偽善者

安野深砂

 

 今日も来てしまった。胸を刺す罪悪感を紛らわせたくてか、意味もなく腕時計を見やる。暗闇の中に、黄色い光がデジタルに、PM10:49の表示を浮かばせた。

 

 手探りで照明のスイッチを押す。と、二、三秒遅れて室内に白が満ちる。眩しさに一瞬目を覆い、その手を外すとそこは──講堂。

 

「よぉ、今日も来たのか」

 

 舞台上に、彼の姿があった。あぐらの上に頬杖をつき、端整な顔をにやりと歪ませて、こちらを見ている。その目はどこまでも鋭く、心の、光の差し込まない底の方まで見透かしてしまうようで……私には、その感覚が心地よく思えた。

 

「本日はどんな役をしたいのですか、お嬢さん?」

 

「……偽善を、殺すような」

 

 彼はおやおや、というように眉を上げ、今度は声を立てて笑った。

 

「そりゃ、大変だ。代金は高く付くぜ。まあいい、教えてやろうじゃないか。さぁさぁ、こちらへどうぞ」

 

 私は彼に手を取られて舞台へと上がり、瞼を閉じた。耳の奥で何かが弾ける音がして、景色が一変する。

 

 

 

 私は電車で座っている。扉が開いて老婆が乗ってきた。今、空いている席はない。さぁ私、頑張るの。勇気を出して、席を譲るのよ……でも別に、お前が譲らなくたって誰かが立つさ。ほら、疲れているんだろう? 眠った振りをするんだ……。

 

 目の前に、募金箱がある。今にも折れそうな程に痩せた子供の写真に、あなたの百円で、あんなことやこんなことができます、という文字。財布の中には五千円。百円くらいなら。だが、惜しむ気持ちが沸き起こる。私だって私の百円で、あんなことやこんなことができるのよ。私の? いや、両親が必死に働いて得た百円じゃあないか。この恵まれた生活は、私の努力の結果などではない。私は、この五千円を持つに値する人間なのか? ……いや、いいじゃないか、それはお前が貰ったんだろう? じゃ、全てお前のものだ。ゲーセンで使い果たそうが破り捨てようがお前の勝手さ。

 

「ねえー、今回のテスト、ホントにダメだったんだけど。もぉ、いや!」あの子が叫んだ。明らかに慰めて欲しがっているのだ。「大丈夫だってー。まだまだこれからだよ」何時もなら、こう言う。けれど、「あんたテスト前、遊び倒してたじゃない。あれでいい点が取れるって方が驚きなもんよ」あの子は傷付いた顔をした。別に、私は思ったことを言っただけ……。ああでも、イイキブン。うざったいあの子がしょげてるの、あぁぁ、もっと言ってやりたい。これまでの憂さ晴らしをしたい……。

 

 道で誰かとぶつかった。相手の荷物が飛び散る。私は何も言わずに歩いて行く。だって急いでいるんだもの。ぶつかったのはあっちじゃない? 拾ってやる義理なんてない。地面に這いつくばって、自分で拾っていればいいんだわ。

 

 ああ、ああ、ああ、イイキブン。全て、私のしたいようにすればいいんだわ。

 

 

 

「こいつ、堕ちましたかねえ?」

 

「ああ、連日の甲斐があった」

 

 講堂の舞台の上、横たわる少女を悪魔達が取り囲む。一人の悪魔が少女の胸に指をひたし、透明な糸を引き出した。

 

「へっへっへっ、堕ちた奴の魂はうめぇからなあ」

 

 悪魔はその糸を小瓶にいれ、蓋をした。

 

 

 

「優しいね」なんて言われると、胸が苦しくなった。いい人ぶろうとする自分を知っていたから。私は、偽善者呼ばわりされるのを恐れていたのだ……でも今日からは、そんな思いをする必要も無い。なんてシアワセなんだろう!

 

 ……でも、席を譲らなかったとき、募金箱から立ち去ったとき、あの子を傷つけたとき、相手を倒して知らんぷりをしたとき……私は本当にそうしたかったの? 心の底にあったのは偽善だったのか、それとも……。