思い出

もくう

 

 自分の呼吸音が煩い。

 

 あいつは、どこにいる? きんとした冷たい廊下の壁に手をあて、目の端だけで曲がった先を確認した。誰もいない、渡り廊下。少年少女のざわめきが残っているような気がして、目を細めてくるりとアーチを描く鈍色のベンチのへりを見つめる。人の気配は、無い。ただざわめきの残り香が微かに有るだけ。ゆっくりと、白いがたがたした壁に手を添わせて歩みを始める。吹き付ける風が手の温度を奪うのを感じながら、一足ずつ″けはい″に近付いて行く。高い音が聞こえ、思わず足を止める。体育館の屋上で何かが動いているような気がしたのだ。屋上にはただただ灰色が広がっていて、何も無い。非常灯の緑色だけが瞳に届いて、まだ電気の通っていることに少し驚いた。木々のざわめきに耳を凝らして、電気が通っていることに今まで気づかなかった自分への怒りをふんわりと鎮める。非常灯なら今までもあっただろうに、焦りは禁物。そう小さく呟きながら前に向き直り、暗いドアの向こうに目を向けた。右足をそっと白い床に下ろす。あまり音が響くのは気にしなくて良さそうな素材であることを確認してするりと体をドアの間に差し込む。

 

 高くそびえ立つ赤いもの、青っぽい大きな板、丸いタイヤのようなものが付いたなにか。自分が身を隠せるものがあるのはありがたいが、あいつが隠れている可能性だってある。息を殺して歩を進めていくと、急に光が見えて反射的に体が強ばった。

 

 月。人工的な光ではないあたたかさにほっとして息をほう、とついた。″けはい″は目の前の部屋からしている。

 

「手間取らせやがって」

 

 呟いた言葉が廊下に反響し、首を軽くすくめる。あれさえ回収すればこちらのものだ。あいつに渡る前に自分の手に収めてしまえば良い。口角をくいとあげてドアまで歩いていく。第一ここは俺の母校だ。地の利があるのだから、あいつより先にここにたどり着けるに決まってる。懐かしい、「調理室」の文字を見つめる。班に分かれて、料理を作ったりしたっけ。無機質な白い扉に手をかけてがらりと動かす。奥にある、人工的なような自然的なような不自然な煌めきに目をやり、そちらに向かって歩く。

 

「なんで母さんは俺に頼んだんだろ。別にあいつらでも良かったのに」

 

 夜中に突然届いたメールを思い出して、また呑気に眠る弟妹の顔を思い出しながら愚痴を吐いた。

 

 

 

 それはさ、

 

 ぼくがきみにあいたかったからだよ。

 

 

 

 耳に、聞こえるはずのない、でも聞きなれた声が届く。どうして。こいつの気配はずっとしていなかった。確かに学校にたどり着くことは出来る。俺の母校を知るこいつなら。俺をよく知るこいつなら、だけど、だけど! 注意深く、忍んで忍んでこの部屋まで来た。人が沢山いるはずの場所で、さっきまで俺は一人だった。それをまちがえるはずがないのに。ああ、ダメだ。反省する暇があったら、考えろ。こいつから逃げる方法を。母のお使いを完遂できないことより、こいつに捕まってしまうことの方が怖い。……怖い? 何を言ってる。怯えるな。立ち向かうと決めた。早く振り返れ! 思い切って足を動かそうとした瞬間、肩に重い衝撃が走った。世界が斜める。縦長の机が斜めになり、横長に変わる。何だ。何が起こっているのか解らず歪んでいた視界を直そうと目を瞬く。嫌な感触がする。両腕を、床に押さえつけられている。それだけで、あの日を思い出す。しかも、しかも、俺の手首を掴んでいるのは、俺を床に押し倒しているのは──

 

 それを認識した瞬間、俺の意識は爆発した。怖い、怖い、こわい。幼いあの日を思い出す。どんなに泣いても誰も来ない。ただこいつの″遊び道具″だったあの日。

 

 美しいそのくちびるが何を意味して動いているのか、何も分からない。ただ俺は、生暖かいものが頬を伝うのを感じながら、友だちとくだらない話をしながらハヤシライスを入れて食べた皿を見つめていた。

 

 *****

 

 目をうっすらと開くと、しろい天井。母が柔らかい手で俺の頭を撫でた。昨日のメールはあいつが母を語って出したものだったらしい。″けはい″もあいつが用意した物。

 

「そもそも、大切なものを私が忘れてくる訳がないだろう? 騙されるだなんて阿呆だな。普段から何を見ているんだ」

 

 ぽんぽんと紡がれるお小言をぼうっと聞いていると頬をつつかれる。顔を上げて目に入った母のいたずらっぽい笑顔に釣られて強ばっていた顔が緩んだ。修行が足りない、ってか。

 

 確かに部屋の近くに行ってからは周りに気をやってなかった。その瞬間をあいつは待ってたわけだな。いつか、あいつに勝てるように。あの日から前に、進めるように。こちらを心配そうに見つめる弟妹たちを横目に、大きく声を立てて笑った。