体育である。のろのろと着替えて、長い階段を登ってグラウンドに立つ。そこには隣のクラスの亜樹もいた。

 

「……別に」

 

「そっか。よかったな!」

 

 亜樹は佳澄の背中を優しく叩くと、集団の前方に姿を消した。なんで体育だけ二クラス合同なのだろう。佳澄はそう思った。

 

 先生が開始の笛を鳴らした。

 

 亜樹はやはり早い。もう男子を何人も追い抜いていた。

 

 佳澄はゆるゆると足を繰り出す。

 

 秋風が佳澄の髪を撫でた。

 

 それはひどく硬い風。四月のまだ入学したばかりの頃に知ったのはこの高台にあるグラウンドから臨めるのは、息の詰まるような、かすんだ景色ばかりだということ。見渡す限り、家、家、家。そこから吹く風に情緒など求めようもない。ただ家々を抱く端山だけはそれなりによかった。でも、今の佳澄の目には映らない。

 

 閉塞感のある景色。木々に囲われたグラウンド。その景色を見下ろし、グラウンドの中にいるしかない自分。同じ場所にいるはずなのに自由に走っているように見える亜樹。

 

 すでに自分の半周近く先を走る幼なじみを見ながら、佳澄は泣いた。彼女の薄い胸は押し寄せる言葉で張り裂けそうだった。

 

 天才になりたい。天才になりたい。天才になりたい。天才になりたい。天才になりたい。天才になりたい。天才になりたい。天才になりたい。天才になりたい。

 

 そう、亜樹みたいな天才に。

 

 何度叫んでも、叶うことのない桃源の夢。どれだけあがいても、決して縮まることのなかった差。昔からずっと一緒にいるはずなのに、彼女より努力してきたはずなのに、同じ学校に合格したはずなのに、いったい自分と亜樹は何が違うのだろう。

 

 客観的に見ても、昔は佳澄の方が賢かったように思う。でも気がつけば亜樹は自分よりずっと遠くにいる。そして亜樹に対して薄汚い感情を抱くようになった。それでもなお、彼女は佳澄を思ってくれる。こんなに惨めなことが他にあるだろうか。

 

 汚い。

 

 自分が汚い。

 

 外見が醜いだけなのとはまた違う。それは身体中の毛穴から汚水が流れ出るように、佳澄の体のうちより湧いてくる。その汚水の光沢は、やがて、油を引いた中華鍋のように黒光る、甲虫の殻になった。腹の側面には無数の足が生えていて佳澄の意思に反してちょろちょろ動く。もはや靴を履いているという感覚さえない。

 

 佳澄は自覚した。この、自分の体が虫であるという錯覚と、亜樹のことを見上げる自分自身へ抱く感情はまるで別のものではないのだ。それどころか……。

 

「なあ、亜樹。私が虫に変身したわけやなかったんやね」

 

 そう言いたかったが、人間の声はもう誰にも届かなかった。ただピィピィという音が喉から漏れるばかりだ。

 

 タイマーの電子盤が赤々と八分七秒を映し出した。佳澄は今、四肢を使って神撫台グラウンドを這いずりまわっている。

 

 彼女の頬についた白い砂が涙に濡れた。それは流れ落ちて、グラウンドに染みを作っていく。

 

 その変色した砂を視界の端に捉えて、佳澄はとうとう人としての意識を手放した。

 

 十六歳の十月のことであった。